高村光太郎と「成瀬仁蔵胸像」

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

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広岡浅子と井上秀

広岡浅子が実の娘の亀子以上に、手塩に掛けて育て上げた女性のひとりが井上秀(のちに日本女子大学長)であろう。
井上秀は、浅子の娘・亀子と京都府立第一高女時代、同級生で親しかったこともあり、さらに勉学をしたいという秀を大阪の広岡家に住まわせて面倒をみたのが浅子であった。
京都高女時代の写真は、堀真澄写真館が撮影しており、その台紙に貼られている。3列目左端が井上秀である。
女子が高等教育をうけることの意味・意義を深く理解していた浅子にとって、秀はある意味で実験モデルであったのかもしれない。
娘の亀子が浅子の実家・東京の三井家に身を寄せた後も、秀はひとり浅子に侍し、東奔西走する浅子に随伴し、九州の加島屋の炭鉱にも行ったという。秀は、女性実業家で女傑である浅子の生き様を身をもって学んだに違いない。
 後年、秀は、「浅子さまは、娘の亀子さんよりも、気質から、私に近く、そのため、私が可愛いのかもしれないと思う位でした」と語り、「私に親切であった浅子さまのことを考えると、母以上の母という感じです。加島屋のひろい奥座敷で浅子さまをまんなかにして、亀子さんと私は寝たのです」と語っている。
明治27年3月、秀は京都高女を卒業したが、8月、弟・純太郎が死去(チブス)したため、旧家の生家を継ぐ。生家は、兵庫県氷上郡舟城村字山田(ひかみぐんふなきむら)にあり、秀の言葉によると「三十戸の小村、代々庄屋をつとめ、清和源氏の裔、二字帯刀御免の家、大地主でもなければ貧乏でもない、先ず普通の地主の家」である。
 そして翌28年1月、足立雅二(母方の祖母の姪の子供)を養子に迎え結婚する。雅二は一歳年上で、氷上郡大箕山下神楽村字菅原の旧家・足立多兵衛・イト子の次男である。結婚した翌年、雅二は東京専門学校(後の早稲田大学)に学び、夫婦別居の生活が長い時期もあった。卒業後、東亜同文会上海支部幹事となり、2年後、ウィーン大学、そしてベルリン大学で聴講、ロシア、東欧、中央アジアなどを冒険旅行し、帰国している。明治38年、韓国政府財政顧問附財務官、宮内府大臣官房などの勤務を経て、依願免官、明治44年、㈱南亜公司を設立、森村市左衛門らと南洋ゴムの栽培事業にかかわる。大正4年、南洋協会を設立、アジア主義者、南進論者として知られる。大正13年には、推されて地元の兵庫郡第6区から出馬、衆議院議員に当選している。
 一方、秀は、引き続き浅子の知遇を受けたが、浅子の秘書になったわけではない。浅子は、大阪から京都へ行き、朱子学の鈴木無隠に師事、さらにその紹介で天竜寺の峨山老師のもとで参禅している。「ついに、京都から通うのをやめて、天竜寺近くの竹薮の中の尼寺へ泊まり」、公案に取り組み、ようやく見性を許されている。
 参禅により見地が違い、心境が開け、「いよいよ平凡な実行家、平凡な女書生、平凡な妻、平凡な母、けれどもそこから退嬰しない」という自分の居所が決まったようであると述べている。
 浅子に随行した秀の九州の加島炭鉱見学の旅は、後年、秀の語るところによると、五日間で終わったが、「浅子さまの持っている「人間の味」が私の中にピンピンと伝わり、何事をもおそれない女の人を私はこの方で知りました」という。
  成瀬仁蔵が女子教育、女子大学の設立のことで浅子を訪ねたとき、浅子は「この人は今禅学をしてなかなか一生懸命に修養はして居るのでありますがどうもまだ矢つ張り一本調子で所謂カドがとれないからどうかひとつ先生の御主義の教育を受けさせたいと考えて居る所です」と成瀬に秀を紹介したという
 明治32年、秀は、長女・支那を出産するが、明治34年、創立された日本女子大学校に入学を勧めたのも浅子であった。
前年の明治33年、秀は、浅子の娘・亀子と上京、駿河台のミス・カーの塾に入り、英語などを勉強、英文科を志望していた。しかし成瀬仁蔵から新しい分野の家政科への入学を強く勧められ、不承不承、家政科に入ったという。
明治38年、第一回の卒業生が出たとき、卒業生を支援する同窓会の組織・桜楓会、その補助団を支援したのも浅子や三郎助夫人・寿天であり、秀は最初の桜楓会幹事長に就任する。
そして明治41年、秀に米国に留学し家政学を学ぶことを勧めたのも浅子であった。写真の秀の洋装は、米国留学時に浅子から贈られたものであるという。もう一枚の洋装写真も米国留学時のものであるが、こちらは秀が自前で用意したものであろうか。
 明治41年、秀は、米国に留学、コロンビア師範大学で家政学、シカゴ大学で家庭や婦人に関する諸問題を研究、その後、米国や西洋諸国の女子教育、家政学研究の現状を視察し、明治43年3月、帰国する。
 帰国まもない明治43年5月、秀は浅子と共に、岡山の後楽園における女子講演会で講演、そのときの写真が残されている。会場の鶴鳴館には400余名が参加したという。築山を背景に、中央に秀と浅子のみが洋装で写っている。ちなみに翌明治44年5月、第2回女子講演会が同じ後楽園・鶴鳴館で開催され、成瀬仁蔵、森村市左衛門、渋沢栄一の男子3人が講演、実に千余名が参加、定刻前に満員になったという。しかしやや二番煎じの感は免れず、前年の浅子と秀の女子2人組の先駆性が評価できよう。
秀は、その後、明治45年、長男陽一、大正2年、次女幽子を出産するが、日本女子大学教授、同家政学部長などを経て、昭和6年、卒業生初の日本女子大学校の校長に就任することになる。
広岡浅子は、女子高等教育のために、成瀬仁蔵と二人三脚を組んで東奔西走、女子大学の設立に向けて献身的に支援したが、その成果のひとつが井上秀であったといえよう。
大正8年、浅子が逝去したとき、秀(桜楓会幹事長)は「家庭週報」(桜楓会機関紙)に哀悼の辞を述べている。しかしこの哀悼の辞は、いまひとつ歯切れがよくない。
というのも、秀は、後年、恩義を受けた浅子について、次のように語っている。
「晩年は事情あって、日本女子大学とも桜楓会ともはなれて、校葬をしてさしあげていい資格の方なのに、その事もなく、逝去されてしまいましたが、日本女子大学および桜楓会はこの方の不朽の功績に対し、益々、、、、  」
 この「晩年は事情あって」とは、一体どういうことを指すのであろうか。2015年8月4日の当ブログ「広岡浅子刀自追悼会と校長・麻生正蔵」参照

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井上秀の京都府立第一高女時代の写真、京都の写真師・写真館としては堀真澄が有名である。
一方、浅子については、神戸の市田写真館、市田左右太が撮影した写真が知られている。
市田は大阪でも広く仕事をしていた。

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後列左端が井上秀である。当然、まだ着物姿である。秀の洋装は、浅子の影響があるだろう。

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浅子から贈られたというドレスを着用して、明治41年、米国コロンビア大学へ留学するにあたり

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この洋装写真も米国留学時のものであるが、こちらは秀が自前で用意したものであろうか

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中央の洋装が秀、右奥の洋装は平野浜、右端は大岡蔦枝、明治41年、秀の米国留学を記念して。
平野はフェリス女学校卒で、英語が堪能、明治43年、三井同名の管理部長・三井三郎助(寿天夫人同伴)が
益田孝らと欧米視察に赴いたとき、通訳を依頼され同行する。洋装の趣味や着こなしの点では、秀より数段上である。
一方、大岡蔦枝は、京都府立第一高女卒で、秀の後輩にあたる。秀は高女卒業後、京都の柳原伯の別邸に居住、
広岡家の令嬢2人を預かりながら、天竜寺の峨山和尚につき禅の修業をしていた。この頃、蔦枝は秀と知り合
ったという。蔦枝は、秀と同じく家政科で学び、のちに料理の教授となる。小説家大岡昇平の実姉である。
ところで平塚らいてうは、明治36年、御茶の水女学校を卒業し、日本女子大学校家政科に入学する。
本郷曙町の自宅から徒歩通学をしていたが、2年目に寮に入る。「らいてう自伝」によると、「わたくしが入った
七寮は、附属高女の平野先生が寮監で、その下に家政科三年生の大岡蔦枝さんがお母さん役で責任をもち、その
下にわたくしと同級生の、、」と述べている。平野先生とは平野浜のことである。ただし開校当初(M34)、
寮は一寮から八寮まであったが、大学の資料によると、平野浜は一寮(M36松柏寮と命名)の寮監であり、
七寮(M36春秋寮と命名)の寮監は神谷(岩井)信であった。

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明治43年5月31日、岡山支部主催女子講演会における記念写真。通信教育会員、女学校生徒、
一般有志婦人らが400余名、参加したという。

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広岡浅子と帰国まもない井上秀、洋装の女子は二人のみである。浅子と秀は、山陽女学校
や孤児院を訪問したという。翌明治44年5月、成瀬、渋沢、森村も岡山孤児院を訪問している。

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岡山・後楽園の鶴鳴館における女子講演会風景、浅子は「経験に鑑みて将来の女子に望む」、
秀は「我国婦人の家庭生活はどうならねばならぬか」という演題で講演した。
演壇には、洋装・洋帽子の婦人がおり、右上方には「鶴鳴館」という額がみえる。

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東京専門学校(のちの早稲田大学)在学中の雅二、明治29年、

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東京目白の井上邸、五禱荘内に設立された「民族政策研究所」
 
 


 





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