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例えば、薄汚れたぼろぎれを身にまとい、足には寸法の合わない綻びて口のあいたぼろ靴を履き、ヤニついて黄ばみ、薄汚れた歯がところどころ欠けて抜け落ち、垢だらけの顔に長髪ヒゲ面のひとりの浮浪者が同じフレーズを延々繰り返し歌っているとせよ。しかもそれが救いを求め祈る歌のフレーズである。そう、頭には帽子でなくイバラを冠していたらいっそう、それはキリストであるやもしれぬ。そうした形相の現世の垢にまみれた浮浪乞食には異和への恐れ、憐憫とともに一種聖性を感じなくはない。どうしてだろう?神は畸形で異形の姿をとりこの世に人びとを試しにやってくる。施しを求めあなたを試す。そして問いを投げかける。最も現世的に劣るものとして、悲惨として、弱きものとして人びとを試しに冥き不明のあちらから問いをもってやってくる。あなたの人間性を試し、指弾するかのように面前にやってくる。そして、あなたのいま在る平安を問い質すのだ。私はあなたでもあり、あなたの哀しみでもあるのだと。聖性をその乞食の浮浪の身に纏い、己の存在を哀しむでもなく、淡々と同じフレーズを、それが救いであり、祈りであるかのように歌いつぶやく。そのさまは人を粛然とさせる。信仰とは斯くあるや?こうしたことありての平安とは、予定調和とは何か? ≪・・・で、その五つになる女の子を、教養ある両親は、ありとあらゆる拷問にかけるんだ。自分でもなんのためやらわからないで、ただ無性にぶつ、たたく、ける、しまいには、いたいけな子供のからだが一面紫ばれに成ってしまった。が、とうとうそれにも飽きて、巧妙な技巧を弄するようになった。ほかでもない、凍てつくような極寒の時節に、その子を一晩じゅう便所の中へ閉じこめるのだ。それもただその子が夜中にうんこを知らせなかったから、というだけなんだ。(いったい天使のようにすやすやと寝入っている五つやそこいらの子供が、そんなことを知らせるような知恵があると思っているのかしら)。そうして、もらしたうんこをその子の顔に塗りつけたり、むりやり食べさしたりするのだ。しかも、これが現在の母親の仕事なんだからね!この母親は、よる夜なかきたないところへ閉じ込められた哀れな子供のうめき声を聞きながら、平気で寝ていられるというじゃないか!お前にはわかるかい、まだ自分の身に生じていることを完全に理解することのできないちっちゃな子供が、暗い寒い便所の中でいたいけなこぶしを固めながら、痙攣に引きむしられたような胸をたたいたり、悪げのない素直な涙を流しながら、『神ちゃま』に助けを祈ったりするんだよ、――え、アリョーシャ、おまえはこの不合理な話が、説明できるかい、おまえはぼくの親友だ、神につかえる修行僧だ、いったいなんの必要があってこんな不合理がつくり出されたのか?一つ説明してくれないか!この不合理がなくては、人間は地上に生活してゆかれない、なんとなれば、善悪を認識することができないから、などと人は言うけれども、こんな価を払ってまで、くだらない善悪なんか認識する必要がどこにある?もしそうなら、認識の世界ぜんたいをあげても、この子供が『神ちゃま』に流した涙だけの価もないのだ。≫(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』第五編・Pro et Contraより) "Jesus' blood never failed me yet, never failed me yet, Jesus' blood never failed me yet, never failed me yet, this one thing I know, for he loves me so. " 「イエスの血は決して私を見捨てたことがない 決して見捨てたことがない イエスの血は決して私を見捨てたことがない それは私が知っている一つのこと 彼は私を愛してくださる」 ひとは見捨てはしない、ひとは愛してくださる。と言い換えて何が不都合だろう。 ひとは見捨てはしない、ひとは愛してくださる。私は見捨てはしない。私は愛する。それは私たちの切なる言葉でもあるだろう。 「イエスの血は決して私を見捨てたことがない 決して見捨てたことがない イエスの血は決して私を見捨てたことがない それは私が知っている一つのこと 彼は私を愛してくださる」 ギャビン・ブライヤーズ・Gavin bryars(1943−)、 『Jesus' Blood Never Failed Me Yet・イエスの血は決して私を見捨てたことがない』 実際の浮浪者のテープに取られたこの歌声を、延々とループ、反復して流されること約75分。そしてバックに穏やかに、またもの哀しく弦楽の音が緩やかに奏される。人の<生>は斯く在るといわんばかりの、嫌になるほどの繰り返しであり、それゆえに、切なく、そして哀しいほどに美しいのだった。穏やかさが美しい、こんな祈りの音の世界もあるのだ。 ≪よく晴れた日だった。三時過ぎになって、太陽が西へ傾きはじめると、その赤い斜めの光線がまっすぐに部屋の壁に当たって、鮮やかな斑点となってその場所を照らし出すのを、おれは知っていた。おれはそれが前の何日かの経験でよくわかっていた。そして一時間後には必ずそのとおりになる。しかもなにより問題なのは、ニニが四というくらい正確に、おれには前もってそれがわかっているということが、腹の中が煮えくり返るくらいおれには癪にさわってならなかった。おれは発作的に大きく寝返りを打った。ところが突然、物音一つ聞こえない静寂を破って『われらが主、イエス・キリスト、なにとぞ我らを憐れみたまえ』という言葉が、はっきりとおれの耳に聞こえたではないか。その言葉はなかばささやくような声で、そのあとに胸いっぱいの深い溜め息がつづいた。そしてあたりは再びひっそりと静まり返った≫(ドストエフスキー『未成年』第三部第一章) Arvo Pärt – Sanctus 『Jesus' Blood Never Failed Me Yet・イエスの血は決して私を見捨てたことがない』 試聴できます。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0000040UT/kairakugensok-22 |
アンビエント
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Harold Budd - Gypsy Violin part one http://www.youtube.com/watch?v=Wz0KiPaTsK0 |
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人のおおくの事どもが堆積し生のふくらみが増す。ゆったりとした時間の流れに人間の一生のさまざまな事どもが昇華し時間のかなたへ愛のまなざしと祈りと共に静かに消え行くような、まるで人間の人生を穏やかに讃歌しているかのようだ。同じことの反復繰り返しを耐えることの人の真実は静穏な精神・心にこそあるのだと言わんばかりの作品だ。退屈というより、ゆったりと反復演奏されるゆえにより一層メロディーの美しが際立ってそして聞き入る。どれほどの深みで人は、さまざまな人生の出来事を救い上げることが出来るのだろうか。穏やかに、激することなく、物語らずに愛すること、受容すること、そうした想念が作品を聴く中で醸成されるかのようだ。ギャビン・ブライヤーズ(Gavin bryars)の作品集「THE SINKING OF THE TITANIC」『タイタニック号の沈没』では、賛美歌「オータム」の美しいメロディーが反復演奏され、「JESUS’BLOOD NEVER FAILD ME YET」でもまた賛美歌『イエスの血は決して私を見捨てたことはない』の歌のフレーズを延々と反復し、背景で美しいメロディがオーケストレイションで緩やかに奏でられ且つじょじょに膨らみと厚みををましてやがて小さく消え入るように終わる。穏やかさが美しい、こんな音の世界もあるのだ。 |
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1 - 100 - Michael Nyman 'Decay Music'.mp4 |
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Brian Eno: Discreet Music (Part I) |
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