「メフィストと作曲家」 ――三浦淳史 札幌の北三条通りに「ネヴオ」という喫茶店があって、ぼくたち学生は、そこのクラシック・レコードのコレクションと毎月の新譜紹介をあてこんで、1杯のコーヒーで、時計の針が午前の方角を示しはじめるカンバンまで、ねばっていたものだった。 伊福邦昭と故・早坂文雄とぽくは、土曜日の晩には、きまってネヴオ詣でをした時期があった。10時まではいわゆる名曲か鳴っているので、「ペレアスとメリザンド」のような現代音楽は、店内が僕たち3人になった時点で、かけてもらうのである。 「ペレアス」を初めて聴いて、夜更けの通りに出たとき、初雪が音もなく降り敷いていた。伊福部も、早坂も、言葉を失ったかのように、何も言えなかった。R・シュトラウスは「ペレアス」を評して「美しいオペラだが、音楽がない」と言ったそうだ。ぼくたちには、美しい舞台が与えられなかったため、かえってドピュッシーの美しい音楽をたっぷり聴いたのだった。あまりにも大量の、未知の美しいものが、はいりこんできたせいか、ぽくたちは言葉を発することもできなかったのだ。 伊福部は、かつてぽくのことを「メフィストフェレス」になぞらえ、「彼は、少年である私をそそのかし、私を作曲という地獄界に陥れたメフィストフェレスなのです」と記しているが、このまるで凄味のないメフィストが実行した唯一の効用は委嘱形式を設置したことである。ジョージ・コープランドにわたりをつけて、19歳の作曲家がピアノ曲を書いて献呈せざるを得ないように追い込んだ――その結果生まれた「ピアノ組曲」はさきの個展で、「管弦楽のための日本祖曲」として返り咲いた。 フェビアン・セヴィツキーと文通していたメフィストは新作演奏の確約をとり、21歳の作曲家は「日本狂詩曲」を書き上げた。初演前にチェレプこン賞に応募し第1席に入賞した。セヴィツキーと文通を続けていたメフィストは委嘱形式をとり付けた(ただし、委嘱料は出なかったが)。40歳の作曲家は「シンフォニア・タプカーラ」を完成、セヴィツキーが音楽監督をしていたインディアナポリス響との日米交歓放送が実現した。 曲はメフィストに献呈され、メフィストの感激措くあたわざるものがあった。 〔「伊福部昭の宇宙」(音楽之友社)より転載〕 (同梱解説より) 盆休みも今日まで。明日からはまたまた暑い熱いと言いながらの仕事の日々がはじまる。休もうが仕事しようが、どちらにせよ疲れます。これだけそこそこに生きながらえていると・・・。 お盆休みの最後は、きのうに引き続き土俗派の真骨頂、頑固一徹伊福部ブシの、『管弦楽のための「日本組曲」』の第1曲「盆踊」で締めくくりとしよう。 『響-伊福部昭 交響楽の世界』 1. シンフォニア・タプカーラ(1954/79)
第1曲:盆踊 第2曲:七夕 第3曲:演伶(ながし) 第4曲:倭武多 |
全体表示
[ リスト ]




