しみじみと朗読に聴き入りたい

素晴らしい朗読が聴けるサイトやCDを発掘してご紹介します。著作権関係の意見も発信しています。.

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(1)からの続きです。

<「活字化して世に伝えること」の尊重は、ビジネスマナーの問題>
●それでは、みすゞが投稿を夫から禁止され、ノートに綴り、西条八十と弟に一セットずつ渡していた3冊の詩集(遺稿集)のうちの、未公表の詩の扱いはどうなるか、についてです。
 それを「初めて発掘して世に伝えた」ことについては、社会的に一定の尊重がされるべきではありますが、しかし、それは権利としては保証されるものではありません。また、「発掘」と言っても、散逸していた原稿等を苦心して集めて一冊の本に仕上げて世に出したということではなく、みすゞ自身が弟(上山正祐氏)に預けていた「遺稿集」を、その上山氏から入手して、それを活字化することによって「全集」として出版したということでしょうから、「発掘」と言ってもかなりニュアンスが異なります。

著作権法は、「世に伝える」主体である出版社等に対しては、「冷たい」ところがありま
す。出版権はありますが、活字に組み上げて制作する印刷紙面についての版面権は認められていません。元の作品の著作権が切れていれば、その出版社が苦労して作った本をいくらコピーしても、許諾は不要ですし、もちろん対価も受け取ることはてきません。一時は、著作権の審議会でも版面権を導入する方向のとりまとめがなされたこともありましたが、著作権の許諾との関係が整理しきれず、そのままになっています。
 ですから、出版社が発掘して「世に伝えた」「活字化した」というだけでは、法律上の保護の対象にはならないというのが、現状です。
 ただ、法律上権利保護されていないからといって、勝手にコピーして販売するというとは、商慣習としてもビジネスの基本マナーとしても許されるものではありませんから、誰もやらないというだけです。
 ※ ただし、誤解ないように言うと、版面そのものを複製するという行為と、活字化
   された詩を使う(転載、朗読等)という行為とは、次元が違いますので、マナーと
   いっても、格段の差があります。後者は「了解を取る」という次元のものでは本
   来はありません。
 
<他人による使用の排除、検閲に近い行為は刑法上・民法上問題あり>
●未公表作品を苦労して「発掘」して「世に伝えた役割」を尊重し、一定の仁義を切ってほしい、というのであればまだわからないでもありません。そういう意味だけで「了解を取って下さい」と言うのであれば、また許容される余地はあるでしょう。
しかしそれが、「他人による使用の排除」「他人の使用形態の検閲」という色彩を帯びてくると、話は全く違ってきます。それは、許されることではありませんし、その態様如何によっては、刑法上(偽計業務妨害罪)、不正競争防止法上(第2条1項14号:信用毀損行為)、刑事、民事の両面で問題を惹起する可能性も出てきます。
 他の出版社が出す金子みすゞ詩集について、著作権侵害であるとの風説を流してその評価を落としめたり、販売を妨害するような行為がもしなされるのであれば、アウトでしょう。個人のサイトに掲載している詩について、同様の行為がもしなされるのであれば、やはり同様の問題が生じます。
 ※ 長周新聞の記載にあるようなことは、本当にあったのでしょうか・・??
 
<「全集」自体には、二次著作権はない>
JULA出版局が、本当に全集について「二次著作権」を主張しているのだとすれば、それはまた的外れといわざるを得ません。 
 二次著作物というのは、著作権法(第2条1項11号)にて、以下のように規定されています。
 
「二次著作物とは、著作物を翻訳し、編曲し、もしくは変形し、または脚色し、映画化し、その他翻案することにより創作した著作物をいう」
 
 要するに、いろいろとアレンジして別個の独立した作品にしたものということです。この場合は、原著作物の著作権の存否は関係ありませんから、もし本当に本格的に「翻案」したものであれば、それについて権利主張することはありうるでしょう。
しかし、JULA出版局が出している詩集は、金子みすゞが残した遺稿集に掲載された詩をそのまま活字化して、書籍として出版しているわけですから(「編集」のことは後述)、作品である詩自体を何も「翻案」しているわけではありませんので、それを掲載した書籍群は、二次著作物には当たりません。
 例えば、「大漁」の詩のイメージを画にして、詩と関連づけたネーミングにするとか、グッズを制作するなどは、それに当たると思われます。実際にある典型的な二次著作物は、作曲家の大西進氏や三好晃氏らによって、金子みすずのすべての詩につけられた楽曲でしょう。
 
詩自体に下手に手を加えてしまうと、著作人格権(同一性保持権)侵害になってしまいますから、いずれにしても、詩そのものを変えるような翻案は難しいだろうと思います。
 
<独自の観点で再編集した詩集は、編集著作権の対象になりうる>
●もし権利対象となりうるものがあるとすれば、「編集著作権」があるかもしれません。
 遺稿集をそのまま活字化したものであればそれは該当しませんが、独自のテーマや分類の考え方の下に、詩の掲載順や括りに工夫を加えたような詩集も中にはあるでしょう。それらの詩集については、編集した結果としての著作物について編集著作権が発生していると思われます。
したがって、その編集された詩集の通りの順番なり括りで他人が詩集を出すのであれば、それは編集著作権の侵害となる可能性があります。しかし、個別の詩には、編集著作権は及びようもありません。
 
 また、同社が出版している「全集」は、金子みすゞ自身がノートに書き付けた遺稿集3冊をそのまま活字にしたものだろうと思いますが、そういうことであれば、その「全集」の詩の選択、配列等には、出版社なり矢崎氏の独自の編集が加わっているわけでないでしょうから、編集著作権はないと思います。
 
<公表されていた作品と、未公表だった作品とを峻別して示すべき>
 一番、不思議に感じるのは、「矢崎氏が発掘した」という一方で、「若き童謡詩人の中の巨星」とまで激賞されていたとの記述が共存していることです。その激賞された公表済み作品群はどれだったのかが、ネットをいくら検索しても容易にみつかりません。少なくともJULA出版局関係のサイトではみつかりません。
 未発表で埋もれていたものを発掘したから権利があると主張するのであれば、これこれの詩は、当時発表されたものであり、これこれの詩は未発表で遺稿集に収められたものである、とまずわかりやすく整理された情報がきちん読者に示されるべきだろうと思います。全集を読めば、どこかに書いてあるのかもしれませんが、ネット上でそれは示される必要があると思います。
その上で、前者については自由に利用可であるが、後者については、発掘者の立場を尊重し、使用に当たっては一言仁義を切って下さいとか、出所の記載をして下さいとかの説明をするのが筋だと思います。
そういう峻別整理がなされないままに、全集に載っている詩の利用に際しては、一律に「了解を取って下さい」といわれると、それはおかしいのではありませんか? ということになってしまいます。

※ 文科省のサイトで、その道徳用副読本の「心のノート」に収録した金子  みすゞの詩1編について、転載する場合にはJULA出版局の了解をとるよ  うに、との記載がありました。
 
 
その趣旨は、もちろん著作権を認めているということではなくて、未発表だった詩なので、その発掘公表に尽力した同社に対して仁義を切るようにということだろうと理解しています。
 
<金子みすゞ自身によって投稿・公表された詩は百編近くにのぼる>
●幸い、大学のゼミの研究サイトのようですが、以下のサイトに、金子みすゞが生前、自ら投稿・発表した詩が載っていました。発表された詩の中から選んだ93編だそうです。他にも発表された作品があるということのようです(「2.」の部分に「彼女自身の手によつて投稿され、出版された、より完成度が高いと思われる93編の詩を研究対象として取り上げることにした。」とあります)。
 

これをみると、何のことはない、金子みすゞの詩として知られる主要な作品は、みすゞ自身によって発表されていたものが少なくないということがわかります。未発表で埋もれていたものが「発掘」されたものではありません。これらも含めて、使用に際しては了解を取れ、というのでは、あまりに乱暴ですし、そういう筋合いにないことは言うまでもありません。
 
 
ACの広告で有名になって 「こだま」の詩は、これには載っていませんから、これは未発表だったのかもしれません。
 
●なお、以下の行為は、著作権の存否に関わらず、自由に行える行為であることは言うまでもありません。それは著作権法上の大原則です。
 
 ① 詩の評論などに当たって、「引用」すること。
 ② 無償の朗読会等で、作品を朗読すること。 
 
 
<まとめ>
●以上の論旨のポイントをまとめると、次のようになります。
 
       金子みすゞの詩は、著者死去から50年を経過しているため著作権は失効している。全集は、みすゞ自身でまとめた遺稿集を活字化したものであり、詩に翻案を加えているわけではないから、二次著作権は出版社にはない。
       金子みすゞ自身によって投稿・発表された詩は、「発掘」されたものではないから、出版社の論理によっても、自由に利用が可能である。それは、百編近くにのぼる。
       それ以外の全集に収録された詩については、発掘し世に伝えた役割を尊重して、一言報告したり、出所を明示することが、ビジネスマナー上は望ましい。ただし、それをしなかったからといって法的な権利侵害となるわけではないし、「了解をとる」「報告する」ことが一人歩きして、他人の使用の排除、検閲につながる恐れを考えると、「出所を明示する」ということが実務運用としては適切と思われる。
       未発表だった詩の使用に関する全集の出版社「了解」行為が、他人の利用排除、検閲的色彩を帯びるのであれば、態様如何では刑事、民事の両面で問題となる可能性もある。
       出版社が独自の観点からの分類等で再編集した詩集を、そのままの形で全部又は一部利用することは、編集著作権上の問題が生じるので不可。
 
 
 
 事実関係について誤認等があればまた別ですので、もしそういう点があればご教示いただければと思います。

 いずれにしても、金子みすゞの詩は素晴らしいものであり、一定のマナーは守りつつも、皆が自由に楽しめるようにあってほしいものです。
 鑑賞の仕方、楽しみ方、金子みすゞの詩や本人に対する評価等々が、特定の者の意向で左右されるということが仮にあるのであれば、それは極めて不健全なことであり、許されることではありません。
 
 みすゞが、遺稿集を西條八十と実弟とに、それぞれ渡したというのも、夫によって詩作の発表は禁じられたものの、いずれそれを広く世間に伝えて皆に読んでほしいと願ったからではないのでしょうか・・・。
 

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