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Berio ~ Sinfonia Section III (pt 1)
http://www.youtube.com/watch?v=f4FU8jOoTAM
30数年前、多分このレコードアルバムを購入し鑑賞しながらその解説文からルチアーノ・ベリオのつれあいがニューヨーク育ちの日本人であったことを知ったはずなのだけれど、今あらためて知るにおよび別段そのことと余り関係はないのだが、非常に感覚的な音の響きに魅力のあるのを特徴とする現代音楽作曲家であることが一瞬腑に落ちた気がした。たしかに武満徹がそうした評価が一般的であるように、構成より響きの独創性にその評価の軸がおかれているのは周知のことであろう。しかし音楽にとっての構成、構想とは何か。それらは作品の音響空間にそれとして明瞭に聴き取れるたちのものなのであろうか。世に構成的に優れている作品とプロの評論家、作曲家達が称揚しても、一般的に音響的空間としての魅力での評価がなされるのでなければさして意義のあることとも思われない。バッハとて聴き手は、プロが言う見事な構成の展開のなさしめる音の変奏変容が結果する音楽作品の無限の崇高性(文体)に感動するのであってみれば、いやそれおしも構成のなせる技と言うのだろうか、ともかく音の響きの魅力のかけた作品に人は音楽がもつ本来的な感動をおぼえるものだろうか。文学には文体の持つ魅力が読者をひきつけるように、音楽も然りであろう。文体に魅力があればこそ書かれていること以上のことをその背後にひとは読み取り了解するのだ。観念、思想の開示は一字一句の意味だけではなく文体の力に多いに与っているといえないだろうか。明瞭に表現できぬ漠としたものがそこにこそにじみ出てくるのだともいえよう。まさに音楽にとっての音響とはそうしたことと同じ位置を持つのではないだろうか。無調の論理だった厳格の引き締まった音響世界でなく、また単線的なメロディの通俗の明瞭さでもなく、このベリオの微分的なと評していいのかどうか分からないけれども『分配的トレモロ』なる特殊奏法で満たされたそうした音の複層が放つ豊かな響きに満ちあふれた世界は確かに独自のものであり、その魅力ある音響の艶やかさは意図するところ同じとはいえトーンクラスター等の音色響きの追求による閉塞する無調の世界からの脱出に独自性をもたらしているといえるのではないだろうか。響きの豊麗さに命を吹き込むルチアーノ・ベリオ。まことカンタービレの国イタリア人というところだろうか。
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