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『日本の感性が世界を変える』(たつやさんのコメント→「しばやんの日々」の記事)#8
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たつやさんのコメント

秀吉は、「スペインが明を征服する前に明を征服し、スペインの日本侵略を阻止するために、『唐入り』した」との説があります。
その前後の情勢については、以下に詳しい。

>マニラ司教のサラサールやイエズス会の日本布教長フランシスコ・カブラルの考えは、わが国のキリシタン大名を使ってまず明を攻める。明を征服すれば朝鮮半島は容易に手に入る。そして朝鮮半島に軍事拠点を置き、機が熟すのを待って最短距離で日本を攻め、かつキリシタン大名を味方につけて日本国を二分して戦う。
当時スペインが日本を征服するには、それ以外に方法はなかったのであろう。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-374.html

秀吉政権の朝鮮出兵については、
戦後日本ではまじめに研究されてこなかったウラミがあります。

rac氏は、膨大な文献を読み解いています。
時間があれば、楽しめる内容です。

http://blogs.yahoo.co.jp/raccoon21jp/41925193.html 2015/7/16(木) 午前 5:22 たつや


木庵の反応

<たつやさんが紹介してくださった最初の読み物は「しばやんの日々」のブログからきている。木庵>


しばやんの日々の記事

・・・
フィリピンマニラの初代司教としてスペインから送りこまれたサラサールが、本能寺の変の翌年にあたる1583年(6月18日付)にスペイン国王に送った書簡が残されている。
ここにはこう記されているという。

「…シナの統治者たちが福音の宣布を妨害しているので、これが陛下が武装して、シナに攻め入ることの正当な理由になる…。
そしてこのこと(シナの征服)を一層容易に運ぶためには、シナのすぐ近くの国の日本人がシナ人のこの上なき仇敵であって、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを陛下が了解されると良い。そしてこの効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。…」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.85-88)

サラサール司教はフィリピンの次は中国を征服すべきであり、そのために日本の武力を使えばよいと、前回の記事で紹介したイエズス会のフランシスコ・カブラルと同様な提案をしている。サラサールの文章で特に注目したいのは、「在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように」と指示すれば、キリシタン大名はそれに従うと考えていたという点である。わかりやすく言えば宣教師らは、秀吉や家康の命令がどうであれ、キリシタン大名はイエズス会修道士の指令に従って動くことを確信していたのである。

一方、イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョが、翌1584年にフィリピン・イエズス会の布教長へ宛てた書簡では、日本への軍隊派遣を求めて、先に日本を征服してから明を攻めることを提言したのだが、この案は採用されなかった。

コエリョの提言が採用されなかったのは当然であろう。わが国は鉄砲伝来した翌年には鉄砲の大量生産に成功していて、16世紀末には世界最大級の鉄砲保有国になっていたし、鉄砲だけでなく刀や鎧などの武器の性能も優れていた。
スペインが海軍を送り込んで日本を攻めようとしても、わが国の武士の数や優秀な武器とその数量を考慮すればスペインが勝てる可能性は低かった。緒戦は有利な戦いが出来たとしても、長期化して銃弾や食糧が乏しくなった場合は、母国からの食糧や銃弾の補給は極めて困難であり、全滅を覚悟するしかなかっただろう。

マニラ司教のサラサールやイエズス会の日本布教長フランシスコ・カブラルの考えは、わが国のキリシタン大名を使ってまず明を攻める。明を征服すれば朝鮮半島は容易に手に入る。そして朝鮮半島に軍事拠点を置き、機が熟すのを待って最短距離で日本を攻め、かつキリシタン大名を味方につけて日本国を二分して戦う。
当時スペインが日本を征服するには、それ以外に方法はなかったのであろう。

しかし、おそらく秀吉は宣教師らの魂胆を見抜いていたのだろう。
天正15年(1587)に『伴天連追放令』を出すきっかけとなった秀吉の九州平定は、その2年前にイエズス会のコエリョが秀吉に対し、大村・有馬のキリシタン大名の仇敵である島津を征伐するのなら高山右近らを秀吉の味方につけると進言したことにより実現した。イエズス会にとっては秀吉の九州攻めは願ってもないことであり、右近らの活躍で島津討伐に成功したのだが、秀吉は九州を平定すると、右近の役割が終わったのを見計らったように高山右近にキリスト教の棄教を迫り、それに抵抗した右近を追放してしまった。
その一方で、征伐した島津氏の領国はほとんど変わりなく安堵しているのである。
秀吉は、イエズス会に協力するように見せかけながら、実際は宣教師やキリシタン大名の勢力を弱めるために九州に来たとしか思えないのだ。

イエズス会のルイス・フロイスの記録『日本史』には、『伴天連追放令』を出す直前に秀吉が家臣や貴族たちを前に述べた言葉が記されている。
「伴天連らは、別のより高度な知識を根拠とし、異なった方法によって、日本の大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。彼ら相互の団結力は、一向宗のそれよりも鞏固である。このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ。」(中公文庫『完訳フロイス日本史4』p.214)
フロイスがこのような書き方をしているということは、秀吉は宣教師がわが国を占領する目的で来日している認識があることを、フロイスも理解していたということだろう。

また、朝鮮出兵の前年である天正19年(1591)には、秀吉はゴアのインド副王(ポルトガル)とマニラのフィリピン総督(スペイン)にも降伏勧告状を突き付けて恫喝している。特にフィリピンに関しては、3度も降伏勧告状を送っているのに注目したい。

学生時代に、秀吉の晩年の外交については「無謀な膨張主義」というニュアンスで学んだ記憶があるが、この当時のフィリピンにはわずかな兵士しかおらず、秀吉がその気になれば、大量の武器を準備できた秀吉軍は、容易にスペイン人をフィリピンから追い払っていた可能性が高い。

以前このブログで書いたが、シャム国(現在のタイ)に渡った山田長政は元和七年(1621)には、日本人傭兵部隊を率いてスペイン艦隊の二度にわたるアユタヤ侵攻をいずれも退け、その功績で国王の信任を得ている。当時は素人集団を率いていたとしても、日本の武器が大量にあればスペイン艦隊による侵略を撥ね退けることが可能だったのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html

話を元に戻そう。
秀吉がフィリピン総督(スペイン)に対して出した第一回目の降伏勧告状にはこう書かれていたという。
「…来春九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡を偃(ふ)せて来服すべし。もし匍匐膝行(ほふくしっこう)遅延するにおいては、速やかに征伐を加うべきや、必せり。悔ゆるなかれ、…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/34
意訳すれば、「降伏して朝貢せよ。ぐずぐずしていたら必ず征伐する。後悔するな。」というところだが、この国書を読んでスペインは驚いた。 当時の東南アジアには日本のように鉄砲を自国で大量に生産できる国はなかったので、スペインやポルトガルは僅かな鉄砲を持ち込むことで異国の領土を容易に占領し支配することが可能だったのだが、世界最大級の鉄砲保有国であった日本を相手にするとなるとそうはいかなかったのである。

秀吉の恫喝に対し、フィリピンのルソン太守であるダスマリナスは、わずか400名の兵士では日本軍と戦う自信がなかったために日本の使節を歓待し、日本の実情を探らせるために返書を持たせて使者を送るしかなかった。

さらにダスマリナスは、日本人のフィリピンへの侵入を非常に警戒して14項目もの対策を立案している。昭和17年に出版された奈良静馬著『西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)』にその内容が出ているが、これを読むと、如何にスペイン人が日本人を怖れていたかがよく分かる。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/36

当時の東南アジアには日本のように鉄砲を自国で大量に生産できる国はなかったので、スペインやポルトガルは僅かな鉄砲を持ち込むことで異国の領土を容易に占領し支配するこ

ダスマリナスは、食糧や武器を可能な限り買い込むことを指示し、城塞の建設を命じたほか、如何なる市民も許可なくして財産や家族をマニラ市から移すことを禁じ、また許可なくしてフィリピンから船を出港出来ないようにし、とりわけ日本人を警戒することを縷々述べている。たとえば、6番目の対策は

「マニラ在住の多数日本人はフィリピンにとって脅威なり。この脅威より免れるべく、これら日本人よりすべての武器を奪いたるうえ、市外特定の場所に移転せしめること。」とある。当時のフィリピンには、商人のほかにシャムやカンボジアと同様に奴隷として海を渡りこの地に住みついた日本人がかなりいたようである

では、フィリピン国から秀吉に宛てた返書の内容はどのようなものであったかと言うと、要するに、秀吉の文書は果たして本物であるか、それを確かめるために使節を送るというものであったようだ。この国書の訳文は次のURLにあるがつまるところは時間稼ぎである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/40

さらにフィリピンから送られた使者のフレー・ジュアン・コボスはフィリピンを秀吉の支配下に置くことについては意思表明を避けたため、秀吉は再び書状を書いて原田喜右衛門をフィリピンのマニラに遣わしている。

奈良静馬氏の著書に、この時に秀吉が記した第二回目の降伏勧告状が紹介されている。

「…この地球上、天が下に住む者はすべてわが家来なり。余に対して恭順の意を致す者は平和と安堵を得、何らの恐怖なくして住むことを得べし。しかしながら、余に恭順を表せざる者に対しては、余は直に我が将卒を送りて、先ごろ朝鮮王に対して為せるが如く武力を行使すべし。これ朝鮮王が余に恭順を表することを拒みたるが故にして、余は…朝鮮全土を平静に帰せしめたり。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/68

フィリピンは1593年の5月に原田の船で二度目の使節を日本に派遣し、その中に二人のフランシスコ会の修道士がいた。その一人のゴンザレスは、秀吉の服従要求に対しスペイン国王の返答があるまで日本に人質として留まることを乞うたのだが、このゴンザレスは日本滞在中に、フランシスコ会伝道の基礎を作ることを企んでいたという。ちなみに、先にわが国で布教活動を行なっていたイエズス会は、秀吉の『伴天連追放令』のあとで自由な布教活動ができなくなっていた。

徳富蘇峰の『近世日本国民 史豊臣氏時代. 庚篇』に、フランシスコ会がその後のわが国でどのような活動を為したかが記されている。
「スペイン太守の使節は、人質の名義にて、上方に滞在し。さらに伏見において秀吉に謁したる際、彼ら専用の家屋を構えんことを願った。秀吉は前田玄以をして、その地書を与えしめた。前田は諸教師に向かって、説教、および宣伝の事を禁ずる旨をつげ、旧南蛮時の敷地を与えた。然るに彼らはその訓戒をも顧みず、礼拝堂一宇、密教所一宇、僧院一宇を建築し、これをノートルダム、ホルチュウンキュルと称し、1594年(文禄3年)10月14日、初めてミサ教を誦し、爾後日曜日、及び祝祭日には、怠りなくおおっぴらに礼拝した」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960835/36


ゴンザレスは、1594年に秀吉からの第3回目の降伏勧告状を携えてマニラに戻っているが、この内容もすごい。秀吉は中国にまで領土を拡げたら、ルソンはいつでも行ける距離であると脅しているのだ。

「…余は朝鮮の城砦を占領し、その使者を待つために多くのわが軍を派遣せり。彼らにしてもしその言を破るがごときことあらんか。余は親しく軍を率いてこれが討伐に赴くべし。而してシナに渡りたる後はルソンは容易にわが到達し得る範囲内にあり。願わくば互いに永久に互いに親善の関係を保たん。カスティラ(スペイン)王に書を送り、余が旨を知らしむべし。遠隔の地なるの故をもってカスティラ王をして、余が言を軽んぜしむることなかれ。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/71

ところで、フランシスコ会の宣教師たちは、大阪や長崎でも公然と布教活動を続け、マニラから仲間を呼び寄せ、大阪や長崎で教会堂を建て、信者を急激に増やしていった。
一方、『伴天連禁止令』以降、おおっぴらな布教活動ができなくなっていたイエズス会は、フランシスコ会の布教の成功を見て喜べるはずがなかった。

イエズス会は、1585年にローマ法王が発布したフランシスコ会の日本渡航禁止令を持ち出して抗議したようだが、奈良静馬氏の前掲書によると、フランシスコ会は「自分達は宗教伝道者として日本に来たのではない。フィリピン太守の使節としてきたのであると嘯き、依然としてはばかるところなく布教に従事したので、1595年には8千人という多数の者が洗礼を申し出た。」のだそうだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/80

しかし翌年に、再び秀吉を激怒させたとされる事件が起こることになる。
この事件と、秀吉のキリスト教弾圧の事を書き始めるとまた長くなるので、次回に記すことにしたい。
・・・

【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました
良かったら、覗いて見てください。

16世紀以降多くの日本人奴隷が買い漁られた背景には、西洋による東南アジア侵略があります。日本人奴隷は、傭兵としてポルトガル、スペインの外シャムやカンボジアなどで活躍し、非常に重宝されていました。

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html

シャムの山田長政は日本人傭兵隊を率い、元和7年(1621)に二度にわたるスペイン艦隊のアユタヤ侵攻を退けた功績でシャム国王の信任を得ました。傭兵隊の多くは奴隷としてシャムに渡った人々でした。日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html


オランダは寛永元年(1624)に台湾島を占領し、台南のタイオワンに帰港する外国船にいきなり10%の関税をかけ始めたのだが、朱印船の船長であった浜田弥兵衛は新参者の命令に命懸けで抵抗し勝利しました。

鎖国前の台湾で、新参者のオランダの苛政に抵抗した日本商人の話
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-368.html

江戸幕府の鎖国政策により朱印船貿易は終り、日本船が来なくなったことを好機としてオランダは台湾における貿易の全権を握った。そのオランダに立ち向かったのが、日本人を母に持つ中国人の鄭成功で、鄭成功はゼーランジャ城を包囲して籠城戦で勝利し、オランダ人を台湾から追い払っている。

台湾からオランダを追い出した鄭成功の大和魂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-369.html


木庵の反応

<「しばやんの日々」には興味のある記事が満載である。すべてを転載するわけにいかないが、まず「 日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える」を紹介する。木庵>


日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える

前回の記事で、イエズス会の宣教師として来日していたルイス・フロイスが、太閤秀吉の言葉として「商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行している」と記していることを書いた。

またシャム国では、日本人武士を買って傭兵として用いる強いニーズがあり、山田長政はその日本人傭兵部隊を率いて国王の信任を得て活躍したのだが、他の国も同様に日本人兵士のニーズが高かったようだ。
あまり知らなかったのだが、秀吉が『伴天連追放令』を出した天正15年(1587)の後も、日本人が奴隷として売買される時代が長く続いたようである。

『ナチュラリストの散歩道』というブログの、「戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(4)」に、1605年に出されたポルトガルの公文書が紹介されているので引用させていただく。

「今までに行われた売却は、日本司教の書面による同意を得て行われた。(中略)彼ら(日本人)は非常に好戦的な国民で、戦争のためや、攻囲にあるいは必要に際して奉仕をする。少し前に、オランダ人たちのためにその必要が生じた際に見られた通りである。ゴア市から1 人の妻帯者 が、鉄砲と槍を持ったこれら従者7、8 人を従えて出征した。というのはインディアにおいては、兵役を果たすことの出来る奴隷は日本人奴隷だけだからである。ゴアの如き大都市では、その城壁の守りのために必要な兵士に不足することがしばしばあるのだ。 (1605 年、ポルトガル公文書148・「大航海時代の日本」高瀬弘一郎訳註)
http://denjiha55.blog.fc2.com/blog-entry-51.html

少し補足すると、インドはポルトガルの植民地であり、軍事拠点には多くの兵士を必要としたのだが、特にゴア市には大きな要塞があり、その防衛に日本人奴隷が用いられていたのである。そもそも傭兵というものは消耗が激しいので、戦闘があるたびに兵士がしばしば不足したようなのだが、当時は市場で容易に調達できる状況にあったようだ。

またゴアは火薬の原料となる硝石の産地でもあり、かなりの日本人奴隷が採掘に従事させられていたと思われる。そのためゴアでは「一時期白人より日本人が多く居住するような状況であった」というから驚きである。

日本人傭兵を高く評価したのはシャムやカンボジアやポルトガルだけではなかった。
講談社の奈良静馬氏が著し、昭和17年に出版された『西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)』という書物によると、1586年7月にスペインも、支那を征服するために、日本人傭兵6000人を調達しようと具体的に検討した記録があるという。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/21
その計画は実行に移されなかったのだが、1603年にはスペイン人数名が日本人傭兵400人を引き連れて、フィリピンにおける支那人1500人以上の暴動の鎮圧に成功し、さらに支那人の攻撃を続けている。奈良氏は著書にこう記している。

「スペイン人は、この討伐戦で日本人の剛毅沈着、勇猛無比であることを実際に見て、日本兵を信頼することいよいよ厚く、太守および軍事参議会においては、さらに支那人攻撃の手配を定め、同年10月7日朝8時から9時までの間に、おのおの鉄砲を持った150名のスペイン兵と、総数500の日本人をガリナトという者に指揮させて出発し、非常な勢いを以て進撃した。スペイン人はなかなか狡猾で、先鋒にはすべて日本人を配し、自分らは殿(しんがり)軍となって敵陣営に乗り込み、支那人500人を殺したほか多数を傷つけ、彼等の軍旗を奪い取った。…(最終的にスペインが勝利し)スペイン人はこの時の日本人の勇敢にして、冷静沈着なる戦闘ぶりを見ていたく感心した。何分この頃は秀吉の朝鮮征伐が終わってからほんの間もない頃で、日本国民の気象はいやがうえにも尚武の気を以て固められていたころであるから、スペイン人が支那人討伐に日本人を傭うたことは、よほど考えたやりかたであったのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/97

しかしながら、スペイン人は次第に強すぎる日本人を警戒するようになり、フィリピンから日本人を放逐しようとしている。当時のフィリピンにおいては日本人の方がスペイン人よりも圧倒的に人数が多く、兵力にも優っていたという。再び奈良氏の文章を引用する。文中の「僧侶」というのはキリスト教の宣教師の意味である。

「…日本人放逐問題は1606年に至って再燃したが、太守ドン・ペテロ・デ・アキユナは自らモルッカ遠征に出かけて、参議院がその政治を預かっていた。放逐の理由として彼等の言うところは、日本人は争闘を好む民にして、かつフィリピンを威嚇するからというのであった。

これが実施せらるる前に日本人はスペイン人が自分らを放逐する計画を立てている事を聞いて大いに怒り、まさに大闘争の起らんとするを、僧侶達の仲裁でようやく事なきを得た。日本人は僧侶たちの情理を尽くした言を聴き、ひとまずフィリピンを引き揚げることを承知した。スペイン官憲はこの機を逸せずできるだけ多くの日本人を本国に送還しようとした。当時フィリピンにいた日本人は1500人以上であったという。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/86

この事件はスペイン人がフィリピンを占領して以来の最大の危機とされているのだそうだが、当時フィリピンにいたスペイン人は少なく、日本人が結束して反乱を起こせばスペインには勝ち目がなかったということだろう。宣教師の説得により多数の日本人が帰国したことからスペインは危機を乗り越え、この事件以後日本人をDilanoという町に移住させてスペイン人が監視するようになったという。当時フィリピンにいた日本人にはキリスト教徒がかなりいたようだ。

このブログで、台湾でオランダと戦った浜田弥兵衛の話や、シャムでスペインと戦った山田長政のことを書いてきたが、これらの史実を知ると当時の日本人は西洋人の軍隊に決して負けてはいなかったことがわかっていただけると思う。

藤木久志氏の『雑兵たちの戦場』に、この頃わが国から、どのような商品が運ばれていたかが記されているので紹介したい。

「加藤栄一氏の研究によってオランダの動きを見ると、日本の平戸商館は、オランダの軍事行動を支える、東南アジア随一の兵站基地と化し、主力商品であった日本の銀とともに、平戸から積み出された軍需物資は、武器・弾薬のほか銅・鉄・木材・食糧・薬品にわたった。
 1615年末から翌年2月まで、わずか3ヵ月に出港した三隻の船の積荷目録だけで、日本製の鉄砲120・日本刀223・槍57、鉄丸など銃弾11万斤、火薬用の硫黄8250斤・硝石2225斤などが、平戸からシャム、バンタンに積み出されていた。
 とくに注目したいのは日本人傭兵の流出ぶりである。…」(朝日選書『雑兵たちの戦場』p.273)

同上書で、オランダが日本人傭兵を送りだした記録も紹介されている。
1616年に連合東インド会社が平戸で雇った59名の日本人の名簿から推測すると、この船に乗せられた日本人傭兵でミゲル、パウロなどキリシタンらしき名前の者が13名、武士らしき者が3名、あとは農民なのだそうだ。そのレベルの傭兵のメンバー構成で活躍できたということは、当時の日本人が勇敢であったこともあるだろうが、日本から輸出された武器の性能が優秀であったことも見逃せない

以前このブログで、わが国は天文12年(1543)に種子島に伝来した翌年に鉄砲の大量生産に成功し、その後世界最大の鉄砲保有国となり、以後200年ぐらいは世界有数の武器輸出国であったことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-5.html
上記記事で紹介した米国のノエル・ペリンの『鉄砲を捨てた日本人』という本を読むと、この時代にわが国は、武器の保有数量で優っていただけでなく、性能においても西洋のものを凌いでいたことがかなり具体的に書かれている。

教科書などには絶対に書かれていないことなのだが、この時代にスペインやオランダ、イギリスなどが東南アジアの植民地を奪い合い、植民地の内乱の抑圧が出来たのは、日本から大量の優秀な武器と傭兵を手に入れることができたことが大きかったのである。

再び藤木久志氏の『雑兵たちの戦場』を引用する。こんな史実を知って驚いてしまった。

「翌年(元和7年:1621)7月、両国(オランダ・イギリス)の艦隊は、台湾近海で捕えた、日本行のポルトガル船とスペイン人宣教師を幕府に突きだし、マニラ(スペインの拠点)・マカオ(ポルトガルの拠点)を滅ぼすために、2千〜3千人の日本兵を派遣することを幕府に求めた。イギリス・オランダ対スペイン・ポルトガルの東南アジア戦争に、イギリス・オランダの傭兵として、幕府公認の日本軍を動員しようというのであった。

しかし、もともと友好・中立と交易の安全・自由を原則とし、国際紛争への介入に慎重だった幕府はこれを拒否した。そればかりか、7月27日付けで、幕府(2代将軍:徳川秀忠)は突然『異国へ人身売買ならびに武具類いっさい差し渡すまじ』と言う…禁令を発した。」(同上書p.275-276)

この禁令がオランダ・イギリスに大きな衝撃を与えたことは間違いがない。オランダのインド総督クーンは、本国に多数の兵士を本国から派遣することを要請し、さらに日本の商館に次のような対策をとることを指示したという。

「 『諸地方(東南アジアの各地)において当面の戦争が継続する限り、日本人がインドの他の国民と同様に役立つことは、何びとも疑わざるところ』だ。日本人傭兵なしではとうてい東南アジアの戦争を戦えぬ。将軍から再び日本人連れ出しの特権を得るよう、あらゆる手を尽くせ。

 △気蕕貌本から『わが城塞や艦船、およびインドの戦争に要する軍需品を十分に供給』できなければ、戦況に深刻な影響を受ける。これ以上、日本貿易が制約されないよう、将軍に請願を重ねよ(武器だけでなく、米麦・葡萄酒・肉類など食糧の禁輸も噂され、恐慌を来していた。)

 3ぞ紊里匹涼賄世泙覇本の君主の裁判権が及ぶのか、その限界を明らかにせよ。だが、日本の周辺でポルトガル・イスパニアの商船を捕獲することは、われらの立場を危険に陥れる。充分に注意せよ」(同上書 p.279)

しかしオランダやイギリスが何を言っても江戸幕府は方針を変えなかったようだ。
その後まもなく九州では、外国船の臨検が実際に始められ、
「8月6日、ジャカトラ(ジャカルタ)行きのオランダ船は槍を押収された。翌日には船内の火薬の捜査が行われ、9月12日には長崎にいたイギリスのフリゲート船から、槍・長刀・刀など千挺余りが没収されたし、その後も武器の押収が相次いでいた」(同上書 p.280)という。

このブログで何度か紹介した菊池寛の『海外に雄飛した人々』に、英国人のバラード中将が著書にこの様に記していることを紹介している。わが国の鎖国について、イギリスでこのような考え方があることをこの本を読むまで知らなかったのだが、この時代の日本人の勇敢さと武器性能の優秀さを理解すれば、充分納得できる話ではある。

「ヨーロッパ諸国民の立場から言えば、徳川幕府が300年間日本人の海外発展を禁じてしまったのは、もつけの幸いであるというべきである。もし、日本が、秀吉の征韓後の経験にかんがみ、盛んに大艦や巨船を建造し、ヨーロッパ諸国と交通接触していたならば、スペイン・ポルトガル・オランダなどの植民地は、あげて皆日本のものとなっていたであろう。否、インドをイギリスが支配することも出来なかったかもしれない。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276921/72

バラード中将の言う通り、江戸幕府がその気になっていれば東南アジアから白人勢力を排除するくらいのことは容易に出来たのかもしれないが、そんなことをしていれば、いずれわが国は東南アジアの紛争に巻き込まれて、長期間にわたり国力を削がれることになっていたことに違いない。その後江戸幕府は、日本人の海外渡航を禁止し、外国との貿易を制限し、武器の製造をも制限していく流れとなるのだが、これは賢明な考え方であったと思う。

この時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのは、鎖国によって国を閉ざしたからだという議論を何度か聞いた事があるのだが、この説には説得力を感じない。なぜなら、鎖国したと宣言したところで、どの国も攻めてこないという保証がないからだ。この時代に多くの東南アジアの国々が西洋諸国の植民地となったのだが、海禁政策をとっていても、一方的に西洋諸国に、武力で国を奪われたのである。

わが国民の一部がこの時代に奴隷に売られた事実はあるが、江戸時代の長きにわたり鎖国という政策をとりながら、わが国が西洋の植民地とならずに済んだのは、16世紀末から17世紀前半の東南アジアにおいて、日本人傭兵部隊の強さと、日本の武器の優秀さと量の多さを西洋人の目に焼き付けたことと無関係ではなかったと思う。わが国が強い国であることを多くの西洋諸国に認識されていたがゆえに、200年以上もの間、西洋諸国が攻めて来ることがなかったと考えるべきではないだろうか。

【ご参考】
わが国は、鉄砲が伝来した翌年には鉄砲の大量生産に成功しています。インドや中国はもっと早く鉄砲が入っていますが、自国で鉄砲が生産できたのはわが国だけでした。ノエル・ペリンの著書が参考になります。
この時代に、キリスト教が伝来するかなり前に鉄砲が伝来していたことはわが国にとってはラッキーでした。もし先にキリスト教が伝来していたら、わが国も植民地になっていた可能性を感じています。

鉄砲伝来の翌年に鉄砲の量産に成功した日本がなぜ鉄砲を捨てたのか〜〜その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-5.html

鉄砲の量産に成功した日本が何故鉄砲を捨てたのか〜〜その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-6.html

フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事〜〜その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-114.html

フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事〜〜その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-115.html


木庵の反応

<「GHQ焚書図書で取り扱ったのか、取り扱わなかったのか忘れたが、確か長野朗氏が豊臣秀吉がフィリピンのスペイン総督に恫喝の文書を送ったことについて書いていたと思う。戦前は豊臣秀吉が西洋諸国からの圧力に屈することなく、逆に脅迫さえしているというような事実の研究がなされていた。ところが、どういうわけか、戦後、秀吉の朝鮮侵攻は侵略であったという説が定着してしまっている。またこのような馬鹿なことをしたので豊臣政権は滅びたという説が教科書などに書かれている。。まさに戦後の自虐史観の延長上に秀吉時代も考えるようになってしまったのだろう。
「しばやんの日々」に書かれている記事には、戦後定着した秀吉の朝鮮侵略説を打ち破るものがある。しかも第一に基づいた論述である。木庵>


写真:黒い僧服はイエズス会士、灰色の僧服はフランシスコ会士。本の表紙。地図。

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『日本の感性が世界を変える』(たつやさんのコメント)#7
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たつやさんのコメント

文久二(1861)年、福沢諭吉は江戸幕府の使節の一員として、ヨーロッパに派遣された。
>ロンドンでは、清国からの留学生が諭吉らのホテルを訪ねてきた。彼は東洋の革新のためにはお互いに西洋文明を輸入することである、と述べ、
「今の日本で洋書を読めてその意味を理解し、かつ教えられる人は何人ぐらいいるか」
と聞いた。
諭吉が「正確には分からないが、日本国中ではおよそ500人はいるでしょう」と答えた。
「清国ではいかがか」
と問うと、相手は指折りしながら数え、「11人にすぎない」と嘆息した。

諭吉は密かに思った。日本は開国後わずか10年に満たないが、洋学は90年前の杉田玄白らによる『解体新書』翻訳から始まっており、洪庵のように富貴や栄達を求めず、ひたすら「道のため、人のため」に、金にもならない洋学を志す人々が500人はいる。

それに対して、清国は開国以来ほとんど100年余。その間2回も外国と戦い、西洋文明の強勢ぶりを目の当たりにしながら、数億の国民中、洋学を志すものわずか11人とは。彼らの英語は、単に茶を売るために"tea"の語を知るのみ、目先の金を売るためだけの英語に過ぎない。これでは進歩に遅れをとるだろう。

諭吉は、欧州各国で議会制度、陸海軍の規則、会社の仕組み、民間による鉄道事業・ガス事業など、西洋文明の仕組みを貪るように観察し、また多くの洋書を購入した。
ロンドンからは、中津藩の重役に軍政改革・洋学振興を促す手紙を書き送っているが、その中には次のような一節があった。

当今の急務は富国強兵です。富国強兵の本は人物の養育に専心することです。[1,p174]

以上、出典。

■ 国際派日本人養成講座 ■■■■文明開化の志士、福澤諭吉:無数のイギリス軍艦が浮かぶ香港で、諭吉は何を考えたのか。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h17/jog379.html

現代中国は、「中国の近代化はアヘン戦争から始まった」と言っているが、
これは毛沢東がついたウソである。
アヘン戦争で敗れても、清国人は「敗れた」とは思っていなかった。
清国が日清戦争で敗れてから、「日本を師匠として」中国の近代化は始まったのである。
この歴史的事実を、現代の中国人は直視するのを嫌がっているのだ。

「さくらじ#41 宮脇淳子が語り尽くす!中国講座 」
https://www.youtube.com/watch?v=IiJ2iF-zHlc

「中国語の中の日本語」
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn091.html

「日本語無しには成り立たない現代中国語」
http://suzacu.blog42.fc2.com/blog-entry-32.html

この結論に私も賛成です。
「もっと、強く言いたい」のが私の主張です。 2015/7/2(木) 午前 6:41 たつや


木庵の反応

<たつやさんの紹介してくださったアドレスを一応目を通した。結論として、現代の中国において、日本が作った和製漢語がなければ言語としてなりたたないということ。

それにしても、諭吉の時代に英語を理解する日本人が500人いたのに対して中国人は11人しかいなかったというのは驚きである。日本人は外国の知識を必死に得ようとしたことが分かる。木庵>


日本語は、感情と情緒の表現に適している言語だ

「最近ふとしたことから、だいぶ以前に読んだことのある、私の尊敬する文化人類学者中根千枝氏の名著、『タテ社会の人間関係』(1967年、講談社現代新書)を読み直していて、私がこれまで指摘したこととほぼ同じことを、中根氏が日本人の言語生活の特徴として、この著者の中ですでに詳しく述べておられることに気づいて驚きました。次に引用
する文章がそれです。

日本人は、論理よりも感情を楽しみます。論理よりも感情をことのほか愛するのである。少なくとも、社会生活において、日本人はインテリを含めて、西洋やインドの人々がする
ような、日常生活において、論理のゲームを無理に楽しむという習慣をもっていない、
 
論理は、本や議論のなかにあり、研究室にあり、弁護士の仕事のなかにあるのであって、サロンや喫茶店や、食卓や酒席には存在しない。そうしたところでは、論理をだせば理屈っぽい話としてさけられ、理屈っぽい人は遠ざけられる。・・・

ある中国人は、日本人のこの姿を見るにつけ、あのように無防備で楽しむことのできる日本人は羨ましい、といった。あるアメリカ人は、日本の実業家がアメリカの実業家同様に忙しいにもかかわらず、ハートアタック(心臓麻痺・鈴木注)で亡くなる事がずっと少ないのは馬鹿話のできる酒席の時間というものをもっている故にちがいないと考えている。・・・

日本人、日本の社会、日本の文化というものが、外国人に理解できにくい性質をもち、国際性がないのは、実は、こうしたところ---論理より感情が優先し、それが重要な社会的機能をもっているということ---にその原因があるのではなかろうかと思われる。(178・183頁)

このように中根氏が様々な角度から巧みに述べられている事実は、私がいま書いているこの本を、なぜ言語生態学的文明と呼ぶことにしたのかということに、深く関連しているものであって、その意味で私は強力な援軍を得た思いで嬉しくてたまりません。


<日本人は感情と論理をうまく使い分けている。会議などでは結構論理的で、また論理的でなければ受けいれられない。ところが、会議が終わり、食事をしたり、お茶を飲んでいるときに、議論をするような人は嫌がられる。頭のスイッチを切り替えて、感情が見える会話にならなければならない。このような使い分けを、日本人は色々な分野で行っている。木庵>

日本という国は結構すべてうまく行っている国だ

「・・・日本の国民が一番長生きしていることは、とりもなおさず食料、治安、医療、教育といった国民が安全で暮らせる社会条件が、全体としては世界で一番整っているということの何よりの証拠なのです。・・・

さらにいくつかの点を挙げると、日本は大東亜戦争終結後70年近くにわたって、国民の
誰一人として戦争で死んだ人がいない、唯一の先進国です。ですから戦争と聞くとアレルギーを起こす人にとっては、まさに日本に生まれてよかったとなるはずです。また国連
薬物犯罪事務所(UNODC)が2014年に発表した世界の殺人発生率(10万人あたりの殺人発生率)では、先進国中最低です。そしてすべての国民が入ることのできる、アメリカにない健康保険制度も持っています。・・・」

<上のことはアメリカで暮らしているとよく分かる。木庵>


日本には宗教が原因の紛争も人種差別の問題もない

「日本がどこよりも素晴らしい点は、何と言っても宗教が原因の戦争や対立が国内に全くといってよいほど存在しないことです(かつてオウム真理教が起こした悲惨な事件がありましたが、これは宗教的な対立紛争には当たりません)。

ところが国外では事情が全く違います。いまだに世界各地で起こっている激しい戦争の一番の原因は、宗教的反目と異宗教の対立が原因なのです。

アメリカが一方的に戦争を仕掛けたイスラームのイラクやアフガニスタンから、無事撤退できるかどうか、今のところ見通しは決して明るいものではなりません。終わりの見えないシリアの内戦も、結局のところ中近東のイスラーム世界には付き物の、シーア派とスンニ派の主導権争いに起因する根深いものといえましょう。

そして、イスラエルとパレスチナの自治区のガザを拠点とするハマスとの凄惨な戦いも深刻さを深めるばかりです。

またイギリスでも。北アイルランドのカトリックとプロテスタントの対立が原因のテロ事件がロンドンでしばしば起こりましたし、ロシアは現在でもコーカサス地域でのチェチェンにおける宗教絡みの内戦を抱えています。ユーゴスラビア解体後に発生した、正教会のセルビアとカトリックのクロアチアと凄惨な殺し合いの余波も、まだ完全には収まっていません。・・・

さらにインドネシアに囲まれた形の東ティモールでの長引く戦争も、キリスト教とイスラーム教の対立が原因の一つですし、フィリピンが抱える大きな問題も、ルソン島のカトリック教徒と、ミンダナオ島のイスラーム勢力がなかなか融和しないということが関係しているのです。アフリカ大陸でも同様で、イスラームとキリスト教の対立が原因の戦争や紛争は各地で起こっています。特にそれが顕著なのはアフリカ最大の人口を持つナイジェリアでの紛争です。またいわゆるエジプトの「アラブの春」の崩壊も、社会の世俗化、非イスラーム化に不満を持つ人々と、宗教から解放されて社会の近代化を望む人々の対立が底流をなしていると言われています。

ざっと見てもこんなわけですから、宗教が原因の流血の惨事どころか紛争と呼べるものが、
1616世紀後半の、織田信長による一向一揆の平定以来今に至るまで、国内で四百年以上も全く見られない国は世界で日本だけなのです。」


<日本人が抱く宗教観は八百万の神であり、自然崇拝からきている。他の宗教と対立するのではなく、共存しようとする。だから、宗教が原因による紛争や戦争がない。このことを誇るべきである。木庵>


日本は外国と戦争をした期間が最も短く、最長の不戦世界記録を保持する国

「・・・日本という国の始まりを、一応紀元600年の第一回遣隋使派遣の年あたりとすれば、日本(倭国)が最初に行った対外戦争は、663年に隣国百済の求めに応じて朝鮮半島に4万人もの大軍を派遣し、唐と新羅の連合軍と戦って大敗北を喫した「白村江の戦い」です。

そしてこの古代の朝鮮出兵から数えて約九百年間、ということは戦国時代の終わりに、豊臣秀吉が起こした朝鮮に対する二度にわたる侵略戦争(1592〜98)までの期間、日本はどこの国とも戦争をしていないのです。この間二度にわたる元寇がありましたが、これは日本が一方的に外国から攻撃を受けたもので、日本が積極的にしかけた戦争ではありあせん。また日本の倭寇などと称せられた武力集団が、中国大陸沿岸や東南アジア地域なのを荒らす海賊行為が、かなりひどかった時期もありましたが、これなども国としての日本の戦争には入りません。

そしてこの秀吉の朝鮮侵略のすぐ後に、日本は鎖国体制に入ってしまったため、再び約二百五十年もの対外不戦状態は続きました。この状態が遂に破られたのが明治27年(1894年)に起きた日清戦争で、以後1945年の大東亜戦争集結まで、日本は戦争に次ぐ
戦争の半世紀を迎えることとなったのです。

つまり、日本の歴史は古代のわずか二日間にわたる「白村江の戦い」と、近世での足かけ7年ばかり朝鮮侵略の二つを除くと、国の始めから日清戦争までの約千三百年というもの、対外的には不戦の状態が続いた国なのです。こんな国は世界のどこにもありません。

このような長い不戦の歴史をもつ日本という国、そして日本人を侵略戦争をこととする好戦的な国家だ民族だと称することが、どうしてできるでしょうか。」

<日本は島国であるということから、このような驚くべき不戦の歴史を刻むことができたのである。木庵>


写真:日本の宗教

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60: 名無しさん@恐縮です 2017/11/26(日) 13:37:12.02 ID:FqbwNwQs0
■日馬富士の暴行傷害事件のすべては、この取り組みが原因だった。

白鵬 vs 貴ノ岩 平成29年1月21日(14日目)
https://youtu.be/uJCKmSOmJEk

この取り組みで稀勢の里の優勝が決まり、横綱昇進が決定。
日本人横綱は19年ぶりの快挙であったが、実はこれには裏がある。

白鵬が日本人の横綱昇進を阻止するために事前に貴ノ岩に
「お前が負けないと稀勢の里が横綱昇進してしまうから、
絶対 俺に勝たせろ」と八百長を指示していた。

しかしガチンコ相撲の王道である貴乃花親方を裏切ることが
できない貴ノ岩は、ガチンコ相撲で白鵬に勝利し、白鵬が激怒した。

そして今回の日馬富士の暴行傷害事件である。当日、白鵬は
怨みタラタラで同じモンゴル人の貴ノ岩に終始説教し、
「お前は誰の味方だ?俺たちモンゴル人の味方だろ!
これからは俺たちに従い、言うことを聞け!」
貴ノ岩は拒否し、険悪な空気がピークに達した。

その時、白鵬が日馬富士に目で合図、
日馬富士が貴ノ岩をボコボコに暴行。
これが一連の真相である。

私のコメント
ありそうな話だ。

カナリアの忘れた歌

忘れ去られた大東亜戦争の時代精神 より、一部を編集して信時潔の作品を紹介します。

都留文科大学の新保祐司先生は、9月24日の産経「正論」で、「先の大戦を忘れたふりした代償」として、今の中韓による「歴史戦」で相手の攻勢を許してしまっている、と述べています。大東亜戦争とは何だったかを根本問題として問い直そうというのです。

 先生の専門である文化史で見ると、戦前の昭和とは、明治維新以来の蓄積を経て、日本人の精神が多様で豊穣な精神を示した時代である、昭和15年の「紀元二千六百年」の前後には、日本の文学、絵画、音楽などの文化は、近代以降のピークを迎えていたと言います。文学では島崎藤村の「夜明け前」、川端康成の「雪国」、小林秀雄の「無情と言うこと」、保田(やすだ)輿重郎の「万葉集の精神」、美術では梅原龍三郎や安井曾太郎、音楽では信時潔や山田耕筰等々が活躍していました。

 しかし音楽では信時潔は忘れ去られました。その傑作は「やすくにの」であり、「鎮魂頌」であり、交声曲(カンタータ)「海道東征」とのことです。「海ゆかば」もそうです。

 「やすくにの」は、シナ事変で部隊長が若くして戦死した部下に捧げた和歌に曲をつけたものですが、同時に靖国に祀られた全英霊と全母性に捧げられたもので、当時ラジオ歌謡として国民に愛唱されたとのことです。信時潔は、長い作曲生活を通じて、最も感銘深い曲と自ら言っています。しかし今は聴くことは出来ません。

      「靖国の 宮に御霊は 鎮まるも をりをり帰れ 母の夢路に」


 「鎮魂頌」は、国文学者折口信夫が縁者の戦死の報に接して作詞したもので、戦後日本人が忘れてはならない戦没者への感謝と祈りが込められたものとのことです。
  http://gunka.sakura.ne.jp/nihon/chinkon.htm
  https://www.youtube.com/watch?v=4f4eezf7J-s
                 「鎮魂頌」           
               思ひみる人の はるけさ
               海の波 高くあがりて
               たたなはる山も そそれり
               かそけくもなりにしかなや
               海山のはたてに 浄く
               天つ虹 橋立ちわたる

               現し世の数の苦しみ
               たたかひにますものあらめや
               あはれ其も 夢と過ぎつつ
               かそけくも なりにしかなや
               今し 君 安らぎたまふ
               とこしへの ゆたのいこひに

               あはれ そこよしや
               あはれ はれ さやけさや
               神生れたまへり
               この国を やす国なすと
               あはれ そこよしや
               神ここに生れたまへり


 交声曲「海道東征」は、紀元二千六百年の奉祝曲として、北原白秋作詞、信時潔作曲で作られた作品で、日本の国産み(くにうみ)を描く壮大な叙事詩として、日本書紀や古事記の記述を基に書き上げた万葉調の格調高い詩に作曲をしたものです。紀元二千六百年の奉祝曲として、外国の著名な作曲家にも作曲の依頼がなされ、ドイツのリヒャルト・シュトラウスも応募しましたが、新保先生によると凡作とのことです。凡作でもドイツ人の祝典曲は日本で演奏されるのですが、日本人信時潔の傑作「海道東征」は演奏されない、戦後日本の自虐精神が、「海道東征」を忘却の彼方に追いやった現象がそこにあります。
  https://www.youtube.com/watch?v=oMWN7bRtznw


「海道東征」字幕つき全曲  https://www.youtube.com/watch?v=8UqGPJA0PHA
 しかし時代は少しずつ変わりつつあります。「海道東征」は、平成26年2月に、熊本で戦後二回目の演奏会があり、来年11月には、大阪での演奏会が企画されているとのことです。熊本から大阪へ、更に東京で演奏会が開かれれば、文字通り「東征」が達成される、戦後レジーム脱却の象徴となると、新保先生は期待してそう言います。

 「日本を取り戻す」・・・。戦後GHQの洗脳による呪縛を解く、日本には「広大な忘却の海」がある、その海底から忘却させられた記憶を取り戻す、大東亜戦争の時代精神を振り返る、再評価する、詩人達の感性を理解する、日本人の精神を復活する、「愚民」であることから脱却する、・・・。戦後自虐日本の象徴であった朝日新聞の凋落は、そのよい機会になるでしょう。
                                                                                    以上
                                      (うまし太郎)  2014/10/01


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