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大気が渦巻きうなり、声となる。音声はまさしく大気の呼吸である。呼吸に生命の息吹を感じ、律動に息吹く。まさにこのアルバムから聴くいきなりの印象はこれらに尽きるといってもいいだろう。佐藤聡明の『Mandara Trilogy』(1998)。瞑想的風情であることは、アルバムタイトルからして察せられよう。マンダラとタイトルされているので連想されるチベット仏教の声明に聴く、あの地の底から沸き起こってくるよう野性味さえ感じさせる極低音のウナリの読経とは趣が違って、ここではソフィストケートされている。しかしゴーゴーと音なすドローン(通奏音)に生命の息吹、大気の息吹、始原の混沌を聴き、宇宙と共に呼吸する存在へと<私>を解消することだろう。収録曲は1.『マンダラ』(1982)。音の素材は作曲者の声明の発声法で唱う声で、その録音された声を豊かな倍音を得るためにマルチトラックテープレコーダーで多重化されたもの。最大250回以上の重ね合わせが行われた部分もあるとのこと。NHK電子音楽スタジオで制作。次の2.『マントラ』(1986)はNHKの委嘱により、同電子音楽スタジオで制作。前作より特定の周波数帯や倍音がとりわけ強調された以外は大きな変りはない。最後の3.『タントラ』(1990)はニュージーランド・ウェリントンノヴィクトリア大学の電子音楽スタジオで、作曲者の声と前作には無い女声を使っての制作。 ≪一陣の風にはすべてが含まれていて、その風を呑むわれわれは宇宙の風の呼吸を呼吸しているのだ≫(広瀬量平) ≪風は呼吸です。呼吸は風です。その風と呼吸によってわれわれの言葉というものが出入りする。それなら、言葉も風なのです。まさに言葉は風に舞う「言の葉」なのでした。≫(松岡正剛『花鳥風月の科学』) ライナーノーツに云う≪魂を目覚めさせて、虚空に響き渡る神々の大音声を聴け、とマンダラは語っているのであろうか。老子が「大音に声稀し」といった消息にも通じる厖大な声が、マンダラから熱い息吹となって放たれている。マンダラを用いるのは無意識の堅い扉を開き、大千三千世界に通じるための方便なのであり、一枚のマンダラの画布は、宇宙大に拡大されて意識されるべきものであろう。修行者はこの世の涯までを覆うマンダラを視、魂の耳を開いて、久遠から悠久へと時を貫き、あるいは楹満(ようまん)にして絶えることのない無上の響きを聴くのである。私は宇宙を流れ満たしている声を想像した。はたしてその声とは、清濁と美醜を超えた力強い声でなければならぬ、と思い至った。私が望んだのは、たとえばひとつの音にすべての周波数帯を含むがごとく、剄くしかも最も繊細な響きであった。≫(佐藤聡明) 全宇宙を吸い込み「ア」(開口の始音)から「ウン」(閉口の終音)へとゆっくりと呼気を吐き出しながら声を出す。宇宙の呼吸との≪宇宙の太始音から太終音へ≫の同定である。そこにすべての音は含まれる。「阿」であり「吽」である。阿吽。 空海は<風と呼吸と言語と文字>の宇宙を壮大に観念した。≪「内外の風気わずかに発すれば、かならず響くを名づけて声というなり」≫ 五 大 に み な 響 き あ り 十 界 に 言 語 を 具 す 六 塵 こ と ご と く 文 字 な り 法 身 は こ れ 実 相 な り 空海『声字実相義』 ≪宇宙の音響響き渡り、 山川草木に共振して、人の声となり、 五体くだいて言葉となり、またふたたび時空にかえってゆく。≫ ≪初めに釈名とは内外の風気わづかに発すればかならず響くを名づけて声という。響きは必ず声による。声はすなわち響きの本なり。声発して虚―むなし―からず、必ず物の名を表するを号して字という。名は必ず体を招く。これを実相と名づく。声字実相の三種区区に別れたるを義と名づく。また四大相触れて音響必ず応ずるを名づけて声という。五音、八音、七例、八展みなことごとく声を持って起こる。声の名を詮するは必ず文字による。文字の起こりはもとこれ六塵なり。六塵の文字は下に釈するがごとし。もし六塵合釈に約せば、声によって字あり。字はすなわち声が字なれば、依住に名を得。もし実相は声字によって顕わるれば、すなわち能有、字はすなわち所有にしてよく字の財を有すといわば、すなわち有財に名を得。声字には必ず実相有り。実相には必ず声字ありて、互相に能所たりといわばすなわち名を得ること上の如し。もし声の外に字なく、字すなわち声なりといわば、持業釈なり。もし声字の外に実相なく、声字すなわち実相なりといわば、また上の名のごとし。この義は<大日経疏>の中につぶさに説けり。文に臨んで知んぬべし。もし声字と実相と極めて相迫びに隣近に名を得たり。もし声字は仮にして理に及ばず実相は幽寂にして名を絶す。声字と実相とは異なれり。声は空しく響いて詮することなく字は上下長短にして文をなす。声と字と異なれりといわば、ならびに相違に名を立てたり。≫(『声字実相義』) ≪「さとりbuddhi」の内容は言葉にして表現できないものだということを、釈尊は「無記」といい、大乗仏教では「言亡慮絶」といい、禅では「不立文字」と言いました。仏教の伝統では、「さとり」の瞬間の感覚やイメージといった宗教的神秘体験を言葉や画像や色などで表現できないもの(「果分不可説」)としてきました。・・・ ところがです、弘法大師空海はそのことをじゅうぶん承知していながら、いとも簡単に「それ如来の説法は必ず文字による。文字の所在は六塵その体なり。六塵の本は法仏の三密すなわちこれなり。平等の三密は法界に遍じて常恒なり。五智四身は十界に具して欠けたることなし。悟れるものをば大覚と号し、迷えるものをば衆生と名づく。衆生癡暗にして自ら覚るに由なし、如来加持してその帰趣を示したもう。帰趣の本は名教にあらざれば立せず。名教の興りは声字にあらざれば成ぜず。声字分明にして実相顕わる。いはゆる声字実相とはすなわちこれ法仏平等の三密、衆生本有の曼荼なり。故に大日如来この声字実相の義を説いて、かの衆生長眠の耳を驚かしたもう。」(『声字実相義』)と言ってのけました。・・・・全宇宙には、文字や音声の秘密、言語やその意味の秘密、そしてあらゆる身体にまつわる秘密の三密が超越的に交流し、作用して応じあっている姿があるのだということです。≫(松岡正剛、自著解説ネット記事より) 「一は一にあらずして一なり、無数を一となす。 如は如にあらずして常なり、同同相似なり。」 壮大な宇宙観想の哲学である |
電子音<日>
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