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最近、インターネットで浮世絵・版画を収集しています。収集したファイル数は8,600点ほど。以下に歴史や感想など纏めてみました。浮世絵に関心をお持ちの方のご参考にしていただければ幸いです。画面は、鳥居清長「女湯の図」(復刻版)です。
歴史: 世界最古の木版印刷物としては、奈良の法隆寺に現存する「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)」が知られています。これは、奈良時代、称徳天皇の発願によって作られ、延命、除災のための4種類の経典をそれぞれ木版で印刷し、大量に制作し、法隆寺をはじめとする十大寺に文奉されたと言われている。この「百万塔陀羅尼」や「阿弥陀如来像摺物」などのように、当初木版は仏教の流布を目的とする印刷技法として主に使用されたと言われています。
江戸時代、幕府の安定と共に文化がめざましく発展し、多くの書物が木版によって印刷され、出版されました。これらの出版物は、仏教や儒学をはじめとした哲学書、医学書、教養書など学問的な書物を主に出版した版元・書肆問屋(しょしどんや)と大衆向けの娯楽的な書物である黄表紙、滑稽本、絵本、読本を出版した版元・地本問屋(じほんどんや)によって、制作出版されました。黄表紙などに代表される娯楽的書物は、文字や高度な漢詩文の素養がなくとも楽しめるようにと、簡単な文章の他に多くの挿絵が使われました。これらの挿絵が次第に一枚の絵として発展し、書物の一部としてではなく、純粋に絵を楽しむための「一枚絵」として出版されるようになりました。これが浮世絵木版画の始まりです。武家や貴族の注文によって描かれる狩野派などの肉筆絵画とは対照的に、庶民の日常生活に関わりのある題材をわかりやく描いた大衆向けの浮世絵木版画は、大衆文化と共に大きく発展していきました。
文章の挿絵から一枚絵として独立した当時は黒一色の「墨絵」でした。墨一色に物足りなさを感じた版元は、娯楽性も加味して複数の色を手で彩色しましたが、高価なので多色摺りを開発してゆきました。多色摺り初期には彩色ずれを生じ、黒+2色だけの「紅摺絵」でした。多色摺りの要望が高まり、ずれを解消する「見当*1」という方法が明和年間(1764-1772)に開発され、その後多色摺りが可能になり、「錦絵(美しい絵)」を誕生させることになりました。
*1「見当」とは、木版の右下にカギ型の突起(見当)を設け、紙を固定し色ずれを防いだ。物事の方向付けをするという意味の「見当」という言葉の語源
絵師と版元: 浮世絵版画の工程が、絵師(下絵描き)と版元(彫師・摺師・出版)がそれぞれ独立分業しており、大衆化するための量産化を可能にしていたことには驚かされます。良好な木版画は初摺りから200枚が限度といわれていますが、当然、それ以上に摺られたでしょうから、版木の角が摩滅し、それを補う象眼などの方法もとられました。
絵師の出身も、狩野派などの日本画、阿蘭陀(オランダ)画、浮世絵、物書、学者、武家など多彩で、日本画と浮世絵の両者の傑作を残した人も多くいます。歌川廣重、葛飾北斎、歌川国芳、喜多川歌麿など人気絵師には多くの版元から注文があり、大量の作品が今現在でも鑑賞できます。特に89才の長寿を全うした北斎は、60才を過ぎた晩年過ぎても新技法を考案し、亡くなる間際まで絵を書き続けたとのことです。絵師の出身などにより派閥もありましたが、独立度歩であった絵師も多く、夫々の出身素地を生かして創作活動をしていたのは、現在の絵画の世界となんら変わりはありません。歌川豊春が総帥となった超大派閥の歌川派(米国ではUtagawa Schoolと呼んでいる)で、弟子を育てる術に卓越していたのだろうと想像します。その他中小派閥では鈴木派、菱川派、西村派、勝川派などがありますが、北斎のように、何人かの弟子はいましたが、どちらかと言えば独立独歩の絵師も珍しくありませんでした。絵師は、下絵を筆書きや鉛筆書きするので、デッサンや日本画の素養が備わっており、版画の元になる肉筆画も沢山残されています。特に、北斎は「北斎漫画」として知られている小さな絵を大量に残しています。これらの絵師たちが、人間の形や動きに対して丹念にスケッチを重ね、絵画以前の基礎を学びとっていた下書きも多数残されており、描かれる人物の安定感にみてとれます。
浮世絵の普及: 歴史的には、中国の山水画の流れを汲んだ日本画から派生し、浮世絵につながってゆくのですが、山水画そのものがすでに抽象画であり、浮世絵はその抽象化された絵画の集成と言っても過言ではないと思います。
近代の浮世絵や絵画には、鑑賞用と云うほかに、名所画のような旅行案内的な役割も担っていたようです。これとおなじ意味を持つ、観光名所を描いた風景画が欧州にもありましたが、あくまでも風景を忠実に描いた写真に近い銅版画(着色)で、日本の絵師が描いた抽象化された浮世絵とは全く別物です。しかし、旅行者の目に映った風景は、写真の風景でした。当時の日本には阿蘭陀画(西洋式油絵や水彩画)を描いていた絵師もいましたが、少数派でした。従って日本の浮世絵版画が、現実を写し取った写実絵でなかったにも拘わらず大衆に受け入れられた理由は、娯楽が対称であり、現代で云う漫画に近い存在であったと思われます。絵画の源泉が日本画からの流れを、木版画化する過程で単純化しパターン化することにより木彫りの手間を省き、抽象画を自然に受け入れる素地がある民族性も手伝って、一般大衆に普及したものと考えられます。絵の寸法も、大衆向けの小判(はがき大)、中判、高価な大判(B4版大)があり、絵本であったり一枚絵であったり、購買者の懐具合も配慮されていました。
外国人の評価: 江戸時代と同時代の西洋絵画は、遠近法や陰影などを取り入れた写実絵画一辺倒でした。北斎、廣重、写楽などの浮世絵が西洋に持ち込まれると、写実画に飽き飽きしていた西洋の画家に強い衝撃を与えたことは事実で、ゴッホやモネなど多くの画家に影響を与えたと言われています。19世紀半ばには、写真機が発明され写実画が写真にとって代わるとともに、急速に抽象的な絵画に転換していったのだと考えます。
当時の江戸版画の技法は、世界最高を極めていたことは事実で、それを認識していた外国人居留民の中には、日本の浮世絵版画界に弟子入りした人も多く、外国人による多くの作品が残されています。明治維新になり、西洋文明を受け入れることに熱心になり過ぎ、日本古来の文化が軽視され、浮世絵や日本画が紙くず同然に扱われたと思いますが、一方これらに高い評価をもっていた西洋人は、絵画を二束三文で買い集め本国に持ち帰ったことも事実です。現在では、これらの芸術品が欧米の有名美術館で鑑賞もできますが、現在、江戸時代のオリジナル浮世絵が大量に出回っており、$1,000から$20,000という高価で取引されています。
版画技法: 江戸時代には木版が大多数を占めていたようですが、西洋では大量生産を可能にする銅板も古くから普及していたようです。銅板の場合は、繊細な図柄を可能にし、写実的な西洋画に向いているようです。また、中国では、古くから切り紙を板に張り付けた剪紙技法を使った版画も普及していました。
浮世絵の台紙に使われた和紙は、染料の内部への吸収も良好で、深みのある鮮やかな色彩を可能にしたことは、大きな利点でした。当然、絵師たちは顔料の調合や開発にも熱心に取り組み、北斎は版元に厳しい色彩の要求をこと細かに指図し、顔料の研究もしていたと言われています。
浮世絵の種類: 浮世絵には、名所景勝画、役者絵、美人画、歴史・武勇絵、春画、花鳥動物画、薬療絵、産業絵、教育絵、鳥瞰地図、引札(広告・チラシ)、漫画、かわら版などに分別できる。
江戸時代、政治経済の安定が庶民に与えた影響で、娯楽の中心であった芝居の役者絵が非常に多いのに驚かされます。評判の町娘や人妻や遊女の美人画も多く描かれ、人権問題にもなり町娘や人妻の個人名を書くことが禁止された。
産業絵には養蚕を扱った美人版画が多いのですが、インターネットではなぜか画質が悪く、あまり人気が無いためかも知れません。
俯瞰図や地図作成には版画が使用されたため、絵師が活躍しています。横浜村から横浜市が誕生する過程では、3-5年ごとに改訂版が発行され、1850年代の横浜村から始まり、明治維新1870年代までの大都市出現の歴史も地図上で見ることができます。江戸時代の名所浮世絵には、全く横浜という名所は記されておらず、東海道五十三次では、神奈川宿と戸塚宿が主役でした。神奈川(現在の東神奈川)からみた本牧岬の絵に、らしき場所が描かれているだけです。
教育画は、学校教育のために明治政府文部省は、明治6年に学校教育普及のため版画を製作しました。版画は、衣食住、数理科、教訓道徳、農業(喰)、泰西偉人伝など、100ページほどであったようです。
現在のポルノと同じ春画や銭湯風景画なども浮世絵版画の対象になりました。江戸時代に入ると、大都市で銭湯が大衆化しました。銭湯に垢すりや髪すきのサービスを湯女(ゆな)にやらせる湯女風呂などが増加しました。松平定信が1791年、江戸の銭湯での男女混浴を禁止する男女混浴禁止令を出すなど、風紀の取り締まりの対象にもなりました。湯女風呂は、遊郭を中心とする風俗営業に多大の打撃となったこともあり、これは混浴そのものよりも、湯屋における売買春などを取り締まるものであったと言われています。当時の湯屋は二階に待合所のような場所があって将棋盤などが置いてあり社交場となっていただけでなく、湯女などによる売春や賭博などの格好の場となっていたためです。明治時代に入ると、男女混浴は風紀を乱す元、前時代的と見られる元として原則禁止となりました。古くは、大きな湯船の共同浴場は一般的でなく、大きな湯船といえば天然の温泉が溜まってできた野湯でした。そのため、男湯・女湯という概念はなく、混浴は、自然発生的にできたものです。なお、同じ温泉でも、西洋は水着を着て運動温熱療法的な使われ方をしたのに対して、日本では裸で肩まで浸り、静養するという文化の違いがあります。明治・大正になっても、温泉地では、泉源から湯船まで温泉を引いた今で言う共同浴場もできてきましたが、まだ、男湯と女湯の区別もありませんでした。
かわら版が、現代の新聞や号外の役目をしていたという認識は間違っているようです。どちらかと言えば読み物や作り話のたぐいが多く、現代で言うニュース性は薄かったというのが、後世の評価です。一般的には粗雑な印刷がなされ、粘土細工による版画手法が多用されたようです。
引札(広告・チラシ)は、沢山作られたと思いますが、現代同様に用が済めば廃棄され、便所で使われる運(ウン)命にあったと思われます。
家庭医療向け版画も残されており、家庭医学書として利用され普及していました。越中富山の医薬広告、疼痛などの治療、お産の解説など多義にわたっています。
文字: 浮世絵に書かれている漢字には略字が多く、筆書きされているので、活字に慣れた現代人が判読するのは非常に困難です。故事来歴を理解してれば、ある程度推論も可能ですが、実に難解です。複雑な漢字を木版で表すのも困難で、略字は文字改良にも貢献したのではと思います。
また、これらの浮世絵の果たした役割の中で、識字率や医薬知識の向上に多大な貢献をしたことも事実で、文字にはフリ仮名をつけたものが多く見られます。
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