しみじみと朗読に聴き入りたい

素晴らしい朗読が聴けるサイトやCDを発掘してご紹介します。著作権関係の意見も発信しています。.

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以上のように、疑問点は、次から次に湧いてきますが、矢崎氏やJULA出版局の「著作権」についての趣旨説明を信じたとしても、現在の状況は全集出版当時から大きく変わっており、彼らが言っていた目的は既に十分達していると思います。
 
①当初、著作権や出版権の主張の背後にあったであろう、「JULAの全集・選集があるからこそ、世間にその詩が伝わっているのであり、人気が出たからといって他社が勝手に参入されては、JULAの全集等が立ち往かなくなる。世に出すための赤字だけが残って、これから売れ出すという時に他社に収益源を奪われてはかなわないから、疑似著作権による関与、JULAの出版権的権利を認めてほしい」 といった危機感と切実な願望があったことは、理解はできないわけではありません。

 しかし、その後の推移で、JULAのみすゞ関連の出版物は圧倒的な存在となっており、「出版権」「著作権」の主張の背後にあったであろう競合本の発行により全集やみすゞ本の発行が立ち往かなくなるという事態をもはや考えられないものになっています。矢崎氏編による新たな新仮名遣いによる新全集が、2003年秋から2004年春にかけて出版され、今も継続発行されるなど、JULAのみすゞ本の発行は盤石なものになっています。他社による出版を排除する実質的必要性は失われてしまっています。
 
②また、遺族への還元という点でも、200418日付の読売新聞の金子みすゞ特集連載によれば、「舞台、映画、ドラマ、そして展覧会。みすゞに関する本も200万冊以上が出版され、今や人気は衰えることを知らない。」とありますから、遅ればせながら95年以降に「著作権料」を支払うことにより目的は十分に達せられたことでしょう。
 
③そして、今では、JULA出版局によるサイトだろうと思いますが、「金子みすゞ詩集」と言うサイトで、約360編の詩がアップされています(JULA出版局のロゴがついていて、転載を禁ずると書いてあります)。
 
 
 ネットでアップしても、詩集の売れ行きには影響しないとの判断があったからこそ、こうして多数の詩がネットで無償公開されているのでしょう。2001年の開設です。

  <補足>高遠信次氏から、このサイトはJULAのものではないと思われる旨のご指摘をいただきまし        た。下記コメント欄をご覧ください。 

④また、全集にはるかに先立つ先駆的な詩集である『繭と墓』の復刻版も出版されていて、アマゾンで簡単に買うことができます。30編が収録されています。また、金子みすゞが投稿していた『赤い鳥』や『童話』などの童謡雑誌の復刻本も販売されるようになっています。「日本の古本屋」などの古本サイトにアクセスすれば、容易にたどりつくことができます。どこかの図書館で閲覧は可能ではないでしょうか。それらに掲載されている詩は、JULAの全集に拠らずともアクセスすることはできるようになっています。
 
●ここまでの段階に至ったのであれば、著作権法の原則になじまない異例の運用を他人に強いる必然性は完全に失われています。
 「みすゞ本とそれを発行するJULAを存続させたい」、「それまでの赤字を一掃し黒字転換させたい」というやむにやまれる事情で異例の運用に協力してもらったということであれば、その必要性がなくなった時点で、その運用を打ち切るのが筋でしょう。
 今や誰でもが、自由にみすゞの気に入った詩を引用して感想とともに紹介しあうこと、自らの視点に立った詩の分類、編集をして詩集を出版すること、みすゞの詩をもとにした演劇シナリオを作って上演すること、好きな詩を選んで朗読集を出すこと、等々を、矢崎節夫氏やJULA出版局には何らの気兼ねもせずに行うことを、矢崎氏とJULAは認めるべきです。

 「著作保存会の了解をとるように」「転載を禁ずる」との文言が、自由にみすゞの世界を楽しみたいみすゞファンにとってどれだけ心理的重荷になっていることでしょうか。
 
 個人によるみすゞの数編の詩を紹介するサイトであっても、「金子みすゞ著作保存会の許可を得て掲載しています」とか、「現在保存会に使用を申請中です」「著作権の制約があって、ここでは掲載できません」とか、あちこちに書かれている状況は異様ですし、「詩の掲載は保存会の許可を得て下さい」と、矢崎氏らの代理人のようなことまで書いている個人サイトも少なからずあるのをみると、正直辟易してきます。
長門市や他の一部自治体、文科省もそれにならっているのも問題です。
「金子みすゞ著作保存会」のこと自体を調べようと思って、グーグルで検索すると、ヒットするのは、そんなサイトの文言ばかりです。いつまで検索結果ページをめくっていっても、肝心の保存会情報は得られないので、検索を断念しました。
 著作保存会の了解をとるということに疑問を投げかけながらも、「よくわからない」と困惑しているファンの姿をみるにつけ、彼らの罪は大きいと思います。

 
●金子みすゞ自身が投稿・公表した詩以外の作品が世に伝わったことについて、矢崎氏とJULA出版局の貢献を認めることは誰もがやぶさかではないと思いますから、その点に「敬意」を払うということであれば、その詩を利用する場合に出所を記載することで、十分に目的は達せられると思います。
ただ、商標権取得による他人の事業の妨害や、他人の使用・研究・鑑賞への干渉等の実態がわかってしまうと、せっかくの「発掘」の功績も色褪せてしまいました。
 
 次回以降、矢崎氏やJULAに何ら気兼ねすることなく、「金子みすゞ」を公共財産として、その詩の世界を自由に楽しむことができるような環境にするための方策などについて考えていきたいと思います。
                           

※ 時系列で整理してみました。
 
1980年  著作権失効
1981年  矢崎節夫氏が、みすゞ実弟の上山雅輔氏から、遺稿集等を入手。娘の上村ふさえ氏とも、雅輔氏を仲立ちとして知りあう。
198312月 朝日新聞社会面に、みすゞ遺稿集の「発掘」が報じられる。
19842月 金子みすゞ全集が、JULA出版局から出版(与田準一氏編)。限定千冊。
 同 8月  全集初版完売により、写真製版により増刷(千冊)。
 同 8月  矢崎氏編による第1選集「わたしと小鳥と鈴と」出版。

1989年 実弟の上山雅輔氏死去。
1993年3月 矢崎氏『童謡詩人 金子みすゞの生涯』をJULA出版局から出版。
同年4月〜 朝日新聞の天声人語でみすゞの詩が3編取り上げられ、マスコミの番組が続き注目を集める。本格的ブームが始まる。
1994年  国語教科書の多くにも翌年度からのみすゞの詩が採用決定。
       矢崎氏、絵本・童話5冊を出版。講演は例年の2倍の50回に。

1995年  2選集や「ふうちゃんの詩」などが出版。
1995年頃 娘の上村ふさえ氏に「著作権料」(印税)が支払われ始める。同氏は、母親に捨てられたと
     の思いが払拭されたこともあり、以降積極的に交流会等に参加。
      第1選集が、累計約30万部に。   
 
1998年  ハルキ文庫が初めて、金子みすゞ著作保存会の許諾を得て、文庫本詩集を発刊。
1999年7月 JULA出版局が「金子みすゞ」で商標登録申請(出版物、肉魚他の食料品、有価証券等の3区分)
2000年12月  商標登録が認められる。
200310月〜20044月  矢崎氏監修による新装本の金子みすゞ童謡全集が発刊。
 
 ※ 金子みすゞ著作保存会の設立時期は不明。
                                     続く

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<疑問5>「金子みすゞ著作保存会」の設立は、果たして全集出版直後だったのか? 実際は90年代のブームが起きたあとではなかったのか?

 前回記事冒頭に書いたように、著作保存会の設立時期について、矢崎氏や大村氏が全集の出版(1984年)の直後だったかのように言い振りをしているのですが、どこにも正確な設立時期が書かれていません。不思議なことに、『別冊文藝』の巻末に、矢崎氏編による「金子みすゞ略年譜」という資料が掲載されていて、そこには、全集発行後の様々な出来事、例えば、〇〇の絵本が出版された、顕彰会が設立されたとか、記念館が開館した、詩碑が建立された等々のことが詳しくかかれていながら、それと横並びからすれば当然書かれてしかるべきはずの著作保存会の設立とその時期が書かれていないのです。

 もしかして・・・彼らにとってそれを明らかにすると不都合なのではないか?と感じて、そういう目で見てみると、既に書いたように、競合他社が出版する可能性がでてきて実際にみすゞ本が一斉に出始めたのは、1995年以降のことですから、著作保存会の設立もそのあたりの時期なのではないのか?との疑問が湧いてきます。大村代表も、「いろいろの出版社の方と相談するなかで」と述べていますから、そういう局面は93年以降だと考えれば合点がいきます。
この点は、単純な事実関係の話ですから、設立年月が明らかになれば決着するのですが、もし、設立が93年の本格的ブーム到来以降のことだとすると、矢崎氏やJULA出版局によるみすゞの「著作権」の必要性についての説明は破綻してしまいます。
 
①「遺族に著作権の恩恵を得てもらいたいこと」と「未発見の詩の『発掘』の努力を尊重してほしいこと」が、著作保存会設立の趣旨だったはずですが、それであれば、彼らの説明しているように、全集や第一選集の出版当時に設立されなければならなかったはずです。
 ところが、実際の「著作権料」支払いが始まったのは10年も経った95年頃以降のことだということが明らかとなりました。著作保存会の設立が93年以降だったとすると、このことはつじつまがあってきます。それまでは、全集の増刷分や選集の売れ行きが芳しくなく、競合他社が出現する気配はなかったわけですから、その面での心配はなかったでしょう。「著作権の恩恵を遺族に」という発想も、そういう状況下では生まれにくかったと思います。それに、全集出版当初から遺族への還元という趣旨で著作保存会を設立したのであれば、ふさえさんが95年頃まで何も支払いを受けずに黙っているとは考えにくいところです。
 彼らの設立の趣旨説明は、実際に本格的ブームが起き始めた時点で、自らの独占・管理下に置くための「後付け」の理屈だったのではないか?との「仮説」に立つと、10年間の著作権料未払いという事実についての疑問が氷解します。
 
②週刊文春(昨年121日号)では、矢崎氏とJULAの大村代表は、インタビューに応じて次のように述べています。
 
「保存会を設立したのは、雅輔さんから『渡した遺稿の管理はそちらでやってくれ』と 頼まれたのがキッカケ。」(矢崎氏)
 
「雅輔さんに著作権料を支払わなかったのは、雅輔さんから『著作権料はふさえさんに』との申し出があったからです。」(大村氏)
 
 と話していますが、実弟の上山雅輔氏が亡くなったのは、1989のことです。もし著作保存会の設立が1993年以降だったとすると、保存会設立が、本当に雅輔氏の意向によるものだったのか?という疑問も湧いてきます。雅輔氏存命中に「著作権料はふさえさんに」と言われていたのであれば、その死去の89年時点はもちろん、それから6年近くも著作料を支払っていなかったというのは考えにくいところです。

 むしろ、93年以降にブレークしたので、急遽、著作保存会を設立して、みすゞ本の出版や詩の利用を矢崎氏及びJULAの管理下に置こうとしたと解釈するほうが自然ではないでしょうか。
 角川春樹氏のハルキ文庫は、その意向を尊重してくれたけれども、他の出版社は必ずしもそういうことではなくて、週刊文春の記事にあったように、無理筋の著作権の解釈、みすゞの独占、他社の出版への介入に対する批判が高まってきたがために、1999年に商標登録の出願をした、と考えれば、すべてが符合します。
 

● 調べていくと、以上のような疑問が次々を湧いてきます。
矢崎氏や大村代表の話を読んでいると、週刊文春記事にもあったように、おそらく当初は私利私欲があったわけではないのだろう、という気はします。最初に全集や選集を出版した際には、純粋に金子みすゞとその詩に魅入られての動機だったのだろうと思います。
 しかし、やはりその後のみすゞ大ブレークという状況の激変で、回りが見えなくなってしまったのではないかと感じます。以下のような点で、矢崎氏及びJULA出版局の行動は、保存会設立の趣旨の説明とは明らかに乖離・矛盾してしまっています。もしその説明内容を信じるとしても、今ではもはや変質してしまっているといってもいいでしょう。
 
① 金子みすゞ(の遺族)の著作権を主張する以上、まず塊から始めるべきであり、他者には著作権を認めて支払うよう要求しておきながら、自らは著作権料を支払わなかったということは許されることではありません。
単体で赤字だからといって、出版全体としては黒字だったはずですから、10年もの長きにわたって著作権料を全く支払わなかったということはあまりに不合理です。
仮にJULA側が言うように「全集や選集が単体赤字だったから支払えなかった」ということを認めるとして、それであれば、黒字になって以降に、遡って著作権料を支払う(筋からすれば金利をつけて)のが筋だと思われます。あれだけ他人には「著作権」「出版権」の尊重を強いてきたわけですから、自らはその点の筋を通して然るべきです。
JULAや矢崎氏の説明を信じて、「著作権料」を支払ってきた人たちかすれば、唖然、茫然ではないでしょうか。
 
②出版権、二次著作権の主張、更には商標権の取得という行為まで考えると、遺族であるふさえさんに著作権の恩恵を得てもらうという視点を超えて、JULA出版局による独占を意図したと思われても仕方がありません。
 みすゞの遺稿集をそのまま活字にしておきながら、二次著作権というような主張はあり得ないことですし、ましてや、詩集等の出版物までも指定商品として商標権の取得までするに至っては、もはや狙いはみすゞ本を独占し、JULAの管理下におくことにあるというより解釈しようがありません。出版関係者、文藝関係者であれば、誰でもか嘲笑を以て振り返る夏目漱石の遺族による商標登録申請事件と同じことをやるなど、申し開きようがないでしょう。
 
③更に、研究・評論や演劇等に対してまで、「著作権」の名の下に干渉、排除しているのだとすれば、それは到底許されない行為です。
 研究、鑑賞は、解釈の問題であり、思想表現学問の自由によって、最大限尊重されなければなりません。研究・評論における詩の引用は、著作権があったとして、まったく自由です。
金子みすゞの人生、詩作の経過・変遷、実弟の上山雅輔氏との関係等々、波乱に富んだものだけに、様々な解釈ができるわけであり、その研究や解釈に基づく発表、出版、公演等を妨げることはあってはなりません。もちろん、それに対して矢崎氏らが批判、反論をするのも自由です。そういうそれぞれの解釈に基づく発表とそれに対する批判が闊達に行われること、その自由が保障されているのが、「文学」という学問のあるべき姿でしょう。児童文「学者」であれば、当然理解していて然るべきです。
週刊文春記事では、自分の意に沿わ合い研究者に対しては、資料を貸さないという話が書いてありましたが、文「学者」であれば、そういうことはあり得ないことであり、むしろ社会での研究が促進されるように、関係資料の公開を積極的に進めたり、電子データとして公開していく等の取組みが求められていると思います。

しかし矢崎氏はそれとは対極的な姿勢のようであり、週刊文春の記事では、矢崎氏は次のような問題発言をしています。
 
「みすゞさんの詩が彼女の意図に反して使われることのないよう、今後とも保存会は続けていくつもりです」
 
 この発言は、「みすゞの意図」を自分が独占解釈するのだ、自らの意に沿わない他人の使用、研究に干渉していくのだ、という考えの表れでしょう。
 
 矢崎氏の意に沿わない高遠信次氏の評論著作(「詩論・金子みすゞ−その視点の謎」)を排斥したり、演劇のシナリオが気に入らないからといって上演に干渉したり、
 
高遠氏のブログ記事にあるように、みすゞ詩集の発行を進めていた他の出版社を公衆の面前で罵倒して断念させたり、
 
 等々の行為があったのであれば、それは「みすゞはわがもの」というみすゞ溺愛・盲目化のなせるものでしょう。

 週刊文春が引用している上村ふさえさんの矢崎氏に対する言葉「その時先生は、まだ『みすゞはわがもの』と思っていたわけですよね(笑)」というのは、金銭面の独占ということではなく、みすゞ溺愛のエピソードを評した言葉だと思います。この言葉は、『別冊文藝』のふさえ氏に対するインタビュー記事の最後で語られています。
 
ふさえ 先生はその106日(注:ふさえ氏の娘の結婚式)に講演していて具合が悪くなっちゃったの(笑)
矢崎 これは笑い話なんですが、初めて東京で講演会をやったんですよ。「いつもはみすゞさんがうしろ   にいてくれるのに、今日はお孫さんの結婚式で、そちらに行っちゃってるんです」と言って10分くらい   経ったら、立っていられなくなっちゃったんです(笑)。吐き気をもよおして。それで、30分だけ横になら  してもらったんです。あんな経験は、生涯できっと最初で最後ですよ(笑)。
ふさえ その時先生は、まだ『みすゞはわがもの』と思っていたわけですよね(笑)
矢崎 そんなことは思ってないですよ(笑)
 

 今や、金子みすゞに関する矢崎氏とJULA出版局の著作権の主張は、「遺族への還元」「『発掘』者の労に報いる」という観点からはるか遠くに逸脱・変質してしまい、単に矢崎氏の信じる「金子みすゞ信仰」への異端者排斥の手段、JULA出版局の詩集・絵本の独占販売維持の手段に変質してしまっているのではないでしょうか。


※ 先日、金子みすゞの詩集『繭と墓』の復刻本(大空出版。2003年発行)を見てみましたら、矢崎氏の解説が付いて、奥付きに「金子みすゞ著作保存会」の魚マークが記されていました。
 この本は、矢崎氏がみすゞの詩を「発掘」する過程で、大きな役割を果たした先駆的詩集であり、JULA全集本発行よりもはるかに早く昭和45年(1970年)に発行されていたものです。私家版的なものとはいっても、大正の童謡詩人の詩を詩人ごとにまとめた数巻のひとつであり、矢崎氏が敬意を払うべき存在だと思います。
 しかし、その復刻本についても、著作保存会の「了解」の印たる魚マークを記させることには、大きな違和感を感じました。「その詩集の1970年時点では、まだ著作権が存続していたけれども、その詩集の存在について、遺族は認知していますよ」という意味合いのつもりでしょうか。 矢崎氏の「発掘」を支えてくれた恩人、先輩的詩集に対して、矢崎氏がお墨付きを与える、という印象が出てしまって、なにかこう・・・「不遜」というと言い過ぎかもしれませんが、いい印象は持てませんでした。

                                        続く
 

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<⑤ 金子みすゞ著作保存会の正確な設立時期、組織実体がどこにも書かれていない>
 ・・・というところまでわかってきたのですが、どうしても分からないのが、「金子みすゞ著作保存会」の正確な設立時期と組織実体です。ネットでいくら調べても出てきませんし、JULAや矢崎氏らによる年譜を見ても記載されていません。週刊文春記事では、矢崎氏は「保存会を設立したのは、雅輔さんから『渡した遺稿の管理はそちらでやってくれ』と頼まれたのがキッカケ」と述べ、またハルキ文庫での解説でも「全集出版(=1984年)の際」と書いているのをみると、全集出版後そう経たないうちに設立されたのかとの印象を受けますが、一方で、『別冊文藝』の上村ふさえ氏へのインタビューでの矢崎氏の発言では、「いろいろな出版社の方とお話をするなかで、金子みすゞ著作保存会をつくるといいという話になった」P56)との説明もありますし、角川春樹事務所が初めて保存会の趣旨を尊重し許諾を得て文庫出版をしたのが1998年ですから、全集出版後、保存会設立まで、それなりのタイムラグ(時期のずれ)があるのではないか?とも感じるのですが・・・。

 それで、『別冊文藝』の巻末にある「金子みすゞ参考文献・研究資料一覧」というところに、その出版時点である2000年までにおけるすべての出版物が掲載されていますので、それを見てみました。そうすると、JULA出版局以外のほとんどの出版物は、1995年以降となっています。ごく一部、作曲家の中田喜直による楽譜が1985年、1991年という早めの時期に出版されているのみです。これらのことを考え併せると・・・・もしかしたら・・・「保存会」というのは、全集出版当時(=1984年)ではなくて、マスコミで話題になり始めた1993年以降なのではないのか? という気もしてきます。上記インタビューで矢崎氏は、「ぼく自身、JULAから出版する時に、赤字でなくなったら、みすゞさんの甦りは特別なことだから、50年たっていても、著作権があるように、遺族の方にきちんとしてほしいとお願いしました。JULAの大村さんも初めからそう考えていらしたので、とてもうれしかったです。」と語っています。
 赤字でなくなったのは、大村氏の説明によれば、93年以降の様子ですし、他の出版社から書籍が出始めたのも1995年以降ですから、著作権の扱いを具体的に考え始めたのもその頃ではないのだろうか? という気がしてきます。
 どうも、この辺の設立時期に関連する説明が曖昧模糊としています。この点は、彼らが描く著作権ストーリーにとっても大事な点ですから、正確な時期を知りたいものです。
 
 加えて、わからないのが「保存会」の組織実体です。JULA出版局内においたというだけで、どういう位置づけで、誰がどういう手続きで、どういう基準で判断しているのかさっぱりわかりません。以前は、使用規程というのが載っていたのでしょうか? 今はどこにも見当たりません。遺族のふさえさんも参加しているかのようにも書かれているものがありますが、どういうお立場なのでしょうか。「著作保存会」と書けばもっともらしく聞こえますが、つまるところその実体は、JULA及び矢崎氏そのものではないかと感じます。
 「JULAや矢崎氏の了解を得て下さい」というと 「なぜ?」と受け取られるかもしれませんが、「金子みすゞ著作保存会の了解を得て下さい」というと、なんとなく公益的団体とか、みすゞの詩を大事にしてくれている団体とかの印象が前面に出て、心理的抵抗感が大きく減殺されますから不思議なものです。「借金」を「ローン」といいかえるだけで抵抗感がなくなるのと同じ、言葉のマジックです。


● 以上のことを頭において、金子みすゞの著作権についての矢崎氏やJULA出版局の説明、主張を考察すると、さまざまな疑問・疑念が湧いてきます。
 
<疑問1> JULA出版局以外の他者には、金子みすゞの著作権を認めて使用料を支払うべき、と主張しておきながら、肝心のJULA自身が、84年以降95年頃までの10年近くにわたり、「著作権料(印税)」を支払っていなかったというのは、筋としておかしいではないか?
 
 著作権を認めるべきと自らが主張するのであれば、赤字かどうかは本来関係ないことですし、遺稿集を提供してくれた上山雅輔氏は、「著作権料は(自分はいいから)上村ふさえ氏に支払ってあげてほしい」と言っていたというのですから、僅かなりとも支払った上で、他者に対して支払ってほしいというのが筋だと思います。
 全集出版時前後の時期以降、ふさえさんが苦境にあったということは矢崎氏もよくわかっていたわけですから、なおさらです。
 
<疑問2> そもそも「赤字だった」というが、それは本当か? 仮に赤字だったとしても、著作権料が支払えないほどの赤字だったのか?

 最初の全集は、制作コストが当初300万円のつもりが700万円になったと、大村代表は語っています。売価1万円で限定1千部が3か月で完売しましたから、1千万円で出版社の取り分は三分の二が相場であるので、約660万円の収入。人件費その他の諸雑費を除けばほぼトントン。次の写真製版した追加の増刷1千部はあまり売れなかったと言いますから、それはそれなりの赤字だったかもしれません。
 しかし、以上は「全集」の話で、矢崎氏編による『わたしと小鳥の鈴と』の「選集」は、10年の間に30万部売れたと報道されていますから、1200円×30万部×2/3(出版社の卸価格)=約24千万円。もちろん制作コストがありますからそのまま利益にはなりませんが、それでも、これだけの収入がある中で、あれだけこだわっている金子みすゞの著作権の対価たる著作権料を、ふさえさんに一銭も支払わなかった合理的理由は見い出せないのではないでしょうか。
 それに、大村氏自身、寄稿の中で、「他の絵本の収入で、みすゞ本の出版を維持していた」と言っているわけですから、出版事業全般としては当然黒字だったのでしょう。それであればなおのこと、ふさえさんに支払わない理由はないと感じます。

 更に穿った見方をすると、幼少だったふさえさんの言葉をみすゞが集めた『南京玉』から抜粋した『ふうちゃんの詩』という絵本が199512月に発行されていますから、さすがにご本人の言葉を出版しておいて、それまでのように、何も著作権料を支払わないわけにもいかないという事情も要因としてあったのではないのだろうか・・・とも思えてきます。ふさえさんは、この絵本が出版されたときは「びっくりした」とインタビューで言っています。
もうひとつの要因は、1995年に矢崎氏による第2の選集が発行されたことでしょう。第2選集を出すだけの余裕が生まれたということかと思います。これらのふさえさん関連の絵本や矢崎氏の第2選集の出版がなされたこともあって、1995年頃から「著作権料」を支払い始めたというころだろうと想像されます。
 
<疑問3>矢崎氏は、選集の編集料を受け取っていたのか?

 どうもわからないのが、選集は矢崎氏の編集と書かれています。そうすると矢崎氏はその編集料を受け取っていたのでしょうか。絵を描いているのはまた別の方です。筋からすれば、彼らが言う著作権の継承者たるふさえさんに著作権料を支払わずに、矢崎氏への編集料は支払いました、というのでは全く筋が通りません。
ですから、まさかそういうことはないとは思いますが、かと言って、それでは矢崎氏は何を収入源にしていたのだろうか、と思うと、もしかして・・・という気もしますから、この辺は実際どうなのか、彼らの主張する「著作権ストーリー」にとっても大事なポイントかと思います。
94年以降に相次いで出した矢崎氏編集による絵本等についても同様です。以下のように、矢崎氏自身は講演と出版を重ねています。講演のほうは、「著作権料」支払い対象ではもちろんありませんが、みすゞ物で利益を得ながら、「著作権者」には本来の著作権料も支払わないというのは、矢崎氏らから「著作権」尊重を要求される相手からみれば、釈然としないでしょう。
 
「「今年は例年の二倍、五十回以上講演しました」と驚いているのは童話作家の矢崎節夫さん(47)。昭和五年に二十六歳の若さで死去し「幻の童謡詩人」と呼ばれた金子みすゞを十二年前に発掘、作品集を出した。静かなブームは続いていたが、今年は再三マスコミで紹介されたせいか、反響が一気に広がった。自身も今年、童話一冊と絵本五冊を出版。「深く、優しい目で歌った彼女の詩に触れ、僕の作品も変わってきました。来年は彼女の二冊目の選集が出ます。子供向けの伝記もぜひ書きたい」」(1994114日付読売新聞)
 
 
<疑問4>「著作保存会」はどういう立場で、使用の了解を他人に求めているのか?

 話を追っていると混乱してくるのですが、「著作保存会」が他人による詩の利用について同会の了解を得ることを迫り、あちこちにクレームをつけるのは、どういう立場によるものなのでしょうか?
 矢崎氏やJULAは、「著作権」は遺族である上村ふさえさんにあるという立場です。それであれば、ふさえさんが許諾をする立場にあります。保存会に「著作権」を譲渡しているわけではないでしょう。では、ふさえさんから委託を受けて、「著作権」管理事業をしているということでしょうか? それは一任型、非一任型のいずれでしょうか? どういう形で受託されているのでしょうか?

 いずれにしても、著作権管理事業者的立場だとすると、許諾(=了解)や著作権料の収受をすることはできても、著作権者本人ではない以上は、他人の使用に対して、クレームを申し立てたり著作権料の支払いを迫ったりすることは、できないはずです。紛争事案について、弁護士ではないもののが法律行為を行うという非弁活動を禁止している弁護士法に抵触する可能性さえ出てくるのではないでしょうか。本当の著作権はない以上、代理人の弁護士を使って警告、要求もできないでしょうから、保存会なり矢崎氏、大村代表なりが自らが行ったのでしょう。それは本来、問題行為ではないでしょうか。
 組織実体も立場も明らかにしないままに、著作権者でもないのに、他人に使用の了解を得ることを求め、それに従わない場合にクレームをつけたり要求をしたりすることは、法律上もまことにおかしな話です。
 二次著作権、編集著作権、出版権を前提として要求しているのであれば、論外です。みすゞの遺稿集をそのまま活字にした全集に二次著作権も編集著作権もありません。選集そのままの形で他社が出版するということであれば、編者である矢崎氏の編集著作権とその出版社であるJULAの出版権に抵触するという見方もできますが、個別の詩にはそれはもちろん及びませんし、他社が独自の観点で詩を収録した詩集には、矢崎氏らの編集著作権や出版権は及びません。もちろん、商標権も(同一題名、同一構成でJULA発行本と誤認混同するようなものを出版するものでない限り)及びません。                     
                                   続く

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 前回記事からだいぶ間があいてしまい、失礼しました。

この間に、矢崎氏やJULA出版局に批判的な記事を以前から書いておられる高遠信次氏に、小生のブログをご紹介いただくとともに、広くは全く知られておらず、週刊文春記事でも詳しくは触れられていない矢崎氏らの問題を紹介する記事をアップしておられました。感謝するとともに、ご紹介させていただきます。
 
 
 なお、以前ご紹介したように、高遠氏の一連の金子みすゞに関するブログ記事は、「著作権」「商標権」問題を考える上では、大変参考になります。
 
  ※「詩論 」に多数のみすゞ関連記事を収録。
 
 
● さて、前回記事の続きです。その後、更にいろいろ調べてみました。
その結果、前回、金子みすゞのウィキペディアの記事に「明らかな間違いがある」と書きましたが、それは書き過ぎでしたので、訂正してあります。ただ、金子みすゞの世間への浸透過程について誤解しやすい記述であるとは思います。 
 ウィキペディアの「金子みすゞ」の項目には、次のような記載があります。
 
 
「●忘却と再発見
金子みすゞの詩は長らく忘れられていたが、岩波文庫『日本童謡集』の「大漁」を読んだ児童文学者の矢崎節夫らの努力で遺稿集が発掘され、1984年に出版されるや、瞬く間に有名になった。現在では代表作「わたしと小鳥とすずと」が小学校の国語教科書に採用されている。東京大学の国語の入試問題(1985年国語第二問)に採用された作品もある。また、このことをきっかけに地元長門でもみすゞの再評価が行われることとなり、みすゞの生誕100年目にあたる2003411日には生家跡に金子みすゞ記念館が開館。みすゞが少女期を過ごした家を復元すると共に、直筆の詩作のメモなどが展示されている。」
 
 これを読むと、84年の出版直後から、一気に金子みすゞが有名となり、全集・詩集が爆発的に売れて、世間に浸透していったというようにとれます。東大の入試にまで取り上げられたことが、その印象を増幅します。
 この「瞬く間に有名になった」という点は、矢崎氏らの説明にも拠るところがあるのではないかと思います。以下に、矢崎氏が館長を務めるみすゞ記念館がある山口県長門市の観光HPにある説明です。
 
 
 ここでは、 
 
「この2年後の昭和59年2月、多くの人たちの善意により、「金子みすゞ全集」が出版されました。そして、みすゞさんの詩は瞬く間に人々の心を捉えていったのでした。」
 
 これを読んでも、84年の出版直後から、一気に有名になった、と思うことでしょう。
ところが実際は、80年代は静かなブームであり、本格的に定着していったのは1993年以降のことでした。
 金子みすゞの著作権に関する矢崎氏やJULA出版局の主張を考える上で、この辺の事情を念頭においておく必要があります。
 
 いろいろ調べた際に参考にしたのは以下の諸資料です。
 ①「別冊文藝 総特集金子みすゞ」(2000年 河出書房新社)
   これは、娘さんの上村ふさえさんと矢崎氏との対談、全集出版当時の経緯や苦労談、関連書籍出版についての年譜等が掲載されており、大変貴重な材料が豊富に含まれています。アマゾン等で今でも入手可能です。

 ②ハルキ文庫「金子みすゞ童謡集」(1998年 角川春樹事務所)
   金子みすゞ著作保存会の「許諾」を得て出版した初の書籍のようです。その経緯等についての矢崎氏の解説が巻末に掲載されています。

<!--[if !supportLists]-->読売新聞、朝日新聞記事データベース
  新聞記事をたどることによって、80年代以降のみすゞブームの変遷がよくわかります。
 
これらの資料をあたった結果、わかってきたのは以下のような事実です。
 
<① 金子みすゞブームは全集出版直後と93年以降の2段階>
  金子みすゞが今のように親しまれるに至る過程は、一直線ではなく、2段階だった。まず、842月の全集が発売される直前の8312月の朝日新聞社会面に大きく、金子みすゞ遺稿集の発見と出版についての記事が掲載された(河谷史夫編集委員執筆)。
  JULAが全集出版に際しては、千部で300万円かかるというので(実際には700万円かかった)、1セット1万円と高価に設定せざるを得なかったものの、長門みすゞ会などの協力などにより、発売から3か月で限定千部が完売となった。更に注文が入ったが、原版が残っていなかったので写真製版にして8月に新装版で更に千部を発行した。しかし、それは最初は売れたものの、その後の売れ行きは芳しくなかった。大きい書店でもなかなか置いてくれなかった。
 他方、長門市の人々らからの要請もあり、より親しみやすい選集として、矢崎氏編による『わたしと小鳥と鈴と』が出版され、静かなブームを支えた(以上は、『別冊文藝』へのJULAの大村祐子代表の寄稿による)。
 その後は、あまり大きく取り上げられることはなかったが、19934月に、矢崎節夫氏が『童謡詩人 金子みすゞの生涯』を出版し、朝日新聞の天声人語や他のマスコミもみすゞの詩を取り上げたことから再度注目され、更に翌94年にはほとんどの国語教科書への採用が決定され、テレビCMにも使われるなど、大きなブームとなった(読売新聞記事等による)。
 
<② みすゞの遺族(娘)である上村ふさえさんに「印税」が支払われ、みすゞ理解が進み、気持ちの上でも交流に積極的になったのは、1995年頃以降。「印税」は10年間支払われなかった。>
 上村ふさえさんが矢崎氏と知り合ったのは、叔父である上山雅輔氏(矢崎氏に遺稿手帳を渡したみすゞの実弟)を通じてのこと。全集出版当時にはご主人とも死別するなど苦しい時期だった。その後、全集も赤字で著作権料もなく、名誉だけだったので、正直仙崎に交流等で行くのは苦痛だった。母親には捨てられたという思いがずっとあったし、ご主人の闘病、死別など生活が大変だったのに、なぜそれまで墓参りに来なかったのかという目で見られるのではないかと思い辛かった、とのこと。95年頃の矢崎氏の一文で、母親への見方も変わってきたこと、印税が支払われるようになったことなどから、気持ちも変わってきて、「みすゞを楽しんでやろう」という気持ちで各地での交流にも積極的に出向くようになった由(『別冊文藝』の上村ふさえさんへの矢崎氏インタビュー記事による)。
 
<③著作保存会設立の趣旨は、詩の8割以上が未発見だったこと、遺族が著作権の恩恵を受けていなかったことの2点。JULAは出版権を有するとの考え方だったこと。
ハルキ文庫の『金子みすゞ童謡集』という文庫本(1998年)を見ていたら、その解説部分で、矢崎節夫氏が、この保存会設立の趣旨について説明している部分があります。そこでは、「現行著作権法の規定からすれば、金子みすゞの著作権は失われていると考えることもできる」旨を述べたあと、以下のように経緯を記しています。
 
「しかし、この著作権法には、亡後50年を経て、一人の著作物がこれほどの甦りをするということは考慮に入っていません。又、みすゞの遺した512編のうち、5分の4以上が未発表のものでした。さらに、この50年間の間、著作権継承者である遺族は、一度もその権利の恩恵を受けてこなかったのです。そこで、全集を出版する際、JULA出版局と相談をし、金子みすゞの著作物に関しては、著作権法の考慮外の特別なケースとして、遺族の著作権を認め、守ることにしたのです。JULA出版局内に『金子みすゞ著作保存会』をつくり、JULA出版局の金子みすゞの著作物には遺族に一定の印税を払うことにし、著作物の保護をしてきました。以後、今日まで多くの出版社がこの趣旨に共感賛同され、作品の出版物に転載するに当たっては、著作権を守ってきて下さったことは出版人の良心を強く感じました。・・・・今回、角川春樹事務所から金子みすゞ保存会に、著作権及びJULA出版局の出版権を認め、文庫本として出版したいという要望があり、出版することになりました。これは、市販の単行本としては、JULA出版局の出版物以来、初めてのことです(これまでには、副読本として教育出版と明治図書の2社から直販の選集と私の著作物が出版されているだけでした)」(同文庫P220〜)
 
 また、JULAの大村代表は、『別冊文藝』への寄稿文の中で、経過を以下のように述べています。矢崎氏の上記解説とほぼ同趣旨です。
 
「金子みすゞと15年以上関わってきた中で、いちばん困ったのは著作権のことです。私は、矢崎先生の遺稿発見までの苦労を知っていますし、本を出したいきさつも知っています。矢崎先生がみすゞを世に知らせようとしてされた努力もみんな見てきました。でも、みすゞの遺稿が見つかった時にすでに作者没後52年だったんです。作品の8割以上は、この時初めて世に出るものだった。そうすると「誰が使ってもかまわないじゃないか」という人が出てくる。一度も著作権の恩恵に浴したことの無かった娘さんが元気にいらっしゃるし、矢崎先生の仕事がなければ、誰もみすゞを読むことができなかったことも事実です。編纂著作権があるのでは、という弁護士さんの話もありましたが、これも争ってみないとわからない解釈だという。とにかく良識に訴えてお願いしていくしかないということで、「金子みすゞ著作保存会」をつくりました。全集を出してからずっと私がその窓口で、作品の使用については、保存会の許諾を受けてほしい、遺族や矢崎先生の意向を尊重してほしい、出典を明記して使ってほしい、そういうことをお願いし続けてきました。幸いなことに、おおかたの人たちは私どもの願いを当然のこととして認めてくださいましたが、「何の権利があって、そんなことを」とか、「法的には問題なくて、道義的な問題が残るだけですね」などといわれることもあります。この特殊なケースを理解してくださって、甦ったみすゞをたいせつにしていただければ嬉しく思います。」P117
 
 <④ 本格的なみすゞブームは94年以降だが、矢崎氏の選集は95年頃までに30万部近く販売された>
 大村代表らによると、「全集」は赤字が続いたとのことですが、読売新聞の記事(1995814日付)によると、「選集」は、最初の10年間で、30万部売れたとあります。
 この選集というのは、「わたしと小鳥と鈴と」(http://www.jula.co.jp/2007/10/d_/54.php)のことで、全集刊行から半年後の848月に出版されています。ただ、大村代表の寄稿によれば、この選集も詩集が好きな本屋がおいてくれた程度で、商売にはならず、他のこぶたが主人公の絵本やお風呂用絵本の販売によって支えることができた由。19934月に、矢崎節夫氏が『童謡詩人 金子みすゞの生涯』を出版したことを、天声人語や「知ってるつもり」、NHKスペシャル等で取り上げられて以降、売れ始めたとあります。
 
                           続く

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