|
まるで儀式のように反復繰り返し、たゆたいのうちにメロディを紡ぎだしてゆく。それは憂愁と哀しみの彼方から降り注いでやってくる。果たしてそれだけか。たゆたう繰り返しが美を生み出すのか?なぜ繰り返すのか?そこには<信>ということがありはしないか?耐えること、繰り返すことのうちには到来するものへの崇敬が、祈りがなくてはなるまい。根源的な<信>仰。それはまた静かさのうちにやってくることだろう。 ★―例えば、暑いとき、「暑いな」と思う。風が吹いたりしている時、言葉にしないで、ふと何かに触れたと思えることがある。 ▲―例えば「無を感じる」という形でね。 ★―自然とはむしろ、その「無」に近い。本当の自然は、むしろ知覚の対象になっていないわけです。だからこそ、僕は、「忘れもの」とか「気配」を重視した。しかし、仏教全体とは言わないけれど、密教に感じているのはそれではない。密教は人工性への努力のようにも思える。密教は大自然をその一部において一挙に獲得するでしょう。部分から全体を導く。しかし、日常、そんな密教などに携わらない人達が感じていて、言葉になり切らないもの、つまり密教の言う不立文字は、密教にはなくて、巷にあるのではないか。衆生の持っているものが自然で覚者の持っているものが、人工的自然なのです。「人工」という言葉が誤解を招きやすいので、これを「抽象自然」と言っておきます。 ▲―意味は大体わかりました。続けてください。 ★―八百屋の親爺さんが、論理ではなくて、風が吹く体験から得たものこそが素晴らしいと僕は思っている。そこには「行」はない。体験のみです。これに対して密教は、最高の論理への到達を目指す。鮮明で最高の論理を使っている。けれども、この両者の行き着く果ては同じでしょう。僕はただ、そこに「自然」の安売りが語られすぎていることに非二十世紀的なものを感じている。 ・・・・・ ▲―人間は目的を持っているのか、いないのか。それから、いわゆる目的は方向を持っているのか。生きる目的はあるのか。その目的への途中で、人工化がおこる。そういうものがあるのでしょうか。 ★―ないですね。 ▲―無目的で……。 ★―そうです。目的があるなら、当然、自覚はないでしょう。「先の先」ができていれば自覚は不必要です。だから、感覚そのものが自然であって、目的はない。つまり、人工とは、閉じるものである。「過未無体」と華厳で言います。それは、過去と未来のない境地という意味です。そして、過去も未来もある人工的な論理を駆使して、「過未無体」という寂浄の境地に突進する。だから、論理を一度使ってすぐ消費して無くすという、この抽象の極地がヒンドゥイズムやブッディズムではないですか。 ことさらに<行>を行なうことなく、無は気配として、そこはかとなくおとずれてくる。万人にそれはあちらからそこにやってくる。Here and There そのままからこのままへ。<信>としてやってくる。 まさに≪言葉になり切らないもの、つまり密教の言う不立文字は、密教にはなくて、巷にあるのではないか。衆生の持っているものが自然で覚者の持っているものが、人工的自然なのです。「人工」という言葉が誤解を招きやすいので、これを「抽象自然」と言っておきます。≫ ★――松岡正剛 ▲――津島秀彦 津島秀彦(松岡正剛共著『二十一世紀精神』工作舎・1975) さて今日は、アメリカのミニマルミュージックの大御所と言うより、追随ゆるさぬ見事なまでのメロディーセンスを堪能ということで、フィリップ・グラスPhilip Glass( 1937 - )の『交響曲第2番』(1994)と『交響曲第3番』(1995)を取り上げた。CD宣伝文句にあるように『交響曲第3番』の≪特にヴァイオリンソロが素晴らしい叙情的ムードを醸し出す第3楽章は鮮烈な印象を与えます。≫に付け加える言葉をもたない。 Metamorphosis Two - Philip Glass フィリップ・グラス公式サイトで是非作品を聴いていただきたいものです。
|
ミニマル
[ リスト ]




今日は、いつもお世話になります。お蔭様で、ミニマルミュージックに辿り着き、開眼することが出来ました。感激です。有難うございました。
2008/3/2(日) 午後 3:22
「哀切」、「信」というイメージが浮かんできます。あちらさんには哲学を感じます。琴線にふれられたのでしょうか。投稿の甲斐があります。
2008/3/2(日) 午後 7:14