しみじみと朗読に聴き入りたい

素晴らしい朗読が聴けるサイトやCDを発掘してご紹介します。著作権関係の意見も発信しています。.

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 前回記事からだいぶ間があいてしまい、失礼しました。

この間に、矢崎氏やJULA出版局に批判的な記事を以前から書いておられる高遠信次氏に、小生のブログをご紹介いただくとともに、広くは全く知られておらず、週刊文春記事でも詳しくは触れられていない矢崎氏らの問題を紹介する記事をアップしておられました。感謝するとともに、ご紹介させていただきます。
 
 
 なお、以前ご紹介したように、高遠氏の一連の金子みすゞに関するブログ記事は、「著作権」「商標権」問題を考える上では、大変参考になります。
 
  ※「詩論 」に多数のみすゞ関連記事を収録。
 
 
● さて、前回記事の続きです。その後、更にいろいろ調べてみました。
その結果、前回、金子みすゞのウィキペディアの記事に「明らかな間違いがある」と書きましたが、それは書き過ぎでしたので、訂正してあります。ただ、金子みすゞの世間への浸透過程について誤解しやすい記述であるとは思います。 
 ウィキペディアの「金子みすゞ」の項目には、次のような記載があります。
 
 
「●忘却と再発見
金子みすゞの詩は長らく忘れられていたが、岩波文庫『日本童謡集』の「大漁」を読んだ児童文学者の矢崎節夫らの努力で遺稿集が発掘され、1984年に出版されるや、瞬く間に有名になった。現在では代表作「わたしと小鳥とすずと」が小学校の国語教科書に採用されている。東京大学の国語の入試問題(1985年国語第二問)に採用された作品もある。また、このことをきっかけに地元長門でもみすゞの再評価が行われることとなり、みすゞの生誕100年目にあたる2003411日には生家跡に金子みすゞ記念館が開館。みすゞが少女期を過ごした家を復元すると共に、直筆の詩作のメモなどが展示されている。」
 
 これを読むと、84年の出版直後から、一気に金子みすゞが有名となり、全集・詩集が爆発的に売れて、世間に浸透していったというようにとれます。東大の入試にまで取り上げられたことが、その印象を増幅します。
 この「瞬く間に有名になった」という点は、矢崎氏らの説明にも拠るところがあるのではないかと思います。以下に、矢崎氏が館長を務めるみすゞ記念館がある山口県長門市の観光HPにある説明です。
 
 
 ここでは、 
 
「この2年後の昭和59年2月、多くの人たちの善意により、「金子みすゞ全集」が出版されました。そして、みすゞさんの詩は瞬く間に人々の心を捉えていったのでした。」
 
 これを読んでも、84年の出版直後から、一気に有名になった、と思うことでしょう。
ところが実際は、80年代は静かなブームであり、本格的に定着していったのは1993年以降のことでした。
 金子みすゞの著作権に関する矢崎氏やJULA出版局の主張を考える上で、この辺の事情を念頭においておく必要があります。
 
 いろいろ調べた際に参考にしたのは以下の諸資料です。
 ①「別冊文藝 総特集金子みすゞ」(2000年 河出書房新社)
   これは、娘さんの上村ふさえさんと矢崎氏との対談、全集出版当時の経緯や苦労談、関連書籍出版についての年譜等が掲載されており、大変貴重な材料が豊富に含まれています。アマゾン等で今でも入手可能です。

 ②ハルキ文庫「金子みすゞ童謡集」(1998年 角川春樹事務所)
   金子みすゞ著作保存会の「許諾」を得て出版した初の書籍のようです。その経緯等についての矢崎氏の解説が巻末に掲載されています。

<!--[if !supportLists]-->読売新聞、朝日新聞記事データベース
  新聞記事をたどることによって、80年代以降のみすゞブームの変遷がよくわかります。
 
これらの資料をあたった結果、わかってきたのは以下のような事実です。
 
<① 金子みすゞブームは全集出版直後と93年以降の2段階>
  金子みすゞが今のように親しまれるに至る過程は、一直線ではなく、2段階だった。まず、842月の全集が発売される直前の8312月の朝日新聞社会面に大きく、金子みすゞ遺稿集の発見と出版についての記事が掲載された(河谷史夫編集委員執筆)。
  JULAが全集出版に際しては、千部で300万円かかるというので(実際には700万円かかった)、1セット1万円と高価に設定せざるを得なかったものの、長門みすゞ会などの協力などにより、発売から3か月で限定千部が完売となった。更に注文が入ったが、原版が残っていなかったので写真製版にして8月に新装版で更に千部を発行した。しかし、それは最初は売れたものの、その後の売れ行きは芳しくなかった。大きい書店でもなかなか置いてくれなかった。
 他方、長門市の人々らからの要請もあり、より親しみやすい選集として、矢崎氏編による『わたしと小鳥と鈴と』が出版され、静かなブームを支えた(以上は、『別冊文藝』へのJULAの大村祐子代表の寄稿による)。
 その後は、あまり大きく取り上げられることはなかったが、19934月に、矢崎節夫氏が『童謡詩人 金子みすゞの生涯』を出版し、朝日新聞の天声人語や他のマスコミもみすゞの詩を取り上げたことから再度注目され、更に翌94年にはほとんどの国語教科書への採用が決定され、テレビCMにも使われるなど、大きなブームとなった(読売新聞記事等による)。
 
<② みすゞの遺族(娘)である上村ふさえさんに「印税」が支払われ、みすゞ理解が進み、気持ちの上でも交流に積極的になったのは、1995年頃以降。「印税」は10年間支払われなかった。>
 上村ふさえさんが矢崎氏と知り合ったのは、叔父である上山雅輔氏(矢崎氏に遺稿手帳を渡したみすゞの実弟)を通じてのこと。全集出版当時にはご主人とも死別するなど苦しい時期だった。その後、全集も赤字で著作権料もなく、名誉だけだったので、正直仙崎に交流等で行くのは苦痛だった。母親には捨てられたという思いがずっとあったし、ご主人の闘病、死別など生活が大変だったのに、なぜそれまで墓参りに来なかったのかという目で見られるのではないかと思い辛かった、とのこと。95年頃の矢崎氏の一文で、母親への見方も変わってきたこと、印税が支払われるようになったことなどから、気持ちも変わってきて、「みすゞを楽しんでやろう」という気持ちで各地での交流にも積極的に出向くようになった由(『別冊文藝』の上村ふさえさんへの矢崎氏インタビュー記事による)。
 
<③著作保存会設立の趣旨は、詩の8割以上が未発見だったこと、遺族が著作権の恩恵を受けていなかったことの2点。JULAは出版権を有するとの考え方だったこと。
ハルキ文庫の『金子みすゞ童謡集』という文庫本(1998年)を見ていたら、その解説部分で、矢崎節夫氏が、この保存会設立の趣旨について説明している部分があります。そこでは、「現行著作権法の規定からすれば、金子みすゞの著作権は失われていると考えることもできる」旨を述べたあと、以下のように経緯を記しています。
 
「しかし、この著作権法には、亡後50年を経て、一人の著作物がこれほどの甦りをするということは考慮に入っていません。又、みすゞの遺した512編のうち、5分の4以上が未発表のものでした。さらに、この50年間の間、著作権継承者である遺族は、一度もその権利の恩恵を受けてこなかったのです。そこで、全集を出版する際、JULA出版局と相談をし、金子みすゞの著作物に関しては、著作権法の考慮外の特別なケースとして、遺族の著作権を認め、守ることにしたのです。JULA出版局内に『金子みすゞ著作保存会』をつくり、JULA出版局の金子みすゞの著作物には遺族に一定の印税を払うことにし、著作物の保護をしてきました。以後、今日まで多くの出版社がこの趣旨に共感賛同され、作品の出版物に転載するに当たっては、著作権を守ってきて下さったことは出版人の良心を強く感じました。・・・・今回、角川春樹事務所から金子みすゞ保存会に、著作権及びJULA出版局の出版権を認め、文庫本として出版したいという要望があり、出版することになりました。これは、市販の単行本としては、JULA出版局の出版物以来、初めてのことです(これまでには、副読本として教育出版と明治図書の2社から直販の選集と私の著作物が出版されているだけでした)」(同文庫P220〜)
 
 また、JULAの大村代表は、『別冊文藝』への寄稿文の中で、経過を以下のように述べています。矢崎氏の上記解説とほぼ同趣旨です。
 
「金子みすゞと15年以上関わってきた中で、いちばん困ったのは著作権のことです。私は、矢崎先生の遺稿発見までの苦労を知っていますし、本を出したいきさつも知っています。矢崎先生がみすゞを世に知らせようとしてされた努力もみんな見てきました。でも、みすゞの遺稿が見つかった時にすでに作者没後52年だったんです。作品の8割以上は、この時初めて世に出るものだった。そうすると「誰が使ってもかまわないじゃないか」という人が出てくる。一度も著作権の恩恵に浴したことの無かった娘さんが元気にいらっしゃるし、矢崎先生の仕事がなければ、誰もみすゞを読むことができなかったことも事実です。編纂著作権があるのでは、という弁護士さんの話もありましたが、これも争ってみないとわからない解釈だという。とにかく良識に訴えてお願いしていくしかないということで、「金子みすゞ著作保存会」をつくりました。全集を出してからずっと私がその窓口で、作品の使用については、保存会の許諾を受けてほしい、遺族や矢崎先生の意向を尊重してほしい、出典を明記して使ってほしい、そういうことをお願いし続けてきました。幸いなことに、おおかたの人たちは私どもの願いを当然のこととして認めてくださいましたが、「何の権利があって、そんなことを」とか、「法的には問題なくて、道義的な問題が残るだけですね」などといわれることもあります。この特殊なケースを理解してくださって、甦ったみすゞをたいせつにしていただければ嬉しく思います。」P117
 
 <④ 本格的なみすゞブームは94年以降だが、矢崎氏の選集は95年頃までに30万部近く販売された>
 大村代表らによると、「全集」は赤字が続いたとのことですが、読売新聞の記事(1995814日付)によると、「選集」は、最初の10年間で、30万部売れたとあります。
 この選集というのは、「わたしと小鳥と鈴と」(http://www.jula.co.jp/2007/10/d_/54.php)のことで、全集刊行から半年後の848月に出版されています。ただ、大村代表の寄稿によれば、この選集も詩集が好きな本屋がおいてくれた程度で、商売にはならず、他のこぶたが主人公の絵本やお風呂用絵本の販売によって支えることができた由。19934月に、矢崎節夫氏が『童謡詩人 金子みすゞの生涯』を出版したことを、天声人語や「知ってるつもり」、NHKスペシャル等で取り上げられて以降、売れ始めたとあります。
 
                           続く

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