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【酒が誘発する依存症】
久しぶりの同窓会、といっても小さな集会だった。おのおの別々の人生なので、昔の小学校時代のことはともあれ、その後の交流は取り立ててないまま、お互いに過ぎて来た。
酒についての話となった。私は酒には害がある、と言った。この意見は、アルコール依存症の治療に当たる医師にとって科学的常識であろう。アルコールはがんを誘発するという説もある。ところが、相手は「酒は薬だ。百薬の長だ」と断言した。その自説を言い張るだけで、有害説に耳を傾ける気配などみじんもなかった。百薬の長だという謂いが世間に流布していることは、私にしても百も承知だ。酒を飲んで憂さ晴らし、明日の活力を養う景気づけになることは、酒の効用だろう。
彼は乱酔・泥酔というわけでもなかったが、酔態が過ぎる感じがした。集まりに酔っぱらいが一人混じっている感じなのだ。酔いを楽しむ域を出て、酒に飲まれている様子を露呈していた。こういうさらけ出しについて私は好意が持てない。酒は楽しめばいい。酒席でも大半の人たちがそうである。境目は不分明なのだが、数パーセントのひとが酔態をさらす。酒には害があるのだ。薬にしても副作用がある。薬物依存症を招く強い薬をむやみに服用しては身体にいいはずがない。効き目を期待される薬であっても、副作用は身体に悪い。
アルコールには依存性があり、耐性がある。常飲者が飲酒量を増やさないと、酔いの効き目が薄いのなら、特異な体質でないかぎり問題飲酒が疑われるだろう。それにもかかわらず酒飲みは飲酒量を自慢したりする。大酒を飲む能力がそれほど自慢になる理由など何もないはずだ。
大量飲酒が病気の誘因だという説は、別段珍しい話しでない。酒を飲む人にしても、それなりの知識があれば、もっと抑制的に飲酒を楽しめるはずである。もしそうでないならば、それはアルコール依存症という病気に罹患したのでないかと疑う理由が生じている。病気は初期治療が効果的だ。世人が初めて「アル中」と認識する病状、すなわちぶっ倒れての泥酔状態はよほど重い末期症状である。そうなってからでは、治療も手遅れかもしれない。
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【賭け事の対象】
この世では、あらゆる事が賭け事の対象になる。プロ野球での「賭け事」が世上を騒がせている。勝敗に金を注ぎ込んだ賭博行為だとして、プロ野球界から追放された人たちがいる。ただし犯罪として処罰されたわけでない。そういう話は耳にしない。
ところが、円陣の「声出し」という行為について、巨人の場合、勝ち負けの結果、お金の精算行為があったと報道された。これも賭博である。いろいろ言い繕いがあって、それは負けへの誘導にならないから野球協約違反でないのだそうだ。また、金額が少ないので大した犯罪でないのだそうだ。中にはそれは験担ぎなので「賭博」でないなどという意見もある。
阪神にも、同様の行為があったとも報道された。賭博罪という法律があり、わが国は法治国家だとされている。金額の多寡が法律に定められているわけでない。法律でいう賭博でないのかどうか、と言えば、そんなことはない。可罰性の是非はあっても、それは別の話である。
プロ野球という興行を多くの人々が楽しんでいる。「球界の紳士たれ」は、地に堕ちた。「われわれも普通の人間だ」という身も蓋もない話でいいのか。それなら、1時間当たりの給与はいくらだという、普通の人々の暮らしでいいわけだ。
プロ野球人という野球技術を披歴する人々の志はどこへいったのだ。そんなものは元々なかったのか。球団社長や野球関係者の談話の中に見るべきものはあるのか。そんな開き直りよりも、「声出し」にしても、賭け事の対象にすべきでない。それが世間の常識であってほしい。
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【「無問・無答」】
無問無答とは、問い無し、答え無しという謂いだ。それが不問不答なら、問わず答えずという謂いになるだろう。宗教や哲学について問答が有意義かどうか私は関知しない。私が言えることはそれぞれの人生だということだけだ。宗教学者や哲学者なら、それなりの人生があるはずだ。
思想信条は自由である。ひとはおのが自由に物を考えていい。とすれば、他人が何を考えるかも自由にちがいない。
私は、自分の信仰心の浅深は知らない。けれども科学的精神を持ちたいと願うので、それは宗教と科学の問題でもある。この世には分らないことがあると、私は思っているので、他人の信仰心について、とやかく言うことはない。ただし、迷信には関わりたくない。世人には、いろいろ迷信じみた人々がいて、訳が分からないこともある。科学的精神を照射して、迷信や妄想から脱却するほうがより幸福だろう。
伝統的な宗教は、それなりに時代の風雪に耐えて、洗練されているようだ。例えば、キリスト教、仏教、儒教の歴史上の人物の言動には、心を打たれる思いがする。イスラム教にしても、開祖の物語があるようだ。
私は読書人なので、宗教書に触れたことがある。それぞれ逸話があって興味深いものだ。ただし生身の人間に触れると、僧侶であっても、その職業的位置づけはともあれ、人格の陶冶という意味で、私の心の琴線には届かなかった。彼らは仏教協会で地位を占めていたようだが、寺院経営の帳簿について、ずさんな話であったり、税金はごまかすほうが得だというふうな口振りだったりしたので、私の思いにはそぐわなかった。
亡母は信心深い人だった。宗旨が真言宗だったので私も、法事・法要はそのまま継承した。私は無宗教でもいいけれど、伝統的な形式なら、それなりに済ませることができる。それはそれで便利である。しかし便宜だけで人間は生きているわけでない。生老病死、四苦八苦の人生なのだ。楽しいだけの人生があるかどうか、私は知らない。それとても酔生夢死かもしれない。
人は死ぬ。他人が死んだのを見聞きするのが人生でもある。そして自分もいつか死ぬ。救いはあるのか。救いはどこから来るのか。それにしても、私は自分以外の他人を神格化などしない。自分も含めて人間はしょせん人間以外の何物でもない。人間は人間であって、「神」や「仏」でないことは確かだ。人間であるかぎり、何人であっても生老病死や四苦八苦を免れたためしはない。すくなくとも私は知らない。
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【“銀行提出書類”】
最近、ある税理士任意団体では、金融機関から融資を受けるための書類をどのように作成するか、というテーマが取り上げられている。何でもチームになって、“もっともらしい”書類作成を競うような事例研究会である。
融資を受けるための書類作成というテーマは、定番でなんどとなく繰り返されてきた。ところが、私ときたら、税理士としてそういう書類を作成したことがない。
私がしてきたことは、銀行から求められた「試算表」を顧問会社へ渡して、銀行へ転送することでけりをつけてきただけだ。赤字だろうとも、「粉飾」などに私は手を染めずに済ませてきた。
「チェック・リスト」なども、保証料の何%引きになるのか、顧問先から保証協会へ問い合わさせて、それが大した利鞘にならないことを確かめてもらって、チェック・リストの提出を拒んできた。
たまたまお知り合いになったご高齢の税理士さんは、いまでは、銀行提出書類はすべて断るとおっしゃっていた。なんでも若いときはむちゃをしたが、いまでは「あんな恐ろしいことは、ようしません」という述懐をもらしていた。
「粉飾決算」は私には無縁の世界だ。ところが税理士仲間と話をしてみると、無頓着と言おうか、鈍感と言おうか、私の「恐怖心」とは別世界の住人たちのようだ。
最近のことだ。金融機関から電話が架かってきた。関与先会社の試算表がほしい、という用件だった。「会計資料がきていないので、出せません」、と私は答えてあげた。「融資ができないと、困るのです。なんとかなりませんか」と、相手は粘った。
「社長に早く会計資料を税理士事務所へ渡すように、言ってくれませんか。私にはどうすることもできないので、銀行さんから、資料の催促をしてもらえたら、ありがたいです」、と私は言葉を重ねた。
なおも相手は「融資ができないと、困ります」と言葉を繰り返した。それで電話のやり取りは終わった。要するに借りてほしいのである。
後日、その関与先会社へ私は訪問する機会があった。「先生、これ」と社長は、融資明細書コピーをくれた。「帳簿の整理を急いでください」、私はそう言うほかなかった
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【チラシをもらう】
しばららく前のことだ。私の通勤路の駅頭で、共産党が街頭宣伝をしていた。通行人にはチラシの配布に手を出さない人たちが目立つ。
ご苦労さんな、ことだ。私はチラシをもらった。読むと消費税増税に反対とあった。そして、大企業・富裕層に対して応分の負担を求めるとあった。大意はそんなところだ。私はチラシを捨てた。保存しておくほどのこともない。
共産党党員やその支持者にとっては、正しいことが書いてあるのだろう。税理士仲間にも共産党の悪口だけは言わない御仁がいる。ときには、地方議会での共産党議員の発言までも探してきて。それを引用・紹介してくれる。奇妙なことに、引用者の見解や批評があったためしがない。自身の意見もあるのかもしれないが、同調的発言ばかりで、他人の著作権物である引用文にすべてを語らそうとする魂胆のようだ。すなわち読めば分るだろう、という算段だ。こんな御仁と議論など成り立つはずがない。
2014年晩秋、衆議院が解散した。歳末の選挙である。テレビで共産党党首志位和夫がチラシと同じ発言をしていた。私の憲法理解では、租税は応能負担だというものだ。私は税金に関して不用意に応分の負担などと言いたくない。すなわち共産党の言葉遣いに同調しない。
以前のことだが、共産党のチラシや壁面のステッカーには消費(税)大増税反対とあった。これでは小幅の増税ならよいとも取れるのでないか。やはり不用意としか、私には言いようがない。
私にとっては、応分の負担や大増税反対という用語は、気に入らないことだ。普通の人々が普通の努力で普通の幸福を手に入れる社会の税金は、どうあるべきか。少なくとも、最低生活費は非課税であるべきで、消費税の性格上それが制度設計できないのであれば、欠陥税制というほかない。
(おまけ)
私は朝日新聞の購読者だ。昔からのことで、神戸新聞を取っていたこともあった。複数のときもあったが、どちらか一紙のときがほとんどだ。臨時に毎日新聞を期間限定で購入した思い出もある。読売新聞は震災後の寄寓宅で読んでいたことがある。デイリースポーツは、喫茶店で内藤国雄の詰将棋を解くために読む。アカハタや聖教新聞を置いていた大衆食堂を利用していたこともあった。
最近では、朝日新聞は消費税増税の一本調子だ。そのくせ軽減税率で自社の負担縮減を望んでいる。馬鹿らしいが、新聞記者といえども、およそ税制や会計制度に無知なのだろう。もっとも税理士でありながら消費税賛成などと口にして自己満足している御仁もいるので、私にとって、この世はほとほとままならない。
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