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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成30年(2018年)8月3日(金曜日)弐 通巻第5778号
http://melma.com/backnumber_45206_6716322/
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  明治、大正、昭和、平成の四代を生きた逓信省員は樺太で何を見たか
  北海道の鰊漁がすたれ、青年は大志を抱いて樺太へ渡った
  ♪
佐藤守『ある樺太庁電信官の回想』(青林堂)
@@@@@@@@@@@@@@@@
 この物語は、フィクションではなく実話である。発見された日誌をほぼ忠実に復刻したものだが、平凡な通信員と思いきや、まことに波瀾万丈の人生が展開されている。
しかし、ドラマになるほどの激変要素は少なく、見方を変えて謂えば、あまりにもきまじめな逓信公務員の前半人生の記録である。とはいえ、在職中に五十数カ所の勤務先転勤という変動する時代を生きた。
 主人公の佐藤芳次郎(文中では内藤姓)は、明治時代に、北海道の日本海側、ニシンが豊漁を極めた時代に生まれた。ところが鰊漁ブームが去ると、コミュニティは貧困に喘ぎ、志を胸に秘めて樺太は渡った。ロシアとの間に千島樺太交換条約が締結され、南樺太に日本の統治が確定した時代だった。
イメージ 1イメージ 2 開拓移民が奨励され、南樺太にくまなく鉄道が敷かれ、あちこちに立派なビル、官公庁が建設され、神社も造られた。電報の需要が高く、あちこちに逓信省の電報電話、郵便局が設置され、曠野、悪路、大雪のなかを馬橇で走った。ヒグマとも出会い、電報配達は難儀を極めた。

イメージ 3 じつは評者(宮崎)も、南樺太を鉄道で一周した経験がある。
 十数年前になるが、JR北海道が主催した珍しいツアーを聞きつけ、出発地の稚内へ飛んだ。そこからはロシアのフェリーで渡った。
日本時代に豊原といったユジノサハリンスクでは、お城のような庁舎(いまはロシアの官庁)、多くの日本時代の建物は、神社を含めてそのまま残っていた。王子製紙の社宅も残っていた。
 日本時代、樺太には三十九万の邦人が暮らしていたのだ。
 その苦労話を基軸に主人公の前半の人生が語られる。当時の営みを樺太を舞台に活き活きと描かれているが、時代背景に
シベリア出兵、
第一次世界大戦、
通州事件、
上海事件、
五一五、
二二六がおこった。
なるほど、この日記からも、かの「通州事件」が樺太にまでちゃんと報道されていたことが分かる。そういう逸話が豊饒に挿入されている。

 とりわけ、瞠目したエピソードは、女優の岡田嘉子(よしこ)事件である。作者の在職中の事件だった。
イメージ 4イメージ 5イメージ 6
 














愛の逃避行」などと日本中が騒いだ。岡田嘉子が共産主義者の杉本某を伴って、樺太国境からロシアへ亡命しようとした事件だ。
しかし現場にいた人から言わせれば、真相は「愛の逃避行」などという空々しいことではなく、当時、樺太で語られた事件のあらましは次のようであったと言うのである。
 「映画界にも進出した女優・岡田嘉子が、内縁関係にあった山田(隆弥)を捨てて映画の相手役・竹内良一と失踪して結婚。その後更に共産党員である杉本良吉と恋に落ち、杉本が軍隊に召集されることを怖れた二人が、ソ連側に」亡命しようとした。

  奇しくも樺太庁特高課長が連絡船のなかで岡田と出会う。岡田は「国境警備警官の慰問だ」などと嘘をついて特高課長の歓心を買った。
ころりと岡田の媚態に騙されて、行く先の警察署長に電話し、「唯々諾々と歓待にこれ努めた挙句、馬橇や宿屋の手配までも直接各派出所あてに指示をした」ほど、すっかり警戒心を失わせていたのである。
 「莫迦な大将、敵より怖い」の言葉通り、すべての善意の人々は岡田にころりと騙されていた。
 さはさりながら岡田はしぶとくソ連時代を生き延び、日本にも一度里帰りを果たすが、真相を語らないままに現世と訣別した。
イメージ 7

  さていったい何故、佐藤守閣下が本書を監修されてのかと訝しんだのだが、
なんと、著者の佐藤芳次郎氏は、佐藤閣下の父上なのだった。
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国境標石 東京絵画館前(レプリカ)
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『私って男を自分のものにするために国境を越えて監獄に入れられた おバカさん、よ』

追記
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成30年(2018年)8月8日(水曜日) 通巻第5781号より

(読者の声2) 先週、貴誌の書評にあった『ある樺太廳電信官の回想』(佐藤守著 青林堂)への感想です。
 大変興味深い記録なので早速購入しました。というのは、父が著者(佐藤守閣下の父上)の退職された1年後に逓信省から樺太庁に3年間出向していたからです。

 小生も記憶はありませんが一歳時まで樺太の豊原にいました。戦後母から樺太には自転車の荷台に甲羅を載せると脚が地面につくような大きな蟹(タラバガニ)がいる、と聞いて腹を空かしていた私は妄想を巡らしたものです。
 本の内容は往戦前の日本青年の真面目な努力、苦労が上司に認められていった記録で人間関係はいろいろあるとしても戦前の日本社会をよく表しているとおもいます。また親戚などの助け合いがあり今より人間関係が密であったことが分かります。
 樺太では日本の左翼のソ連密出国の悲劇がありました。スターリンのユートピア宣伝を真に受けたのです。その結果は恐ろしい拷問と処刑でした。
岡田嘉子杉本組は、すぐに杉本が銃殺され岡田は美女だったので、戦後まで生き残り、日本に一時帰国しました。その前に同じく密出国した寺島儀蔵は20年以上地獄の強制収容所生活を送りましたが、スターリンの死で生き残りその希有の体験を「長い旅の記録」に残しています。

父も日本の通信線がソ連に盗聴されている可能性があるので国境地帯に出張し、盗聴器を外したことがあるといっていました。
 昭和20年のソ連の侵略では、真岡電話交換手の集団自決事件が起こりました。
ソ連軍兵士は占領地では3日間強奪、暴行、強姦、殺人が黙認されたので、多くの日本人が被害を受け殺されました。
 逓信省関係の樺太引き上げでは20年8月22日の引揚げ船小笠原丸、泰東丸、第二新興丸の悲劇を忘れることは出来ません。
これはソ連の潜水艦に撃沈され留萌沖で全滅した事件です。父は昭和19年に出向が終わり本省に戻ったので私たちは助かりましたが、親しい部下の方は奥さん子供の家族が全滅しました。
この方は戦後抑留から戻った時、悲劇の留萌海岸を訪れましたが、何一つ事件を思わせるものがなく、やむなく海岸の小石を持ち帰り仏壇に供えたそうです。
母は父の在任当時奥様とおつきあいがあったので、この話をしながら本当にお気の毒だったと何度も語っていました。なおこのソ連潜水艦は、その後、大泊港に入港する際、日本海軍の機雷に触れて爆沈したとのことです。

  佐藤守閣下のお元気で闊達なお人柄に、真面目で刻苦奮励されたお父上の人柄が重なるように思われました。ご出版ありがとうございました。                    (落合道夫)
 
前エントリーで「出番だよ!前川さん」と書いたら、タイミングよく彼の嘘が露呈してしまったのには笑えた。
 
その記事が、↓

… … … … … … …… … … … … … … … … …

3ヶ月前の前川喜平「文部科学省の口利きで裏口入学なんてねーから!(笑)」

(http://netgeek.biz/archives/122016)

… … … … … … …… … … … … … … … … …

 
前川は3ヶ月前の講演会で裏口入学の噂を否定していた由・・・。
 
不正の佐野太局長は直接の部下だったのだから、上司としての前川の監督責任が問われて当然である。
 

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転載元転載元: 賭人がゆく

 「夏目漱石の『坊っちゃん』の主人公と清(きよ)に墓がある」と言うと、まさかと思われるだろうが、「実はある」んである。
正確には、「坊ちゃん」のモデルと「清」のモデルになった人の墓である。

 その後ある人の 周旋 ( しゅうせん ) で 街鉄 ( がいてつ ) の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は 玄関 ( げんかん ) 付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月 肺炎 ( はいえん ) に 罹 ( かか ) って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ 埋 ( う ) めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は 小日向 ( こびなた ) の養源寺にある。
(明治三十九年四月)

さて、世の中には奇特な方がいて、源臣氏の探求心と語り口にはつい釣り込まれてしまった。源臣氏の記事を次にご紹介したい。

      漱石の『坊っちゃん』は土岐一族である
                                       一族史家 源臣 

 日頃土岐一族探しの旅を文献上で楽しんでおります。

 病膏肓に入るといいますが、ついに小説の主人公まで引っ張り込んでしまったようです。

あるとき漱石の「坊っちゃん」を読み返していますと、
多田満仲だ、清和源氏だという文字が飛び込んできました。

そのときひょっとすると「坊っちゃん」は土岐一族ではないかと、
いつものいたずら心が頭を持ち上げました。
早速小説「坊っちゃん」の中より土岐一族に関する部分を抜き出して見ました。

先ず、坊っちゃんが松山の中学校に赴任して初めて宿直する場面です。
正確を期すために本文よりそのまま以下に引用いたします。
(河出書房・日本文学全集10巻夏目漱石集29頁上段より抜粋) 

「江戸っ子は意気地がないといわれるのは残念だ。
宿直をして洟垂れ小僧にからかわれて、手のつけようがなくって、
仕方がないから泣き寝入りしたと思われちゃ一生の名折れだ。
これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。」 

次に、師範学校生と中学生の喧嘩仲裁に入ったのを、
生徒をけしかけて師範学校の生徒に暴行を働いた無頼漢と誤解されて、
翌日の新聞に載ってしまう場面(75頁上段)で、

「新聞ほどの法螺吹きはあるまい。
おれのいってしかるべきことをみんな向うで並べていやがる。
それに近ごろ東京から赴任した生意気な某とはなんだ。
天下に某という名前の人があるか。考えてみろ。
これでも歴然とした姓もあり名もあるんだ。
系図が見たけりゃ、多田満仲以来の先祖を一人残らず拝ましてやら。」 

この上記2箇所で漱石は、坊っちゃんに自分の出自が、
清和源氏で満仲の後裔であることを独白させています。
さらに美濃源氏・土岐一族だと証明するための決定的なポイントに気付きました。
それは坊っちゃんの最終場面(83頁下段)にあります。

ばあやの清が、坊っちゃんにお願いした最後の言葉です。

「・・・死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。
お墓のなかで坊っちゃんのくるのを楽しみに待っておりますと言った。
だから清の墓は小日向の養源寺にある。」

説明するまでもありませんが、この文章には清の墓が養源寺にあること、
何故養源寺にあるかというと坊っちゃん家の墓がもともと養源寺にあって、
清が死んだら坊ちゃんのお寺に埋めてくださいと頼んだ、それを坊っちゃんが聞き入れて上げた。

だから清の墓は養源寺にある。
ということが書かれているのですが、漱石はここで坊っちゃんの墓が、
何処の寺にあるとも具体的には書いておりません。
清が坊っちゃんの墓に、埋めて欲しいと頼んだ事が書いてあるのみです。

坊っちゃんが承諾したかどうかについて何も触れていません。
しかし清と坊っちゃんの主従の信頼関係から判断しますと、
清の願いを坊っちゃんは聞き入れたであろうと推測できます。

現在では親族でもないお手伝いさんを同じ墓地に埋葬することはまず無いでしょうが、
この時代まではそれほど珍しいことではありませんでした。
何よりもこの文章の「だから清の墓は・・・・」のだからという接続詞に、
それを強く読み取ることができるでしょう。

この小説の中では養源寺は小日向にあることになりますが、小日向には養源寺というお寺はありません。
それは千駄木に現存します。
小説の中で漱石が養源寺を小日向としたのは、
江戸時代以来、夏目家の菩提寺「本法寺」が小日向にあるという事実からでしょう。

では肝心の「寺名」をなぜ養源寺としたのでしょうか、
その理由は漱石が「坊っちゃん」を執筆した時期と場所に関係がありそうです。

漱石の研究書によりますと「坊っちゃん」は、明治39年3月17日頃から書き始め、
3月27日には109枚の原稿が出来上がっていたようです。
漱石の研究者は3月末には脱稿したと記録しています。
そして「坊っちゃん」は4月10日発売の「ホトトギス」4月号に掲載されました。

明治39年3月漱石は鴎外も一時住んでいたといわれる千駄木の家に、
明治36年3月3日から明治39年12月26日まで居住したと記録にあります。
当時の住所は東京市本郷区千駄木57番地、今は文京区向丘2―20―7番地になっており、
「漱石旧住居跡」の案内板と大きな石碑が建っています。

漱石は「倫敦塔」「坊っちゃん」「草枕」などの作品をこの千駄木の家で書きました。
猫の家とも呼ばれ、漱石文学発祥の地であり旧居は明治村に移築されたと記されています。

この家の玄関を出て左へ5〜6分も歩けば養源寺(文京区千駄木5―38―3)です。
散歩好きの漱石が近隣の養源寺の前を歩かないはずはありません。
清の墓を書く最終場面では漱石の頭の中に「養源寺」の静かな佇まいがよぎった事でしょう。

漱石は江戸牛込馬場下横町で生まれました。
(現在は新宿区喜久井町一番地・東西線の早稲田駅前)
小日向、小石川、千駄木、などこのあたりの土地に詳しく、
他の漱石の作品、「吾輩は猫である」や「それから」、「三四郎」、「道草」などにも
文京区の土地の名前が頻繁に登場します。

漱石に聞いた訳ではありませんから本当のところは判りませんが
「坊っちゃん」のお墓を養源寺とした背景にはこのような状況があったのです。
『漱石の東京』の著者武田勝彦氏はこう書いています。

「本法寺の名をさけ駒込千駄木林町の養源寺の名を借りたのは
フィクションに仕立てるための操作に他ならない」と。

あえて養源寺を取り上げてくれているのです。
何と心強い味方を得たことでしょう。

さてここで「坊っちゃん」の先祖関係の情報を整理してみましょう。

l 清和源氏で多田満仲の後裔である。
l 系図をみれば満仲以来すべての先祖の名前がわかる。
l 旗本である。(江戸幕府の)
l 菩提寺が養源寺である。

それでは先を急ぎましょう。以上の条件に見合う家系を探す作業に入ります。

「旗本人名辞典」から養源寺を菩提寺とする家を探しました。

1. 秋山家が2家(清和源氏・義光流)
2. 井戸家(藤原氏流)
3. 稲葉家(越智氏・河野支流)
4. 富田家(宇田源氏)
5. 土岐家が3家(清和源氏・頼光流)
6. 遠山家・小右衛門景吉(藤原利仁流・始加藤を称す)
7. 仙石家が2家(清和源氏・頼光流・土岐支流)
8. 佐野家(藤原秀郷流)
9. 斎藤家(藤原利仁流)
10. 林家(清和源氏・義光流)
11. 堀家が3家(藤原利仁流)
12. 船越家が2家(藤原為憲流)

以上12家19流あります。そのうち清和源氏の家柄は、秋山家、林家、仙石家、土岐家の4家です。

秋山家と林家は何れも清和源氏のなかでも、義光流の小笠原支流に属します。
皆さんのよくご存知の武田信玄の系統になります。

いずれも信玄系の始祖「信義」の弟「遠光」の長男「光朝」が秋山家の祖といわれ、
「遠光」の次男「長清」が小笠原の祖で、その子孫の「小笠原清宗」の次男「光政」が林家の祖と言われています。

ここで坊っちゃんの言う、系図を見たけりゃ満仲以来一人残らず先祖を拝ませてやれるかどうかを確認してみます。

まず秋山家です。寛政重修諸家譜の筆頭は「光家」から始まりますが、
秋山家の始祖「光朝」からおよそ10代ぐらい抜けていることが、信玄系の系図と比較するとわかります。

林家の方も、寛政重修諸家譜の筆頭が某・某で2代続き実名が判りません。

以上両家とも、一人残らず先祖を拝ませることができません。

仙石家については、頼光流・土岐支流が通説であり、土岐一族です。
美濃偉人伝に、「秀久が天文20年に可児郡中村に生まれる。
仙石左門の宅跡と伝う、源氏土岐の庶流にて父を久盛という」とあります。
久盛が土岐の何処の系統につながるのかが、今のところ不明であります。

以上のことから、漱石は土岐家を想像して「坊っちゃん」を書いたとは言いませんが、
結果として書かれた文章から推測すると、坊っちゃんの先祖は土岐一族となります。

清和源氏で満仲以来の先祖の名前をすべて言えて、
江戸幕府の旗本家でなおかつ菩提寺が養源寺にあるのは土岐家を除いてはありません。

土岐のどの系統かと申しますと「土岐頼芸」の次男であります
「頼次」の四男に「頼泰」という者が居ります。
この「頼泰」の子孫の墓が養源寺にあります。

坊っちゃんの先祖は土岐一族の「頼泰」系の子孫であるということが判ります。

つまり美濃源氏の本流「頼芸」の末裔だったのです。


 土岐頼泰の次男は梶川与惣兵衛(よそべえ)頼照(よりてる)と言う。赤穂事件の時、松の大廊下で浅野内匠頭を後ろから抱き止めた人物である。坊っちゃんの先祖ではない。
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さて、そこで文京区千駄木の養源寺へ行ってみた。
臨済宗の禅寺だった。
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本堂裏の墓地へ行くと、案内板があった。
「小説『坊っちゃん』に登場するきよの墓(米山家)」とあるが、
「坊っちゃん」本人の案内はなかった。
結局どちらも見つからず、
を参考にして、翌日もう一度さがすことになった。イメージ 3イメージ 4








         
これが旗本土岐氏・代々の墓である。つまり、「坊っちゃん」の墓になる。写真は土岐頼泰 - Wikipediaから拝借した。次は、今年3月のほぼ同じアングルの写真である。
イメージ 5イメージ 6









旗本土岐氏・代々の墓は、何らかの事情で撤去された。土岐頼泰 - Wikipediaの写真に「2005年(平成17年)4月まで養源寺にあった代々の墓」とわざわざ断り書きがあるのは、この事態を予期したものらしい。
墓地では、別の場所に比較的新しい「代々の墓」より小さい「土岐家之墓」を二基見かけた。

 次は、きよの墓である。
イメージ 7イメージ 8












           米山家の墓                米山保三郎の墓碑

『坊っちゃん』の清は、一高時代の漱石の畏友・米山保三郎の祖母・米山清がモデルと言われている。昨日は見つけられなかったが、墓地でも目立つ「安井息軒 - Wikipediaの墓」の正面にあった。墓はていねいに手入れされていて、きよの子孫は安泰である。   米山保三郎:漱石の悼む大怪物: かわうそ亭
                         空に消ゆる鐸のひびきや春の塔  漱石

 「坊っちゃん」と「きよ」の論考に面白いものがあった。
文学の中の女中(乳母)たち ---日本とドイツ---日本編 1. 清 (漱石『坊っちゃん』) 
  明治の若い女はみな、現代の「三高」志願のOLに繋がる「マドンナ」や「お宮」さんのようにカシコク、計算高い。
   清はもはや詩人の夢の中にしか存在しない〈美しい日本の面影〉なのである。     清のような女に憧れる坊っちゃんはたぶん独身を通すしかなかっただろう。           
            http://flaneur.web.fc2.com/017.html

「系図が見たけりゃ、多田満仲以来の先祖を一人残らず拝ましてやら」と坊っちゃんは啖呵を切ったが、大家が見ると、土岐氏もあやしい部分があるようだ。 

ところで、
「掃苔趣味(そうたいしゅみ)」とはあまり聞き慣れない言葉だが、古くは江戸の医科学者、平賀源内などが行っていた先人達の墓碑や顕彰碑を経巡(へめぐ)ることである。そして先人達の業績について問答を重ね、その遺徳を偲ぶことを趣味としていたことに始まる。
なのだそうだ。
「一目でわかる漫画世界現状地図」
昭和7(1931)年9月1日(新潮社 刊)
イメージ 1
どうも、この地図↑を拡大しても、文字は読めませんね。
コレ↓をクリックすれば、文字も読めます。

挙国一致内閣の斉藤首相、農村救済に頭を悩ます。
昭和7年は、東北地方の冷害と昭和恐慌が重なって大変でした(「青文字」は、「私のコメント」です)。
宇垣大将、内地の政局に目を光らす。
朝鮮総督は宇垣一成。政治力があったのか、期待されていたのか・・?
 カロリン諸島
日本委任統治の諸島。南洋庁がある。ただし、全面積は神奈川県にも及ばない。
 ワシントン
ドルの国・アメリカはドルがあり過ぎて不景気だとある。フーバー大統領も、赤字の悩みに四苦八苦だ。公約の禁酒法案もだんだんぐらついて来た。酒の密売でウンと儲けた夜の大統領アル・カポネは檻の中から首を出して笑っている。
イメージ 2フーバー大統領は世界恐慌に有効策を打ち出せず、
一期で退任した。
後任はF.D.R.ことルーズベルト。
 ルーズベルト大統領は、現在のアメリカでは評判が良い方だ。その理由は、
1)世界恐慌から抜け出してアメリカ国民に職を与えたこと
2)アメリカを世界帝国にしたこと
である。
世界恐慌から抜け出したのは、「彼のニューディール政策が成功したから」と長い間ごまかしてきたが、日本を挑発して真珠湾攻撃をさせることで第二次世界大戦に参戦したことが理由と、明らかに言われるようになった。2)も同様である。
 ルーズベルト・スターリン・チャーチルがヤルタ体制を作った。今日の「歴史修正主義」とは、「ヤルタ体制に異議申し立てする者」への非難に使われる。

それは、ルーズベルトとチャーチルが起こした戦後世界の混乱の真因から目をそらさせたい歴史家や政治家がいるからだ。「アメリカやイギリスの兵隊が多く戦死したのは、スターリンの共産主義の拡大に利用されただけだ」とは、決して言えない。

なぜアメリカはルーズベルト批判を許さないのか?
要は、ルーズベルト外交があまりに愚かすぎ、これを批判されてしまえば、アメリカ外交は根底から破綻することは間違いないからだ(渡辺惣樹)。
 エクアドル沖
日米の開戦は到底避けられない運命だと論者は盛んに叫んでいる。とにかく世界の視聴は挙げて太平洋に面したこの二大強国の軍備に注がれている。その矢先、米国は本年五月、太平洋・大西洋両艦隊合同の大演習を日本を仮想敵国として大々的に行った挙げ句、米国海軍軍令部長プラットウィリアム・プラット大将は、大西洋艦隊全部を挙げてその根拠地を太平洋岸に置く事を命じ、事実上大西洋艦隊を廃して太平洋艦隊に合併してしまった。これが日本に備えるのでないとは誰が云えよう。
 ハワイ
太平洋の楽土・ハワイも最近日米間の政局の緊張の折柄、なぜか物情騒然たるものがある。特に真珠湾の軍備の充実なぞ、何となく妙に興奮させられる。
 フィリピン
太平洋争覇戦の場合、アメリカの東洋根拠地となるフィリピン諸島。アメリカ官憲は、近頃日本人の増加を大いに恐ろしがっている。
 シンガポール
シンガポールの軍港・イギリス海軍の根拠地。大規模の砲台、5万トンの巨鑑も自由に出入りのできる浮きドックを備えて、東洋問題の万一を用意す。
 こうして見ると、アメリカ海軍は日米戦争をやる気まんまんである。
2011年刊で、邦訳は2017年刊の元大統領:ハーバート・フーバー『裏切られた自由』によれば、フーバーは「日米は開戦すべきでない」と考えていた。
フーバーは知日派ではなかったが、このような軍部の動きを懸念するには至らなかったと見ることができる。
 ソ連
五ケ年間であらゆる国内の産業を極度に振興させ、文化の施設も完備させようという。いわゆる五ケ年計画はすこぶる良好だという。
 この言い方は伝聞調だけだ。当時、世界恐慌に苦しんでいた資本主義諸国では、ソ連の五カ年計画は「計画経済」の成功と受け取られ、多くの社会主義者がそこに希望を見いだした。しかし、五カ年計画の実態はほとんど知られることがなく、むしろ世界恐慌に巻き込まれなかった社会主義国、そしてスターリンの勝利と受け止められていた。つまり、日本では、ソ連の実情は知られていなかった。
  マンガを見てもソ連の民衆はみな楽しげで、戦前の日本人(特にインテリ)がソ連の宣伝にすっかりダマされていたことが分かる。ソ連の実態が分かったのは、「ソ連崩壊」の後だった。
1932年から1933年の極寒の冬の間、カガノーヴィチによって作り出された大飢饉により、強烈な数字が上がった。ウクライナ人は見つけられるものは、ペット、皮ブーツ、皮ベルト、木の皮、草、根に至るまで何でも食べた。食人が普通の事になった。子供を食べる両親もいた。
イメージ 3
通りで横になり、死んでいくウクライナの人々。「行き倒れはザラだった」と分かる。
スターリンは第二次大戦中の会談で、チャーチルに対して1930年代に農業の集団化を達成するために一千万人に上る非協力的農民を殺害せざるを得なかったことを認めている。
  支那
 一方、支那は内戦状態で国家の態をなしていなかったことは、よく知られていた。
 英領インド
 ガンジーが、イギリス官憲を振り回している様子が描かれている。
戦前・戦後を通じて、インド独立にガンジーの国民会議派が功績があったように日本では受け取られてきた。これは、連合国側、特にイギリスの宣伝によるものらしい。しかし、今日ではチャンドラ・ボースのインド国民軍が起爆剤になったことが知られている。
インド国民軍の「初陣」が、かのインパール作戦だった。
日本人は、「インパール作戦の世界史的意義」を戦後70年余りを経て、世界に最も遅れて理解するようになったのである。


1932年の世界情勢を描いた日本の絵地図が面白い 海外の反応




『日本の感性が世界を変える』(たつやさんのコメント→「しばやんの日々」の記事)#9
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たつやさんのコメント

ある日本人研究者が、バチカンで機密文書を閲覧した。気になったので、次回もう一度探すと、見つからなかった。
という話を見たことがあります。ザビエルに関するものだったような・・。
ネット検索すると、この程度のものしか見つかりませんでした。
>フランシスコ・ザビエルはスパイだった?
キリスト教の宣教師であったフランシスコ・ザビエルですが、宣教師というのは各国を回ってその国の状況を視察するという役割も担っていました。
最近、イエズス会の文書館に保存されていた秘密文書が公開されて、その中にザビエルの書いた手紙がありました。そこには「スペインの基地を作るために地理的条件を考えると天草が最高だ。長崎に要塞を作るべきだ」と書かれていました。
布教活動をする一方で、スペインの基地を作るという計画もあったようです。
』→ http://www.ntv.co.jp/sekaju/student/20061216.html
この種の話は以前にも放送された。
2000年8月放送のNHK「その時歴史が動いた」である:

『秀吉は、世に名高い長崎の26聖人殉教事件などキリスト教への迫害を強めていった。……近年解読されたイエズス会文書館所蔵の資料から、日本で布教を続ける宣教師の間にキリシタン大名を競合しての「日本占領計画」が存在したことがわかった。ヨーロッパ最強と謳われたスペインの海軍力がその背景だった。追放令は、計画を察知した秀吉による対抗手段だったのである。弾圧を強める秀吉に対して、宣教師側は四国・九州攻撃と日本国内への軍事基地の建設まで企てていた。……キリスト教禁制はその後も徳川幕府2世紀半の鎖国政策に引き継がれていった。 』→ http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2000_08.html#03
2015/7/17(金) 午前 3:15 たつや


木庵の反応

<たつやさんが紹介されたアドレスの最初のものは、たつやさんが書かれているそのものであり、二番目は「エラー発生」と表示があり、検索不可能であった。
 
中学や高校の歴史の教科書にてくるフランシスコ・ザビエルの肖像画から受ける感触は、敬虔深いキリスト教徒のイメージがある。ところが、彼がスパイだとすると、当時のスペインやポルトガルからやってきた宣教師の位置づけが変わったくる。スペイン、ポルトガルのアジア侵略とキリスト教布教は表裏一体のものであったのだ。

日本が軍事国家でなかったとすると、フィリピンや他の東南アジアの諸国のように簡単に植民地化されていただろう。当時の日本は、巨大軍事大国であった。本気をだせばフィリリピンからスペインを追い出すことができた。そのような時代背景の中に、豊臣秀吉の朝鮮侵攻があったと考えてよい。秀吉の朝鮮侵攻をただ単に侵略と捉えるのではなく、世界史の視野にたって捉えることが大事である。国際的な視点で考えると、秀吉は結構国際感覚があり、外圧と対等以上に対処していたことがわかる。

現在の日本外交に参考にしてもらいたいものである。当時も現在も外圧は色は違うがあるということを考えるべきである。

「しばやんの日々」は、当時のことを国際的な視点で論究している素晴らしいブログである。なかでも、山田長政について書かれているのは注目に値する。木庵>


「しばやんの日々」の記事(その1)

日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える

前々回の記事で、1604年に朱印船制度が創設され、それ以降1635年まで、350隻以上の日本船が朱印状を得て海外に渡航したことを書いた。渡航先は安南、スペイン領マニラ、カンボジア、シャムなどの東南アジア諸国であったのだが、それらの地域には多くの日本人が移り住んで日本人町ができたという。

「移り住んだ」と書くと、如何にも日本人全員が自分の意志で海外に渡っていった印象を受けるのだが、もう少し正確に言うと、少なからずの日本人が奴隷として売られて行って住み着いたということだ。

以前このブログで3回に分けて、豊臣秀吉が「伴天連追放令」を出した経緯について書いたことがある。

当時わが国に滞在していたイエズス会宣教師のルイス・フロイスがその点について詳細な記録を残しているのだが、それによると、九州征伐で博多にいた秀吉は、天正15年(1587)7月24日にイエズス会の日本準管区長のガスパル・コエリョに対し、使いを出して秀吉の言葉を伝えさせている。何点かあるのだが、3つ目の伝言が日本人奴隷に関する内容である。

「第三は、予(秀吉)は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(ルイス・フロイス「日本史4」中公文庫p.207〜208)

秀吉が、金を払うから日本人奴隷を連れ戻し自由放免せよとまで述べたにもかかわらず、コエリョは協力する意思を全く示さなかったばかりか、取締まらない日本側に問題があると答えてさらに秀吉を激怒させてしまい、「伴天連追放令」が出されることになるのだが、詳しく知りたい方は是非次のURLを読んで頂きたい。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-132.html

フロイスのこの記録で私が注目したいのは、ポルトガル人だけでなくシャム(タイ)人もカンボジア人も多数の日本人を買っていたという点である。なぜこの2国が、多数の日本人奴隷を購入していたのだろうか。

この時代にシャムの日本人町で活躍した山田長政に従っていた智原五郎八という人物が著したと伝えられる『暹羅(シャム)国風土軍記』という書物のなかに、シャム国がどのような日本人を、何のために買い求めたかについて述べている部分がある。昭和16年に出版された柴田賢一の『南洋物語』に該当部分が引用されているので紹介したい。

「元和年中より寛永の末*に至るまで、大阪落ちの諸浪人、あるいは関ヶ原、または天草落人ども賈人(こじん:商人)となりて多く暹羅(シャム)に逗留す。もし海賊強盗あれば武勇をもって追い払うゆえに、暹羅国王もこれを調法(ちょうほう)に思い、地を貸して日本人を一部に置く。日本人町と号し、海辺に数百件の町屋あり。永く留まる者は妻妾ありて子を設く。この時に住居する者8千余人ありしとかや」
*元和(げんな:1618〜1624年)、寛永(かんえい:1624〜1644年)

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276416/102

住居数に対し住民が8千余人というのは多すぎるのだが、この数字はタイ族の使用人などが含まれた数字だと考えられる。

また、続けて柴田氏はこう解説している。
「彼らは一部分商人として貿易に従い、一部分その武勇を高く買われて王室に仕えていた。日本からタイへの輸出品は、傘、蚊帳、扇子、屏風、畳、銅、鉄、塗物碗、樟脳、銅器、金銀器、鎧、太刀、弓矢、槍などであり、タイから日本への輸入品は象牙、白絹、孔雀、豹皮、紫檀、蘇木、鹿皮、支那布、鮫皮、鉛、籐、檳榔子実、牛皮、ナムラック、黒砂糖、水牛角、ガムラック、チーク、犀角等であった。」

Wikipediaにタイ国にあったアユタヤ日本人町の記述がある。
アユタヤを流れるチャオプラヤー川沿いを南に下った西岸に、最盛期で1000〜1500人の日本人(タイ族などの使用人を除く)が住んでいて、アユタヤ日本人町の住民は、傭兵、貿易商、キリシタン、あるいは彼らの配偶者やタイ族の使用人などで構成されていた、とある。

さらに読み進むと、日本人傭兵隊についてこう書かれている。

「この日本人傭兵隊の勢力は200あるいは800人とも言われる勢力に膨張し、政治的にも大きな力を持つようになった。このアユタヤでは基本法典である『三印法典』に日本人傭兵隊の政治的位置が明確に示されるようになった。『三印法典』では、日本人傭兵隊はクロム・アーサーイープン(日本人義勇兵局)と名付けられ、その最高責任者にはバンダーサック(官位制度)の第三位であるオークヤー(あるいはプラヤー)・セーナーピムック( ออกญาเสนาภิมุข)という官位・欽賜名を授けられた。これは山田長政にも下賜された名前である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A6%E3%82%BF%E3%83%A4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E7%94%BA

『暹羅国風土軍記』にもWikipediaの解説にも『三印法典』にも、どこにも「奴隷」という表現は出て来ないのだが、ルイス・フロイスは明確に、豊臣秀吉が「九州で、シャム人らが多くの日本人奴隷を買っていた」ことを指摘したことを書いている。それに対してイエズス会のコエリョは秀吉の指摘を否定していない。イエズス会にとって都合の悪い出来事をフロイスがわざわざ書いているのだから、シャム人が日本人奴隷を大量に購入したことが嘘であるとは考えにくい。

では彼らが日本人奴隷を買う目的は何であったかと言うと、タイの『三印法典』の記録を読んで見えてくるのは、少なくともシャム人には国王家を中心に、日本人武士を傭兵として用いる強いニーズがあったという点である。アユタヤの日本人町の住民の中には、奴隷として買われて住み着いた日本武士が少なからずいたと考えるのが自然ではないだろうか。
またカンボジアも同様の目的で、日本の武士を買い集めていたことがわかる史料が存在するようだ。

先程紹介した柴田賢一氏の著書によると、元和9年(1623)にタイ国の使節が徳川幕府を訪れた際に持参した国書に、「カンボジア軍の中には日本兵が混じっているらしいから、しかるべく取締ってもらいたい」という内容が書かれていたという。

それに対して徳川幕府の返書には「海外に出かけて商売を営むような輩はどうせろくなものではなく、利益のためには何でもやるだろう。そんな連中を取り締まるなどもってのほかで、罪に応じ貴国で自由に征伐したがよかろう」と冷たかったそうだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276416/104

シャム国といえば山田長政が活躍したことが有名だが、この人物の生国について史料にみえるものとして伊勢説、尾張説、長崎説、駿府説の4つがあり、古くから出自が不明である事や、内容について信頼できるわが国の文献が乏しいとされ、タイ側の記録にも該当する人物名が見当たらないことから、実在しなかったという説まであるようだ。
http://www.mekong.ne.jp/database/person/yamadanagamasa/19870304.htm

しかし、シャム国から何度かわが国に使節が来ておりその親書に山田長政の署名が確認できるし、金地院崇伝の『異国日記』にも彼の名前が確認できる。オランダ東インド会社の商館長のエレミヤス・ファン・フリートの報告(『シャム革命史話』)の中にも彼に関する記録があるようで、山田長政という人物がシャム国のアユタヤ王朝で認められ、活躍した人物であったことは確実である。出自について諸説があるのは、もしかすると、彼も奴隷として売られた過去があり、それを隠そうとしたのではないかと考えてみたりもする。

では、シャムに渡ってからの彼の活躍について簡単に振り返ることにしたい。

山田長政がシャムに渡ったのは慶長17年(1612)頃とされているが、当時のシャム国のアユタヤでは日本人がソンタム国王の護衛兵を勤めていて、彼はその後日本人義勇兵を指揮するようになり、シャム国の内戦や隣国との紛争の鎮圧に活躍して、次第に頭角を現していったという。

特に元和七年(1621)には、スペイン艦隊の二度にわたるアユタヤ侵攻をいずれも退けた功績で国王の信任を得、オークヤー(あるいはプラヤー)・セーナーピムック(ออกญาเสนาภิมุข)という官位・欽賜名を授けられ、チャオプラヤー川に入る船から税を取る権利を取得したのだそうだ。

前回紹介した菊池寛の書物によると、その頃、アユタヤのオランダ商館長ヨースト・スハウテンがこのように書き記しているのだそうだ。

「国王の水陸両軍の有力なる兵員は、諸侯と国民とより成り立っているが、またモール人、マレイ人、その他少数の外国人も混成している。そのうちでも、5-6百人の日本人は、最も主なる者で、周囲の諸国民より、その男性的信義の評判を得て特に重んぜられ、暹羅国王からも尊敬されている。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276921/93

寛永3年(1626)に長政は静岡の浅間神社に奉納した『戦艦図絵馬』を奉納したのだそうだが、残念ながらその絵馬は天明8年(1788)の火災で焼けてしまったそうだ。しかし、その模写が残されていたので、翌寛政元年(1789)に制作されたものが奉納されたという。
http://sengendori.com/nagamasa/nagamasagoods.html

ところが、山田長政を信任したソンタム国王が1628年に亡くなってしまう。

国王の遺言により15歳のチェーター王が即位し、長政も若い新国王を支える側についたのだが、新王がシーウォーラウォン(のちのプラサート・トーン王)の陰謀を嗅ぎ付け、その人物を排除しようとして失敗し、逆にシーウォーラウォンに殺されてしまう(1629年)。
同年に、チェーターの弟でわずか10歳のアーティッタウォン王が即位したが、シーウォーラウォン(当時はチャオプラヤー・カラーホームスリヤウォンに昇進していた)が摂政となって政治の実権を完全に掌握し、それに抵抗した山田長政を六昆(リゴール:ナコーンシータンマラート王国)の防衛を理由に六昆国の総督に左遷してしまう。

長政は日本人三百人とシャム人三、四千人を率いて六昆国に行き、反乱軍を難なく平定したのだが、その間アユタヤではシーウォーラウォンがアーティッタウォン王をわずか38日で廃位させ、自らが王位に登りプラサート・トーン王と名乗っている。

そして新国王は、六昆国の反乱を直ちに平定した長政を怖れて、その排除に乗り出すことを決意した。

1630年にプラサート・トーン王は密命を出して山田長政を毒殺させ、さらに、アユタヤの日本人に「謀反の動きあり」として、四千人の兵を以て日本人町の焼き打ちを命じている。

この計画を事前に察知した日本人達は、攻撃が始まる寸前に数艘の商船に600人全員が乗り込んで出航したという。シャム兵が約百艘の船に乗って追撃してきたため、日本人も少なからぬ死傷者が出たが、なんとかカンボジアに遁れている。

その後、シャム国のプラサート・トーン王は日本人を再びアユタヤに呼び戻して、日本人町の復興にあたらせたのだが、寛永16年(1639)に江戸幕府の鎖国例が出たために日本人の海外渡航が禁止され、母国との連絡を絶たれたアユタヤの日本人町はその後衰退の一途をたどり、享保の初めごろには消滅してしまったという。

かつて日本人町があった場所には、今では日本人が作った建物など以前の名残は全く残っていないのだが、記念公園とされた敷地内に「アユタヤ日本人町の跡の碑」と日本語で彫られた石碑が建てられているのだそうだ。


木庵の反応

<上の記事で重要なことは、
‥時、ポルトガルル人、シャム人、カンボジア人が日本人を奴隷として購入していたということ。

奴隷にされたのは武士などで、傭兵としてシャムなどの国で重宝がられていたこと。

そのような中で、山田長政の存在があったこと。木庵>


「しばやんの日々」の記事(その2)

フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事〜〜その1

フランシスコ・ザビエルは天文18年(1549)8月15日に鹿児島に上陸して、日本に初めてキリスト教を伝えたポルトガルの宣教師である。

大正8年(1919)に大阪の茨木市の山奥にある千提寺の民家から、教科書でおなじみの聖フランシスコ・ザビエル画像が発見されたことは以前このブログの「隠れ切支丹の里」という記事で書いたことがある。
shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-109.html

こんな肖像画が出てきたのだから、ザビエルがこんな山奥にも来て布教していたのかと錯覚してしまうのだが、それはあり得ないことである。

この地域にキリスト教が拡がったのは、切支丹大名として有名な高山右近が高槻城主であった時代なのだが、右近が生まれたのが天文21年頃(1552)で、ザビエルが日本を去った翌年の事である。布教の許可もない中で、この山奥にザビエルが足跡を残すことはありえないことなのだ。この画像は江戸時代の初期に描かれたものと考えられている。

ところでザビエルが日本に滞在した期間は思いのほか短い。

ザビエルが日本を去ったのは天文20年(1551)11月15日で、日本に滞在したのはわずか2年3ヶ月のことだった。

この短い期間で、日本語を学びながら仏教国の日本でこれだけキリスト教を広めたことは凄いことだと思う。

岩波文庫の「聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)」に、ザビエルが日本に滞在した時の記録が残されている。これ読むと、当時の日本での布教の様子や、当時の日本人をザビエルがどう観察していたかがわかって興味深い。

ザビエルは1549年11月5日付のゴアのイエズス会の会友宛の書簡で、鹿児島に上陸して二ヶ月半の段階で、日本人をこう観察している。

「…今日まで自ら見聞し得たことと、他の者の仲介によって識る事の出来た日本のことを、貴兄らに報告したい。先ず第一に、私達が今までの接触によって識ることのできた限りに於ては、此の国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。私には、どの不信者国民も、日本人より優れている者はないと考えられる。日本人は総体的に、良い素質を有し、悪意がなく、交わって頗る感じが良い。彼らの名誉心は、特に強烈で、彼等にとっては、名誉が凡てである。日本人は大抵貧乏である。しかし、武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱だと思っている者は、一人もいない。…」(岩波文庫p.27)

と、日本人の優秀さを絶賛している。

キリスト教を布教するためには、日本人の仏教への信仰をとり崩していかなければならないのだが、ザビエルは当時の仏教の僧侶について、次のように記している。

「私は、一般の住民は、彼らが坊さんと呼ぶ僧侶よりは、悪習に染むこと少なく、理性に従うのを識った。坊さんは、自然が憎む罪を犯すことを好み、又それを自ら認め、否定しない。此のような坊さんの罪は、周知のことであり、また広く行われる習慣になっている故、男女、老若の区別なく、皆これを別に異ともせず、今更嫌悪する者もない。」

「自らが坊さんでない者は、私達が、この憎むべき悪習を、断固として罪だと主張する時、私達の言葉を喜んで聞く。かかる悪習が如何に非道であるか、又それが、如何に神の掟に反するものであるかを、強調する時、人々は皆私達に賛成する。…」(p.30)

と、この時期の僧侶には戒律を破り堕落している者が少なからずいて、そのことを一般民衆に話すと一般民衆は喜んで聞いたと書いている。

またザビエルは、この日本でキリスト教布教する意気込みと、この布教が成功する可能性が高いことを次のように述べている。

「(僧侶も民衆も)皆、喜んで私と親しくなる。人々が非常に驚くのは私達が此の国民に神のことを告げ、救霊はイエズス・キリストを信ずるにあることを教えんがためにのみ、遥々六千レグア*の波濤を蹴立てて、ポルトガルから来朝したという事実である。私達の来朝は、神の命令に依ることだと私達は説明している。」(*1レグア=約6km)

「私がこれらのことを凡てお知らせするのは、諸兄から我らの主たる神に感謝して頂きたいためであり、更に島国日本は、私達の聖なる信仰の弘布に、非常に優れた条件を具備していることを報告したいからである。若し私達が日本語に堪能であるならば、多数の者が、キリストへの聖教に帰信するようになることは、絶対に疑いをいれない。」(p.30)

と、日本語さえ習得すればキリスト教を日本に広める事ができると書き、その上で、

「貴兄等は、準備をしていただきたい。二年も経過しないうちに、貴兄等の一団を、日本に招くことは、有り得ることだからである。謙遜の徳を身につけるように、励んで頂きたい。…」(p.31)

と、二年以内にキリスト教を広めていく自信があることを伝えているのだが、ザビエルはこの手紙を書いた丁度2年後に日本を去っているのだ。これはどう解釈すればいいのだろうか。
ザビエルにとって、この後の布教活動で満足な結果が出せたのだろうか、出せなかったのだろうか。

フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事〜〜その2
前回はザビエルが鹿児島に上陸して二ヶ月半たった時点で、ゴアのイエズス会会友宛てに日本人の印象などを書き送った書簡の一部を紹介した。今回はザビエルの日本での活動を追ってみよう。

ザビエル(画像)はゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船に乗ってゴアを出発し、1549年8月15日に鹿児島に上陸した。そして翌月には薩摩の守護大名・島津貴久(画像)に謁見し、キリスト教宣教の許可を得ている。

前回紹介した書簡ではザビエルが日本の布教が成功することを確信していたような文章であったのは、わずか1ヶ月で薩摩の布教許可が得られたことで自信を深めたものだと考えられるが、その後島津貴久はキリスト教を禁止してしまう。

ザビエルは薩摩がキリスト教を禁止した経緯をこう書いている。この書簡の中のパウロと言う人物はヤジロウのことである。

「…私達は前にも言った通り、先づパウロの故郷に着いた。この国は鹿児島という。パウロが同胞の人々に熱心に語り聞かせたお陰で、殆ど百名にも及ぶ日本人が洗礼を受けた。もし坊さんが邪魔をしなかったら、他の凡ての住民も、信者となったに違いないのである。」(「聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)」岩波文庫p.100)

「私達は一年以上もこの地方にいた。…坊さんはこの領主に迫り、若し領民が神の教に服することを許されるならば。領主は神社仏閣や、それに所属する土地や山林を、みな失うようになるだろうと言った。何故かと言えば、神の教は、彼らの教とは正反対であるし、領民が信者となると古来から祖師に捧げられてきた尊敬が、消失するからだという。こうして遂に坊さんは、領主の説得に成功し、その領内に於て、キリスト教に帰依する者は、死罪に処すという規定を作らせた。また領主は、その通りに、誰も信者になってはならぬと命令した。」(同p.101)

「…日本人は特に賢明であり、理性的な国民である。それで彼らが全部信者にならないのは、領主に対する怖れの結果であって、神の教が真理であることの解らないためでもなく、また自分の宗旨の間違っていることに気のつかないためでもない。」(同p.101-102)

かくしてザビエル一行は一年間活動した鹿児島を去り、1550年8月に肥前平戸に入って宣教活動を行った。そこではわずか二か月で住民の数百名が信者になったので、ここの信者の世話をトーレス神父に託して、別の地域を目指すこととした。

周防山口では大名・大内義隆にも謁見したがその時はさしたる成果がなく、次に都である京都に進んで、インド総督とゴアの司教の親書をもって、全国での宣教の許可を得るために、御奈良天皇に謁見しようと試みたがそれは叶わなかった。

当時の京都は応仁の乱以降打ち続いた戦乱の結果多くが破壊されており、布教する環境にないと判断して、一行は再び山口に入る。

山口でザビエルは、天皇に捧呈しようと用意していた親書のほか、珍しい西洋の文物の献上品を用意して、再び大内義隆(画像)に謁見したという。

大内義隆は大層喜び、お礼のしるしとして金銀をザビエル一行に差し出したが、これをザビエルは受け取らずにキリスト教の布教の許可を願い出たという。

「…私達は、そのもっとも渇望している唯一つのことを願い出た。即ち、私達がこの領内に於て、神の教を公に宣布することと、領主の民の中に、信者になることを望む者があった場合には、自由に信者になれることを、私達に許可して頂きたいというのである。これに就いては、領主は、凡ゆる好意を持って私達に許可を与えた。それから、町の諸所に、領主の名の記された布令を掲出させた。それには、領内に於て神の教の説かれることは、領主の喜びとするところであり、信者になることは、各人の自由たるべきことと書かれていた。同時に領主は、一つの寺院を私たちの住居として与えた。…」(同p.105)

大内義隆がザビエル一行に与えた寺は、当時すでに廃寺となっていた大道寺という寺だそうだが、ザビエルはこの寺で毎日二度の説教を行い、約二か月の宣教で洗礼を受けて信徒となった者は約500人にものぼったそうである。

山口の布教が順調に進んでいる中で、豊後府内(大分市)にポルトガル船が来着したとの話があり、豊後の大名である大友義鎮(後の大友宗麟:画像)からザビエルに会いたいとの書状が届き、1551年9月にザビエルは山口の宣教をトーレス神父に託して自分は豊後に向かう。豊後に於いてもキリスト教は宗麟の保護を受けて広まっていった。

岩波文庫の解説によると、ザビエルの2年半日本滞在の間での洗礼者は千名には及ばなかったという。(鹿児島100-150名、市来15-20名、平戸180名、山口に向かう途中で3名、山口500-600名、豊後30-50名)
ザビエルはインドのトラヴァンコル地方に於いては1ヶ月に1万人の信者を作った実績がある。日本での成果はザビエルが当初思い描いていた数字には大きく届かなかったはずだ。
ザビエルは日本全土の布教のためには、日本の文化に大きな影響を与えてきた中国での宣教が不可欠だと考えた。ザビエルは、こう書いている。

「…シナに行くつもりだ。何故なら、これが日本とシナとに於て、我が主の大いなる奉仕になるだろうと思うからである。というのは、シナ人が神の掟を受入れたと識るなら、日本人は自分の宗旨に対する信仰を、間もなく、失ってしまうだろうと考えられるからである。私は、我がイエズス会の努力によって、シナ人も、日本人も、偶像を捨て去り、神であり全人類の救主なるイエズス・キリストを拝するようになるという、大きな希望を持っている。」(同p.137)

1551年11月15日にポルトガル船で日本を離れ、一旦ゴアに帰り自分の代わりに日本で宣教するメンバーの人選をして、自らは中国に向かおうとしたがマラッカで中国への渡航を妨害され、ようやく三州島に着くも、そこでは中国入国の手助けをする船は約束した日には現れなかった。

ザビエルはそこで熱病に罹り、中国本土で布教の夢が果たせぬまま、1552年12月3日に、イエズスの聖名を呼び奉りつつ息絶えたという。

なぜザビエルのような優秀な宣教師をもってしても、日本の布教が遅々として進まなかったのか。当時の日本人はザビエルの話を理解しつつもどうしても納得できないところがあったのではないか。

私は、ザビエル書簡の中でこの部分に注目したい。

「日本の信者には、一つの悲嘆がある。それは私達が教えること、即ち地獄へ堕ちた人は、最早全然救われないことを、非常に悲しむのである。亡くなった両親をはじめ、妻子や祖先への愛の故に、彼らの悲しんでいる様子は、非常に哀れである。死んだ人のために、大勢の者が泣く。そして私に、或いは施與、或いは祈りを以て、死んだ人を助ける方法はないだろうかとたづねる。私は助ける方法はないと答えるばかりである。」(同p.119-120)

「この悲嘆は、頗る大きい。けれども私は、彼等が自分の救霊を忽がせにしないように、又彼等が祖先と共に、永劫の苦しみの処へは堕ちないようにと望んでいるから、彼等の悲嘆については別に悲しく思わない。しかし、何故神は地獄の人を救うことができないか、とか、なぜいつまでも地獄にいなければならないのか、というような質問が出るので、私は彼等の満足のいくまで答える。彼等は、自分の祖先が救われないことを知ると、泣くことを已めない。私がこんなに愛している友人達が、手の施しのようのないことについて泣いているのを見て、私も悲しくなってくる。」(同P.120)

当時の日本人が、キリスト教を受け入れがたいと思った重要なポイントがこの辺にあったのではないだろうか。自分の祖先がキリスト教を信じていなかったという理由でみんな地獄へ落ちると言われては、自分の祖先を大切に思う日本人の大半が入信できなかったことは私には当然のことのように思える。

もしザビエルが健康な状態で無事に中国に辿り着き、中国でキリスト教の布教に尽力してある程度の成功を収める事ができたとしよう。その場合にザビエルが再び日本に戻ってキリスト教の布教に成功できたかどうか。
皆さんはどう思われますか。


木庵の反応

ザビエルの布教の様子がよく分かった。ザビエルが九州に上陸してまなしに抱いた日本人観は「日本人は直ぐに改宗するであろう」と楽観的な見方であったのが、2年後には変わった。日本人にとって、先祖が地獄で苦しんでいて、たとえ生存している人がキリスト教徒になろうと、先祖を地獄から救うことができないという悲しみに耐えられなかった。

日本人の先祖崇拝が布教の邪魔になるとザビエルは考え、日本精神の源である中国を改宗させれば日本人も簡単に改宗するだろうと見た。これは、まったく甘い考えであった。

日本人は聡明な民族であり、単純宗教(?)であるキリスト教を簡単には受け入れない精神的土壌がある。このことは現在まで続いている。遠藤周作が『沈黙』で書いているように、「日本にいくらキリスト教の苗を植えても、日本という土壌では、根から腐っていく」と。また豊臣秀吉のような為政者はキリスト教の裏にヨーロッパの侵略主義が潜んでいることを見抜いているので、最終的には鎖国までして、キリスト教の布教を禁じた。

このことが、キリスト教国であるアメリカやイギリスが日本人に対するの嫌悪感をもつことになり、傲慢な国日本をやっつけるために太平洋戦争を仕掛けてきたという見方もできる。木庵>


写真:山田長政、シャムの日本人義勇兵、日本人町の跡の碑、フランシスコ・ザビエル

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転載元転載元: 木庵先生の独り言

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