閑話休題

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7:36〜8:03だから基本的に今日本が使っている漢字の二文字の熟語というのは、明治時代に欧米の本を日本語に翻訳する時に、それまでの四書五経の漢文になかった概念を、日本人が新たに漢字二つを組み合わせた。だから、古典の漢語にない。それを中国人が後で輸入して・・・、それなのに漢字は全部ウチが教えてやったって・・。

  西欧概念の漢語訳は、江戸時代の『解体新書』〔安永3(1774)年刊〕辺りから始まっていますよね。この時代の蘭学は、医学が中心であり、それに関連する本草学、改暦に必要な天文・暦学、さらに西洋事情、地理学へと発展して行きます。そして、明治に至る訳です。
 漢字文化圏の人間(中国・台湾・韓国・北朝鮮)が、現在、母国語で高等教育を受けられるのは、日本人の努力のおかげです。「漢字を捨てた」韓国は思いもよらないことでしょうけど。

 漢字文化圏でないその他の国は、旧宗主国の言語を覚えないと、欧米概念の理解が不可欠である高等教育は受けられません。

ネットでひろったインド人の意見
■ 日本はインドにとって本当に頼りになるパートナーだよ。
インドがイギリスに支配されてる時も助けてくれたし、
インド国民軍を設ける為にチャンドラ・ボースの部隊を訓練してくれたんだ……。
インドの独立を助け、英国を追い払ってくれた日本には、ありがたさに頭が下がる。
今は膨張する中国の影響力を抑えるっていう共通の目標が出来たね。 +10

■ 日本はアショーカ大王の頃から続く、インドの一番古い友人の1つだもんね。
第一次・第二次世界大戦の時だって良好な関係を保ってたしさ。
偉大な指導者、チャンドラ・ボースとの関係や、
インド国民軍が日本の助力によって創設されたことからもそれが分かる。 +5
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■ それはあまり言わんといてw
実際のところは当時のインド人が支持したのは、
イギリスをサポートしたガンジーとネルーだったんだから。
イギリスが二人に、「イギリスが戦争に勝ったらインドを独立させる」
っていうふうに伝えてたからなんだけどね。

■ 本当は軍事産業を取り仕切ってるアメリカに立ち向かうために、
インド、中国、日本の3カ国が共闘するべきなんだけどな……。

中国の蒋介石と毛沢東は、大東亜戦争で白人の手先になった。
シナ人は、有色人種の裏切り者なのだ。
戦後になって、朝鮮人はシナ人にならったのだ。

■ いや、中国はパキスタンを助けてるし無理でしょ。 +7

■ 日本と中国は独立した国家だ。
だけどインドは結局、今もイギリスの植民地なんだよ。
インドが先進国になることは絶対にないって言える。
すべての西欧諸国、そして多くの東アジアの国は、
自分達の言語で物事を学べるから、先進的な国民になる。
だけどインドやアフリカ人は、宗主国の言語で学ばないといけない。
だから先進的な国民にはなれないんだよ。 +2 -1



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気になったところ

7:17〜7:23「気骨(きこつ)の折れ候」→「気骨(きぼね)の折れ候」
                 詳しい説明

37:20〜37:22 慶喜は、「天皇」にだけ弱い。
       高橋源一郎は、徳川慶喜が水戸学に影響されたのを知らない。
       幕末と慶喜を動かしたのは水戸学なのだから、
       このテーマのコメンテーターとしては、イタイ。

39:47〜39:54 慶喜の辞官納地
       原文では、「退官」納地と読める。
       後に定着した明治政府の歴史用語「辞官納地」に持って行くまでに、
       一言あるのが歴史を見直すことにつながるのではないか?



大政奉還のあと討幕派はいかにして王政復古に持ち込んだのか
  東京都港区赤坂の氷川神社には、享保15(1730)年まで備後三次(みよし)藩浅野家の下屋敷があった。三次藩浅野家は、浅野内匠頭(たくみのかみ)夫人・阿久里(あぐり)の実家で、刃傷(にんじょう)事件以後はここに引き取られ、落飾(らくしょく)して瑤泉院(ようぜんいん)と称した。
 実話ではないが、大石内蔵助が瑤泉院をいとまごいに訪れる『忠臣蔵』の「南部坂 雪の別れ」の舞台はここになる。

1985年 年末時代劇スペシャル「忠臣蔵」 
「南部坂雪の別れ」








南部坂談義

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藤原保昌 月下弄笛図

藤原保昌月下弄笛図(ふじわらのやすまさ、げっかろうてきず)

昔(平安時代中期)、袴垂(はかまだれ)というたいそうな盗賊の首領がいた。

 この男が、旧暦10月(現在の11月)ごろ、衣服が欲しくなったので、衣を手に入れようとめぼしいところを物色していた。すると、夜中ごろに、人がすっかり寝静まった朧月の下を、指貫袴(さしぬきばかま)をして、絹の狩衣(かりぎぬ)らしい軟らかそうなものを重ね着して、笛を吹き、ゆったりと急ぐでもなく歩いている人がいるではないか。
「ああ、これこそ、カモだ。俺に衣をくれようと出てきた者だな。」
走りかかって、打ち伏せて衣を引き剥ぐつもりだった。
 ところが、不思議なことに、この人がなんとなく怖ろしく感じられて、手を
出せないまま、二三町(約200〜300m)ほど後ろについて行く。この人は、誰かがつけて来ていると感づく気配もない。悠然と静かに笛を吹いて歩いている。
イメージ 1
『原野月』(月岡芳年画『月百姿』)

 袴垂は、「試してみよう」と思い、わざと荒々しく足音を立てて走りよると、少しも慌てた様子もなく、笛を吹きながら振り返った様子は、襲いかかれそうもなかったので、あわてて走り退いた。
 このように何度もいろいろ試してみるが、少しも怖がったり慌てたりして騒ぐ気配がない。
「ただ者ではない」
と思いつつ、十町(約1Km)余り付いて行った。

イメージ 2

 「だが、やってみるか。」と思って、袴垂は刀を抜いて走りかかった。
相手は、今度は、笛を吹きやめて、立ち止まってふり返り、言った。
「おまえは、何者だ。」
すると、袴垂はどうしたことか、肝がつぶれて、死ぬほど怖ろしくなって、無意識のうちに膝をついてしまった。
「何者だ。」
と重ねて聞かれると、今度は逃げてももう逃すまいと言う気配が感じられたので、
「追剥ぎでございます。」
と答えた。
「名のれ。」
「またの名を、袴垂(はかまだれ)と人は呼ぶ。」
「そういう者がいると聞いてはいる。ぶっそうな、とんでもない奴め。
付いて来い。」
とだけ言って、また先ほどと同じ様に笛を吹いて歩いて行く。

 この人の様子から、今は逃げても、決して逃すまいと感じられたので、鬼神に魂を奪われたように、正気もなくふらふらと付いて行くと、屋敷についた。
「ここはどこだ。」と思えば、摂津の前司(ぜんじ:前任の国司)・藤原保昌(ふじわらのやすまさ)という人の屋敷だった。
 家の中へ呼び入れられ、厚手の綿入れを一着与えられた。

「今後、このようなものが欲しいときは、この家に参って言え。
相手の力量も確かめず、打ちかかって捕まってしまったのが、お前だ。これからは、気をつけることだ。」
保昌に言われた時は、言葉にならず、この人が、噂に聞いた保昌であったのだと思うと、生きた心地もしないで、恐ろしかった。

 「凄い雰囲気の人だった。」
その後、袴垂が捕らえられて、こう語ったと言うことだ。(『宇治拾遺物語』)。

 この保昌は、代々の武士の家に生まれたのではなく、某という人の子である。しかし本当の武士に劣らず、肝っ玉がすわり、腕が立ち、力も強く、思慮深かったので、
お上(天皇、または朝廷)もこの人を武士として召し使ったのだった。
世の人で、この人を恐れぬものはなかったほどだったが、子孫を残すことはなかった。もともと武門ではなかったせいかもしれぬ(『今昔物語』)。

 この文章は、以下の資料などを参考に、現代文として読みやすいように改変・編集した。
そういう訳で、高校生は古典の正確な現代語訳とまちがってこれをマル写ししてはいけない。

私のコメント
 藤原保昌(ふじわらのやすまさ)(958ー1036年)は、源頼光の家臣といわれ、頼光四天王渡辺綱坂田金時碓井貞光卜部季武)とは別格あつかいだった。平安中期の貴族で、武勇に秀で、歌人でもあった。和泉式部は、この人の妻である。
 これも伝説的な盗賊・袴垂(はかまだれ)を持ってきて、「さしもの袴垂も、保昌にはかなわなかった」と、保昌がいかに強かったかを伝える説話だろう。

 しかし、実話として考えてみる。
 袴垂は、寒くなってきたので、追いはぎで着物を盗ろうと考えた。そこへ出てきたのが、保昌である。この当時、貴族が着ている衣を褒美として、目下の相手に与えるという話がよくある。保昌の着衣は絹の貴重品で、高価だった。
 袴垂は、奪った保昌の着衣は「自分で着るよりは、売る方が得策」と、考えを変えた。だから、いきなり斬りかかっては、着物が切れたり血のりが付いたりで、売り物にならない。なんとか、おとなしく脱がせるやり方を思案したのである。これが、袴垂の迷いになった。斬りかかろうにも、斬りかかれないのである。
 一方、保昌は、「殺気がないところを見ると、刺客ではない。物盗りだろう。いきなり斬りかかって来ることはあるまい。それも、一人だからあわてることはない。」と考えていたらしい。保昌は戦いの場数を踏んでいて、しかも冷静だったから、盗賊のあせりは手に取るように見えていたのではないか?
 保昌が着物を与えたのは、「場合によっては、袴垂を手下にしてもよい」と考えていたからだろう。

 月岡芳年が「藤原保昌月下弄笛図」を描いて出版(版画)したのは、明治16(1883)年だった。
 右手から中央にかけて、前にしなだれかかるすすきの穂や葉が、左手の満月の下では、遠い背景として描かれ、すすき野の奥行きと広がりを感じさせる。
晩秋の夜風にあおられてなびくすすきの穂と頭上の烏帽子。ひるがえる保昌の狩衣の袖。飛んで行く薄墨の断雲が満月をよぎろうとしている。絵の右から左へ、すすき野をざわめかせて吹き渡る野風の動き。すすきの葉擦れで、笛の音もとぎれとぎれに聞こえそうだ。保昌をつけねらい、今にも斬りかかろうとする盗賊。文字どおり、「風雲急を告げ」ているのだ。これから穏やかならぬ事件が起きる場面である。その中で、悠然と笛を吹く藤原保昌の静けさ。
緊迫感が実にいい。

   難を言えば、保昌の身体が伸びきっていることか。
もう少し歩幅を広く、重心を低くさせ、いつでも対応できる姿勢をそれとなく見せた方がよい。武術家は、どう言うだろうか?

追記・藤原保昌について

おまけ:「保昌と袴垂」は歌舞伎「市原野」になり、画題になっている。いくつかの例を紹介します。
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豊原國周(くにちか)作        歌川国芳作(1852年)       一恵斉国幾作「横笛」

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香川県「旧山下太鼓台」水引幕(太鼓の台を覆う飾り幕)の刺繍   芝居「市原野のだんまり」
明治30年制作                                袴垂役(7代目・市川中車)
                                         保昌役(15代目・市村羽左衛門)


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