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ブラックホール1 生きること 2007.6 フェルナンド
生れた時から死というブラックホールへ向かって突き進んでいると認識できる生命体は人間だけである。自然死でなく、交通事故・天災・病気などで急死する場合を除いて、何才くらいまでなら生きられると予測することもできる。
しかし、まだ自分の死がそんなに近いものではないと思っているので、人は怠惰でいられる。例えば医者から死の時期を宣告されたら、残りの人生をどう過ごそうか真剣になる筈である。
人類が地上に存在してから200万年近くが経過したが、この祖先が進化したお蔭で、現在の人間が存在する。祖先が残してくれた知識を学習し、その上に新しい発見を積み重ねにより、現在の文明も存在する。新しい発見に寄与出来る才能ある人類は、石器時代でもごく少数であったと想像する。大多数は、現在の人間社会と同様に、怠惰であったろう。
脳の記憶は4-5才頃から始まり、加齢により正常な意識を喪失するまで、人間は生活の中に人生と呼べる現実を経験し脳に蓄積する。その質は、環境や知識や能力や興味などの方向や度合いによって、蓄積された知識に個人差が生ずる。
一旦記憶が開始されると知識の集積となり、有機的に組織され、環境適応能力となる。これが加齢により老化が進むと、脳細胞の減少により集積された知識や、体力などの適応力が減衰して行く。幸運であれば、最終的には老衰へ進み、無我の中で死を迎えることができる。老衰の状態には、個々に大きな差があり、死の直前まで正常な人間として行動できる人も稀にあるが、大部分の人は痴呆状態になり、記憶が薄れ、死(無)の世界へともどってゆく。
生命は生れては死滅してゆくが、これが繰り返されることにより進化する。全ての生命は親の遺伝子を継承し誕生するが、精神や知識までも継承されるのではなく、生後に身につく。それが同じ遺伝子から再生されたクローンであっても、その精神や知識の継続は、現在の最先端科学を駆使しとも叶えられない。
科学の世界では、死とは、生命体にとって「無」を意味する。死が永遠の眠りと表現されるように、夢のない睡眠状態と全く同じである。人は、毎日死と隣り合わせの状態に置かれているのに、それに気付かずにいる。誰も明日が来るだろうかと心配しながら寝る人はいない。それは無意識に明日があることを知っているから、無心に毎日を過ごせるのである。その睡眠状態が死と同じ状態だとすると、宗教の信者には申し訳ないが、死後の世界などあり得ない。
従って、宗教の世界で取り上げるような、前世での存在や後世に再生などあり得ない。ほんの一部の怠惰でない人間が、死というブラックホールへ突き進む恐怖におののき苦悩する。この苦悩する極一部の人間の中から宗教が導き出される。導き出された宗教の論理も、置かれた時代や環境によって異なることも、周知の通りである。死への畏怖が嵩じると、心の中で死後の世界があるという妥協を創出する。その未来が永遠に繰り返されるなどと論理付ける。すでに自分は未来に生きているかもしれないし、生前に生きているのかも知れないと飛躍する。
精神は死後も永遠に生き続けられると信じるならば「後世にとれだけ影響を与えることができるか」と考える方が現実的であろう。
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