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アンリ・プスール Henry Pousseur 脚本はフランス・ヌーボーロマンの旗手と称されたミシェル・ビュトールMichel Butor(1926-)。作曲プロセスもその都度の相互連絡、やり取りによる作業の積み重ねでなされたそうである。そうしたこともあり完全な形での上演は1969年であった。実に1960年秋の着手からおよそ10年後の上演ということになる。 4人の歌手と12の器楽奏者、それに5人の俳優、そして舞台背景の4つのスクリーンに映し出される映像とで構成され進行してゆく。観客のオペラ進行(筋立て)への介入は4回まで許され≪第2幕開始以後4回観客の意見を取り入れた後には、準備されていた通りの筋書きで終局に到達する。全部で25通りの筋書きの可能性があるという。≫(解説・船山隆、柴田南雄) 確かに、この全曲盤のセットものレコードには、ブックレット(台本)にトランプが付いていた。厚さ5センチほどの箱型開きの大層なもので発売されていた。それらのボックスもの全曲盤のことなどは、後日ということにしよう。さて肝心の音のほうであるけれど、特殊とはいえオペラという形式ゆえかそんなに前衛的な試みをしているわけではない。しかしここには羨ましいほどの落ち着き、ゆとりがある。洗練がある。流れるようなということだ。何度聞いてもそうした印象をもつ。派手な特殊奏法があるわけでもなく、エキセントリックでもなく、かといって古典的でもなく、さりげなく前衛を保持しているその音作りには、やはり敵わないなといった感じを抱かせる。まさに西洋音楽!の伝統の上に乗っかった前衛?だと言ったところである。 もちろん作曲家アンリ・プスールの才能であるのだろうけれど。しかし個人のそれだけとは思えぬ印象もぬぐえない。最後に、これほどの作曲家のWIKIPEDIA日本語項目が見当たらないのも不思議である。取り上げるに十分すぎる作品を残してきているのだけれど、ブーレーズ、シュトックハウゼンら時代の寵児、傑物と時がかぶるのがその因であるのかもしれない。さてもう一曲は、同じベルギーの作曲家ピエール・バルトロメーPierre Bartholomee(1937−)の『マラン・マレーの墓Le Tombeau de Marin Marais』。これは伝統的な平均律の音組織からの脱出の試みのひとつ、微分音の組織化がもたらす多彩な音色変化を作品にしている。≪バロック時代にスコルダトゥーラといわれる特殊な調弦法があったことに着眼し、ヴィオラ・ダ・ガンバを特別に調弦して、1オクターブを21に分割された音階をもとに、12平均律の音階による音楽よりも、より流動的な音楽の空間をつくっている≫(解説・船山隆、柴田南雄)。洗練から複雑への自覚的な螺旋的回帰といったところだろうか。過去は将来につくられ宿るといったところか。将来においてでしか過去は意味をなさない。問題意識のない現在に、将来は現成しえず、過去もまた現成しえぬということなのだろうか。過去が過去足りえるのは将来の現成する現在の自覚的反省においてだということなのだろう。過ぎ去った過去がただ単に、無媒介に過去であるわけではない。 ミシェル・ビュトール(Michel Butor, 1926年9月14日-) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AB Henry Pousseur: "Prospection" (1953) for three pianos tune 1/6 of a tone apart. さてこの稿閉じてから、読んで印象に残った新聞記事・エッセーより備忘録として抜書きしよう。12月31日付け日経新聞朝刊掲載の小説家・古井由吉(よしきち)『年越し』より。 ≪・・・紀貫之の、こんな歌が見える。――「年の内につもれる罪はかきくらしふる白雪とともに消えなん」歳末にあたりをかきくらして降る雪につれて年の罪も消えてゆくとは、じつにやすらいで、ありがたいことだ。すこし締まりがないような、引け目がしないでもないが。さらに平兼盛の、こんな歌がある――「人はいさおかしやすらむ冬くれば年のみつもる雪とこそみれ」これなどはありがたすぎるほどだが、それはともかく、年ばかり降り積もるとは、実感である。人が生涯を振り返るとき、いつどこででも、年越しになる。≫ |
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あけましておめでとうございます。今年も異端音楽宜しくお願いします。 以前、レコード屋で前衛的な試みをしているようなコメントが書かれていたので買ってみましたがそれほど前衛的ではない印象があります。まだ1度しか聴いたことないですが。
2007/1/1(月) 午後 6:16 [ ova*6*20 ]
その前衛的というのは、音色(響き)上のではなく、演奏形態、音楽形成での不確定、偶然性などへのスタンスを意味していたと思います。そんなに特異な特殊奏法をちりばめるような作風ではありません。エキセントリックではありません。インテリジェンスこそが持ち味と思われます。
2007/1/1(月) 午後 6:18