しみじみと朗読に聴き入りたい

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著作権と朗読の問題

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 朗読者の皆さんの活躍の機会を飛躍的に拡げ、文藝世界を活性化させるだろうと確信している方策は、以前にも書いたことがありますが、朗読配信サイトと著作権保護団体との包括契約です。これは、音楽の世界では、JASRACなどの著作権管理団体が積極的に進めています。
 たとえば、誰でも、朗読ファイルを含むあらゆる電子ファイルをネット販売できるDL-MARKETというサイトがあります。このサイトで、朗読を配信されている方もおられると思います。そこでは、やはりJASRACe-Licenceなどの著作権管理団体との間で包括契約を結んでいます。
 
 これによって、JASRAC等が著作権管理している楽曲であれば、誰でも自由にその楽曲を演奏したり歌ったり、あるいは楽譜や歌詞を電子ファイルで有償配信することができる仕組みです。いちいち個別にJASRAC等に許諾を得なくとも、好きなように配信できますし、その使用料は、売上げから差し引かれますから、許諾手続きに伴う手間暇から解放される素晴らしい仕組みです。
 これであれば、利用者側は、コスト負担なく、どの楽曲でも自由に配信することができますし、著作権者側は、利用料収入が入ってきます。そして、様々な楽曲が、様々な実演者によって、広く流通し、リスナー側も選択肢が大幅に広がることになります。
 
 これと同じ仕組みを、文藝作品でも採用できないはずがありません。
 日本文芸家協会の著作権担当の副理事長だった三田誠広さんは、出版権構想がさかんに議論されていた時に、「発表から40年経ったような作品で、著作権使用料を得ようという作家などはいない」と述べておられました。
 実際、発表から30〜40年も経てば、忘却の世界に入っていく作品の例が少なくありません。一時はベストセラーでも、絶版になって久しい作品も多々あります。出版社がずっと出版権を握って、書籍を出し続けている例は少ないでしょう。


 しかし、そういう作品でも、上記のような仕組みを作れば、たちまち、利用者と著作権者の双方にとって、宝の山に変身します。
 何も、朗読の世界だけではありません。電子書籍の形での復活も期待できますし、複数作家の作品から選ぶアンソロジーの形での電子書籍の出版も極めて活発になることでしょう。
 
 音楽の著作権管理と、文藝作品の著作権管理との間には、法的な管理方式の差はあります。楽曲の場合は、JASRACに「信託」しますから、JASRAC自身が著作権行使者となるため、ああいう配信サイトとの包括契約を機動的に結ぶことができるのでしょう。
 他方、文藝家協会やビジュアル著作権協会のような文藝作品の著作権管理団体の場合は、「委託」契約です。文芸家協会は以前から一任型でしたが、ビジュアル著作権協会も一任型も採用したようです。一任型であれば、本来は、いちいち著作権者側に照会せずとも、協会の判断だけで、許諾をすることができる仕組みです。ただ、実際の運用は、そのたびに著作権者側に照会しているようなので、迅速な許諾ができない憾みがあると思います。
 
 しかし、発表後数年であればともかく、30年以上、あるいは半世紀以上経った作品であれば、死蔵されているよりは、誰でもいいから広めてほしいと、著作権者側にとっても思うのではないでしょうか。流通しないことには、作品も名前も後世に残すことはできません。
 ですから、一定の基準を設けて、原則として、発表後30年経過した作品については、文芸家協会等が本来の一任型で、信託に近い形で、許諾できるようにして、配信サイトと包括契約を結べばいいのではないでしょうか。
 包括契約は、視聴覚障害者向けの許諾では広く行われています。その場合には、障害者向けの録音図書の作成や大活字本の作成について、どの作品でも可とするという仕組みです。それと同じ包括契約を、発表後、たとえば30年以上経った作品について一般利用向けに結べるようにすればいいのです。
 
 上に述べたのは、「発表後」30年以上の話ですが、著作権は「死後」50年続きます。これが、TPP70年になるかもしれません。「死後」であれば、現在の制度運用のままでは、死蔵と忘却の局面に入っていきますから、包括契約によって、作品の再認識が図られる機会になるのであれば、著作権の承継者側も歓迎でしょう。
 
 その包括契約を結ぶ際に、除外したい作品があればそうすればいいですし、価格があまりに低いのは嫌だということであれば、最低販売価格なり最低使用料を設けておけばいいと思います。
たとえば、最低価格を、1件の販売当たり、
・発表後20年以上経った作品については200〜300円以上、
・発表後40年以上の作品は、100円以上、
・死後30年以上は、1050円以上
と設定し、その一定割合が、著作権者に還元されるようにすれば、利用者側は初期負担なしに、売れた分だけ利用料を払えばいいので、どんどん利用するようになることでしょう。
 
作家の皆さんは、電子書籍を軽視している面があるようです。三田さんが審議会で言っていたのは、「紙の本なら、印刷部数分だけ、印税がまとめて入ってくるが、電子書籍はそうではなく、売れた分だけしか入ってこないのでメリットが薄い」というような趣旨でした。しかし、そうやって紙の本が出版されている期間であればいいですが、もう売れなくなれば、あとは忘れ去られるばかりです。
しかし、先日、三浦綾子の著作シリーズが、電子書籍として一斉に発売され、好評のようですから、電子書籍見直しのきっかけになってくれればいいと思います。
 そういう現象を、各作家の各作品について期待できるわけです。ただ、最初に作品を出した出版社が囲い込むのはあまり好ましいことではありません。出版社横断的にテーマに即して作品のアンソロジーを作るような場合には、誰でも広く利用できるようにすることが望ましいところです。


 青空文庫にしても、作家、作品のラインアップを同様に飛躍的に拡げることができるでしょう。その読者にしても、長さにもよるでしょうが、1作品10円、20円、長編でも50円〜100円という程度のコスト負担であれば、負担可能ではないかと思います。朗読者の皆さんは、それらのテキストを使うか、自分で持っている本を使うかのどちらかで朗読して、上記のような価格で販売すればいいわけです。青空文庫の事務局にしても、広告とともに、その売り上げの一部を運営費用に充てることができます。
 
 活字の場合は、作家、作品と経過期間によっては、出版社との関係で難しい場合もあるかもしれませんが、朗読であれば競合はありません。
趣味でやるにしても、仕事としてやるにしても、朗読者の皆さんにとっては、作品の選択肢が飛躍的に広がります。
こういった環境ができていけば、作品が死蔵されることはなくなりますし、作品のデータベースができ、その再利用による文藝作品の再活性化が図られ、著作権者、読者、朗読者のすべての皆さんがメリットを得ることになります。
  
このような潜在的発展可能性がある仕組みが、隣接の音楽分野では既に設けられ、活発に運用されているのに、文藝世界では何らの変化の兆しがないとすれば、残念な限りです。
このような流通が容易になる仕組みができれば、TPP合意によって、仮に70年に保護期間が延びたとしても、影響は大きく違ってきます。
今は、

 「著作権がある=使えない=死蔵・忘却される」

というのが、ワンセットになってしまっていて、著作権保護期間延長の議論もそういう構図の中で行われていると思いますが、上記のような容易な流通促進の仕組みが、あちこちの電子書籍、オーディオブックの配信サイトでできていけば、様相は一変すると思います。

先日、上記のDL-MARKETに、上記に書いた仕組みの説明しつつ、文藝家協会と包括契約を結ぶことができないかとのご提案メールをお送りしたのですが、今のところ反応はありません。配信サイトにとっても、大きなビジネスチャンスだと思うのですが・・・。


文藝朗読者の利益を代表する団体ができ、著作権管理者団体と交渉できれば、話は進むと思うのですが、残念ながら、そういう方面での活動はなされていないのではないかと思います。私はサラリーマンなので、そういう活動に携わることができず、こうやってブログに書く程度しかできないのですが、上記構想が、いずれ日の目を見て実現する日が来ることを祈っています。


今はネットの時代ですから、ネットで広く、文芸愛好家、朗読愛好家の皆さんから署名を集めて要望を提出する、という方法もあるのかもしれませんね。

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 少し、「朗読者の地位(ステータス)」の認知度について、感じるところを書いてみようと思います。

 きっかけは、今年6月に締結された「視聴覚的実演に関する北京条約」についての報道です。

 それについての解説で初めて知りましたが、俳優や舞踏家などは、その映像がDVDでレンタルされたり放送されたりしても、権利請求できなかったのだそうです。

http://www.pre.or.jp/page/contribute005.html  

 http://copyright.watson.jp/neighboring01.shtml  

 

 同じ「実演家」でも、音楽家や朗読家など、音、声などの「録音物」の場合は、レンタルや放送の場合に権利請求できますが、映画などの「録画物」では、俳優等は権利請求できなかった由。

 ・・・ということは、同じ朗読でも、朗読音声をCDで出す場合と、朗読の録画としてDVD等で出す場合とでは、権利が異なってくるということですね。

それを、この北京条約で、録画の場合でも録音と同じように、権利請求できるようになるのだそうです。批准と法改正作業が進めば、日本でもそれができることになります。

 

 こういうことからすれば、朗読者の権利は、俳優たちよりも厚かった、ということになりますが、実感としては、おそらくだいぶ違っているのではないかという気がします。俳優たちよりも、かなり薄いのではないか、というのが正直な印象です。

 

1 朗読者の地位の認知度の低さ(1)―「朗読者の名前が書かれていない有償販売がある」

 それをもっとも強く感じるのは、朗読のネット配信等で、朗読者の名前が書いていない場合です。朗読者の名前を書かない有料の朗読配信が存在し得るということは、朗読者の技能自体は評価対象ではない、ということに等しいのではないかと思われ、なんとも理不尽な気がします。聴く立場からは、誰が朗読しているのだろう?というのは切実な関心ですし、音楽などでは、必ず作曲、作詞者などの著作者に加えて、歌手、演奏者、指揮者などの実演家の情報は必須ですから、朗読者の名前がないままに発行されているのは、どういう意識によるものなのか、よく理解できません。

 

 仮に、文字を音声化するだけを主目的とし、個性的な実演の要素に特段重きを置かない(あるいは排除する)「音訳」であっても、音訳したのが誰なのかという情報は、音訳をされる方、聴かれる方の双方にとって、関心事項ではないかと思います。

 

2 朗読者の地位の認知度の低さ(2)―「二次著作権が認められず、印税が支払われない」

 朗読者の名前が書かれないままにネット配信、CD販売がなされる場合だけでなく、名前が書かれている場合であっても、おそらく、朗読者に認められる実演家としての二次著作権の尊重は必ずしも十分ではないのではないか・・・とも感じます。

 普通は、作家の印税と同じく、販売価格の1割というように、販売数に応じて使用料が支払われるのが筋だろうと思うのですが、おそらく、朗読をしても、その音源の著作権は製作側(販売側)に帰属するというケースが少なくないのではないでしょうか。

 要するに、朗読者側は、一回切りの朗読の手間賃が入るだけで、二次著作権はなく、いくらその朗読が売れても、それに見合った収入は入ってこないという構図です。言葉は悪いですが、販売側による「搾取」的構図になります。もちろん、すべてがそういうことではないとは思いますが、このような形態も少なからずあると思われます。

 そうだとすると、これまで音の実演家として認められていたはずの権利も、そもそも権利が契約上認められないために、画に画いた餅になってしまいます。

 

 こういう構図では、朗読者がプロとして生計を立てるというのは難しく、ナレーションや司会その他さまざまな副業をしないと成り立っていかないのでは・・・と考えてしまうのですが、思い過ごしでしょうか。

 大手出版社等の朗読CDを見ると、俳優を起用するケースが多いですが、個人的には俳優よりも、朗読ブログやYouTubeでネット配信等をされている朗読愛好家の皆さんの朗読のほうが聴きやすいと思っています。もちろん、趣味の世界で十分という方も多数おられると思いますが、せっかくの素晴らしい朗読なのですから、そういった愛好家の皆さんには、様々な作品を読んで発信していただきたいですし、広く流通してほしいものだ、と聴く立場からは感じます。

 そのためにも、上記の(1)(2)について、まずは環境改善がなされることが必要と思います。


 次に、朗読者の皆さんの活躍の機会を飛躍的に拡げる方策について書いてみます。


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 孤児作品問題や、保護期間延長問題に関連して、著作権の不使用の場合の失効(または強制許諾)制度の可能性について調べてみたいと思って、著作権法の解説本を読んで見たのですが、読んでいるうちに、何か妙だな・・・? と思うことがありました。
ちょっと雑談になります。
 
 きっかけは、翻訳権の消滅の仕組みを調べたことです。
外国語作品については、「翻訳権の10年留保」というものと、「7年での強制許諾」という特例的制度があります。以下、文化庁のサイトからの抜粋です。
 
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  翻訳権の保護期間
 (イ) 翻訳権10年留保
 我が国はかつて、著作物が最初に発行された年から10年以内に翻訳物が発行されなかった場合翻訳権が消滅し、自由に翻訳することができる制度(翻訳権不行使による10年消滅制度)を適用することを、ベルヌ条約上、宣言していました。
 しかし、現行法制度制定当時に、同宣言を撤回したことから、現行著作権法施行前に発行された著作物についてのみ、翻訳権不行使による10年消滅制度が適用されます(附則第8条)。

 (ロ) 翻訳権の7年強制許諾
 著作物が最初に発行された年から7年以内に翻訳物が発行されない場合で、翻訳権者から翻訳の了解が得られない時、文化庁長官の許可を受け、所定の補償金を払って翻訳することができる制度があります。なお、この制度は、万国著作権条約に基づく保護のみを受ける国の著作物について適用されます(万国著作権条約の実施に伴う著作権法の特例に関する法律第5条)。
 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 現行法施行以前に発行された著作物については、自由に翻訳(出版も含まれる由)できるということで、では現行法施行以前とはいつのことかといえば、1970年(昭和45年)以前だそうです。
 
 次のサイトに、わかりやすく解説されています。
 
 世界探偵小説全集的企画が、あちこちの出版社から出ていたのは、そういう事情だったわけですね。日本が、海外から知識を吸収するための基盤を確保するという発想の下での、条約留保措置だったわけです。
 
 そういう事情はわかったのですが、ベルヌ条約は相互主義のはずですから、海外諸国での日本人の作品の扱いも同様だろうと思います。
 ・・・・ということは、1970年以前に外国語で翻訳出版されなかった日本語の作品は、外国語への翻訳権が消滅しているということになるわけでしょうか??!
 
 ・・・・ということは、日本語の作品で外国語に翻訳出版される事例はきわめて少数でしょうから、当の日本人自身が目に触れることができない日本人の日本語作品が、外国では自由に読むこともできるし、出版することもできる・・・・ということになってこないでしょうか??
 たぶん、そういうことなのでしょう。世界中の作品を日本語で享受できるという大きな役割を果たした制度だということはよくわかりますが、今、孤児作品の問題で悩んでいる関係者からすると、なんとも割り切れない構図ではないかと思います。
 
   外国人は自由に楽しめるけれど、当の日本人は読むことができない・・・・
 
 著作権法というのは、独占権を与えることにより創造意欲を増すという基本思想からは説明できないような、死んでいる著作者の作品も含めての保護期間延長をしたりとか、著作物の種類によって、保護期間が死後基準か公表後基準かがあまり明確な理由なく異なるとか(嘗ての写真の基準など)、どうもよく理解しづらい点がいろいろあって、一筋縄にはいかない法律だなぁ・・・という気が改めてした次第です。 
 
 

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青空文庫の呼びかけ人として広く知られる富田倫生さんが亡くなったとの記事をみて驚くとともに、本当に惜しい方を亡くしたと思いました。まだ61歳と、亡くなるには早すぎるお歳ですが、同文庫が1997年スタートからの短期間にここまで広く浸透するまでになった「偉業」には、敬服するばかりです。
 今では、電子ブックリーダーでは必須のコンテンツとなっていて、様々な形で楽しむことができますし、朗読愛好家の皆さんにとっても、きわめて身近な存在かと思います。
 
 他方、ネットで検索していて、前から感じていたのですが、青空文庫に対する「批判」「非難」がしばしば目に付きます(罵詈雑言的なものもありましたし、全否定のものもありました)。正直、何でこんなことをわざわざ言うのだろう?と理解に苦しむものがありますが、そういった「批判」等に対しても、激高したり嫌気を起こすことなく、改善すべきところが本当にあればその指摘を採り入れるという姿勢を維持し、着実に文庫の充実に努めて来られたその「強靭さ」にも、敬服します。
 
●最近の時点でも、ツイッターで大学の先生と思しき人からの青空文庫否定の書き込みがあり、それに対して富田さんは、具体的に指摘をしてほしいとのコメントと説明を続けていました。「批判」をざっとみると、その趣旨は、
 
①青空文庫は原本に忠実ではない、訓練を受けていない「素人集団・愛好家集団」が断りなく改変しているものがある、改変基準がマニュアルにしか書いていない、電子ブックリーダーの普及で誤ったテキストが拡散するのが気持ち悪いとかいった、原本との対比の観点からの批判
②送りがななどが間違っているというような(おそらく誤解に基づく)批判(漱石の「話し」の「し」の送りなど)
 
 などが目に付きましたが、そういうことを以て、同文庫制作に関わっているボランティアの皆さんを貶めるようなことをなぜ言う必要があるのか、理解できません。

 大学や岩波、新潮などの「出版社の編集者のような訓練を受けた専門家・・・」に委ねるべき・・・というような記述もあったかと思いますが、単行本や文庫本など、出版社から出されている書籍を見ても、かなりの改変がなされていることは、日常的に見受けられることかと思います。現代仮名遣いや送り仮名の類いだけでなく、文章がばっさり抜けていたり、加わっていたりして驚くこともあります。それが、作家がまだ存命で、その意向により推敲が更になされて、第○版から差し替えたということであればまだわかりますが、とっくの昔に作家は亡くなっていて、「第○版」という記載は変わらず、その後の「第○刷」というのが違うだけで、かなり変わっている例もあった覚えがあります。「一体誰が直しているのだろう・・・??」と友人と話した記憶があります。作家が昔に亡くなっている以上、その改変は編集者なり出版社が行ったということでしょうが、それについて、何らかの注記がなされているわけでもありません。
 
 青空文庫は、一定のルールを決めて表記をしているわけですし、仮に細部の「改変」があったとしても、出版社による改変の状況も念頭に入れれば、素人かプロの編集者かというところで分けるのは適切ではないように感じます。どんな作品でも、初出から現時点に至るまで、少しずつ改変されてきているわけでしょうし、その改変を辿ること自体をテーマにした本もあるといいます。現代仮名遣いや当用漢字にすること自体、改変という見方もできます。
 
●また、送りがなや当て字など、作家自身がかなり「いい加減」である場合もあって、天衣無縫にその場その場で漢字の使い方なり送り仮名がかなりが違っているということもあります。その代表例が夏目漱石です。
 青空文庫批判のツイッターでは、漱石の作品を例に取っていたようですが、漱石の弟子の森田草平が漱石全集を編むに当たって、漱石の文字遣い等のバラバラさ加減や当字のいい加減さをどうしたものか・・・とほとほと困ったというエピソードを紹介しています(筑摩書房『夏目漱石』所収の「漱石文法」)。実際、自分で漱石作品を読んでいてもそう実感します。少し抜粋しますと、
 
「(送り仮名については)無方針の出鱈目」
「(正字俗字の使い分けは)先生自身の文字に対する無頓着から来ている
 としか思われない。当字を平気で滅多矢鱈に使っていられる」
「『りょうけん』の当字は、料簡以下3種類、『じょうだん』は笑談以下
 4種類にもなる」

等々、校正を担当する苦労談を述べ、最後に、「最初の期待に反して、極めて統一を欠いたあの通りの全集を拵え上げたのは汗顔の至りである。」と結んでいます。
こういうことになる理由を分析して、「本来先生という人は、人も知る文章の調子に重きを置いた人で、眼で見て書くよりは耳で聴いて文章を作った人である。従って、そういったような無頓着さ加減はかなりあり得べきことといわねばならない。」と述べています。
 
こういう事情を知ると、ツイッター氏が述べる「ちょっと目を疑うような、ふつうならあり得ない、送り仮名フリガナの間違いが多すぎる」「こんな杜撰な不正確なテキストで漱石作品が広まることを、とても悲しく思う」という批判自体、ピントがずれているように感じられます。
 
 電子ブックリーダーの読者は、原本との完全な一致などは求めていませんし、原本に忠実な記録の継承という観点で言えば、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」がその役割を忠実に果たしてくれるようになっています。明治、大正のものまで、写真データをPDF化して公開していますし、出版元が複数あるものも平行して収録しています。漱石全集も複数、ずらりと全文収録されています。青空文庫に示されている底本の底本も、検索で容易にアクセスして確認できるようになりつつあります。これもまた、偉大な国家的文化事業だと思います。
 
 
●青空文庫は、単にそのままのテキストで読めるだけでなく、様々な形に加工できるようになっている、それがフリーに許されているというところに偉大さがあると思います。電子書籍が普及してくると、おそらく、出版社にとっては収益減少の要因になる可能性はあるのかもしれません。アマゾンのサイトで、青空文庫をもとにした無償のキンドル本と、従来の文庫本をそのまま電子書籍化した有償のものとが並んでいるのをみると、そんな気もします。しかし、青空文庫をもとにして、付加価値をつけて商品化もできるわけですし、そういう余地を大きく開いてくれていることや、文芸作品の読者への普及、後世に作品を残すことといった同文庫の存在意義には絶大なものがあります。
 
 ともかく、青空文庫もそうですし、近代デジタルライブラリーもそうですが、それ自体が文芸作品に接する手段の選択肢になりますし、そこからまた様々に派生して新しい選択肢が生まれていきます。二次利用の広がりは膨大なものです。
 選択肢が多様になるということは喜ばしいことであって、否定されるべき要素はないと思います。書籍で言えば、原本を再現したものを読みたいと言う人もいれば、現代仮名遣いで分かりやすく書いてあるものを読みたいと言う人もいます。前者の人がそう思うのはいいのですが、だからといって後者のニーズに応えるものを否定する必要はありません。ましてや貶しめたり罵倒する理由は全くありません。自分は読まない、利用しないというだけのことでしょう。
 朗読も同じで、人によって様々好みが違いますし、朗読に求めているニーズも違います。演劇風のものがいいと思う人もいれば、淡々としたものを好む人もいます。音訳的に意味が取れればいい、それを速く聴きたいという場合もあります。立派なプロの朗読を値段が高くても是非聴きたいと言う人もいれば、プロでなくてもそこそこの値段なり無料で聴きたいという人もいます。また、「プロ」といっても、また個性は千差万別で幅が広く、リスナーの嗜好もまた様々です。
 
 好みとニーズによって求めるものは違ってくるのですから、それぞれに応じた多様な選択肢が用意されるような環境が生まれることは文化的にも好ましいことです。
 その観点からすると、青空文庫を、自らの物差しや価値判断で否定しようとすることや、それに関与している人々を貶めるようなコメントをすることを見聞きするのは、気持ちのいいものではありません(・・・といいつつ、自分でもだいぶ前に、つい、ある朗読CDを素っ気なさすぎるとここで書いたことがありましたが、要反省です・・・苦笑)。

 文芸作品に接するための選択肢を格段に広げてくれた富田さんをはじめとした青空文庫の皆さんに改めて感謝したいと思います。これから、青空文庫にとっても密接な問題である著作権保護期間の延長問題が控えています。また、孤児作品の扱いもまた青空文庫にとっては大きな関心事なのではないでしょうか。富田さんとしても、その検討に最後まで関わることなく、結果を見極めることができずに亡くなられたことは無念だったのではないでしょうか。
引き続きの青空文庫の発展を祈念したいと思います。
 
 
●これだけの酷暑が続くと、朗読される皆さんもへたり気味ではないかと思います。ただ,この数日少し涼しさが感じられるようになりました。秋のシーズンまでもう少しです。
このブログの更新も滞り気味ですが、何かお気づきの点などがあれば、コメント欄にいれておいていただければ幸いです。

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 3月末に「原版権」創設を出版社が国会議員に働きかけている旨の報道がなされていました。以下、読売新聞からの引用です。
 
●出版社に原版権を…業界、法整備目指す
電子書籍時代に対応した著作権や出版権のあり方を検討するため、大手出版社、作家、超党派の国会議員で作る「印刷文化・電子文化の基盤整備に関する勉強会」(座長=中川正春防災相)が、「出版物原版権」という新たな権利の創設を目指すことで合意した。
電子書籍の違法コピーに対し、出版社は訴訟を起こすことができないなどの不備を改め普及を促すことが目的だ。
 
電子書籍は一瞬で大量にコピーすることができるため、いわゆる「海賊版」が横行しやすい。しかし、著作権法が認める出版社の出版権は電子書籍を想定しておらず、違法コピーが出回っても著作権者である作家が自ら訴訟を起こすしかないのが現状だ。
 
新たに創設を目指す「出版物原版権」は、作家の著作権を100%保護したうえで、紙の本や電子書籍という形に加工した「原版」に対する権利を、追加的に出版社に与えるという枠組みをとる。
具体的な中身は、原版を〈1〉複製する複製権〈2〉インターネット上に展開する送信可能化権〈3〉複製物の譲渡によって公衆に提供する譲渡権〈4〉貸与によって公衆に提供する貸与権――などからなる。こうした権利を出版社に与えることで、出版物原版権のない業者がインターネット上に海賊版を出せば、出版社が削除を求める訴訟を起こすことが可能となる。
 
YOMIURI ONLINE
 
電子書籍化が進む中で、海賊版の流通に対して、出版社が直接、訴えるこ
とができるようにするため、ということが理由とのことです。
 それはそれでわからないことはないですが、しかし、報道されている権利内容をみると、その狙いを超えて、ずっと広範なものになっていて、著作権制度や活字文化の根幹に関わる影響を生じるのではないか、という危惧の念を否定できません。
 
 もともと以前、「版面権」の創設について著作権審議会でも検討されたことがありました。しかし、結局見送りになっています。
 
 
      すぐに思いつくのが、次の点です。
 
      著作権者の許諾とは別途、出版社の許諾が必要となり、利用促進が阻害されないか?
      先行する書籍を「底本」として利用する慣行に影響を与えないか?
      青空文庫が事実上維持できなくなるのではないか?
 
 といった諸点です。
 
 漫画家協会が慎重な見解を示しているとのことです。それに関連して、小説等以外の写真、漫画等のコンテンツクリエーターからの反発や批判の声も見られます。
 
      最近あまりフォローしていなかったのですが、文化庁の審議会で、電子書籍の流通に関する検討がされてきて、1月に継続審議になっていたのですね。
 
 出版社への著作隣接権付与は継続審議へ
文化庁が14回にわたって実施してきた「電子書籍の流通と利用の円滑化に関する検討会議」の結果報告が行われた。争点の1つとなっていた出版社への著作隣接権付与については広く意見を聞くべきとして継続審議扱いとなった。
 
 おそらく、上記の審議会での議論の中で様々な問題指摘がされたのでしょうが、最近の書籍の「自炊」による電子書籍化の話をテコにして、過大な権利確保を目的としているように見えないこともありません。
 もともとの問題は、活字によって書籍として作り上げた版面そのものをPDFなり画像なりにして、勝手に電子書籍化されることによって、利用者にフリーライドされてしまうことが問題だったはずです。それを拡張して、単なる版面そのものずばりのコピーだけでなく、その書籍の版面を何らかの形で複写、読み取り等をすることまで、「原版権」の権利のもとに規制されてしまうと、さまざまな大きな障害が生じてくるのではないでしょうか。
 
  著作権が切れた作品であっても、原版権が生じることによって、複製
 利用ができなくなってしまうのではないか? 著作権制度の根幹が揺
 らぐのではないか?
 
文学作品に読者がどのように接することができるかと言えば、書籍の形でしか接することができません。著作権が切れた作品は、それが収録された書籍の一部をコピーすることはごく当たり前になされてきました。最近は、OCR(活字読み取り)も飛躍的に性能が向上していて、一部を読み取ってテキスト化することもさまざまな局面で行われています。青空文庫も、OCRはフル活用していることでしょう。
 ところが、原版権が生じると、本体作品は著作権が切れていても、その複写、読み取りができなくなってしまいます。もともと、著作権が切れた作品は自由に利用できるということは、イコール、その作品が掲載されている書籍、版面は自由に複写利用できるという前提があってこそ成り立つのではないかと思います。
読売新聞の記事では、「複製物の譲渡によって公衆に提供する譲渡権」がありますから、収録されている作品が著作権が切れていても原版権によって複写ができなくなると思われます。例えば本に収録されている古典の詩歌をコピーして、朗読会で配るというような行為もアウトになってしまいます。
 
 著作権がない作品にもかかわらず、出版社の許諾を得なければならなくなり、実質的に「著作権が切れる=自由に利用できる」ことが担保されなくなってしまいます。
 換言すれば、「保護期間経過後は公共財産として自由に利用できる」という著作権制度の根幹が揺らぐということです。
 
 
 青空文庫の制作が立ちゆかなくなる可能性があるのではないか?
 
 青空文庫は、底本を見ながら協力者の方がキーボードを叩きながら一字一字入れていくということもあるのでしょうが、OCRを利用した読み取り(スキャン)でまず最初は対応するということも多いのではないかと思います。
 そういう実態の中で、原版権に基づく複写が許諾が必要となったら、青空文庫の制作作業が滞ってしまいかねません。私的利用ではないことは明らかですから、著作権が切れていたとしても、底本の出版社によってブロックされかねません。
 例としてしばしば挙げて恐縮ですが、宮城道雄の随筆集『心の調べ』が数年前に河出書房新社から発行されました。それを底本にして、青空文庫に各作品が収録されています。しかし、原版権が発生すると、その書籍のページをOCRで複製し読み取るという作業がブロックされてしまいかねません。あるいは、例えば新潮文庫で、藤澤清造の『根津権現裏』という作品が90年ぶりに蘇りましたが、著作権は切れていても、それを底本にして、青空文庫にOCR利用で収録することはできなくなるでしょう。しかし、それらの作品群は、他の書籍、文庫等では一般読者が入手して読むことがまずできませんから、実質的にそれらの作品は、その一部のページであっても、その本を買うか借りるかして読むほか手だてがなくなるという事態になりかねません。
 
 また、青空文庫の作成の仕組み自体にも複雑な影響が出てくるのではないでしょうか。青空文庫の「原版」を作ったのは青空文庫ですが、しかし、実際に作っているのは、「工作員」と呼ばれる協力者の方たちです。そうすると、原版権は誰が持つことになるのでしょうか? ボランティアでやって、全部整えたのに、その利用に関する法的権利は青空文庫が押さえるというのも妙な話でしょう。ちょうど、漫画家協会が問題提起しているような「実際の版面を作っているのは誰なのか?」という主張と同様の問題点です。権利発生がなければ、皆がボランティアで制作・作業するということで済んでいるものを、複雑な権利処理が必要になってくるのではないかと思います。
 
現行の青空文庫は、営利・非営利問わず、無償で自由に利用できるようになっています。その青空文庫をもとにして出版物を作っている例も少なくありません。そうすると、青空文庫から無償で仕入れた電子データで版面を作って書籍化した出版社には、その版面について原版権が発生する、というおかしなことになってしまいますが、それは誰もが納得しがたいところでしょう。自由に利用してもいいが(=原版権は主張しないが)、それを元に作成した書籍原版には原版権を主張してはいけない、という留保をつけるということでしょうか?? 
 
 一般の青空文庫の読者にとっても、ブログやHPその他で青空文庫からコピーして貼り付けるという場合に、何らかの形で青空文庫から許諾を得る行為が法的に必要になってきてしまいます。青空文庫側は、クリエイティブコモンズ的な表示をして包括的な許可を与えるのかもしれませんが、そういう権利の発生は、青空文庫側でも本意ではないでしょう。
 
 
      過去の底本をもとに新しい書籍を出版するという慣行が崩れ、作品の継承が断ち切られるのではないか?
 
 近代の文芸作品の書籍をみると、ほぼ底本がなにかが書かれています。過去の出版物に収録された作品を、新たな形の書籍に収録して、再び世の中の陽の目を見させる,新たな読者に提供する、という連鎖によって、その作品が継承されてきています。
 ところが、その底本の出版社が、原版権に基づいて複写を認めずと主張したらどうなるのでしょうか? その継承のための連鎖が断ち切られてしまいます。
 
 もっと身近なところで言うと、単行本と文庫本の関係です。版面自体はどうしているのかよく知りませんが、単行本の版面を写真製版等によって、そのまま使っている例もあるような気もします。業界慣行としては、文庫本を出す出版社が単行本の出版社になにがしかを支払っているようですが、それはあくまで慣行です。著作権者である作家が文庫本を出したいというのをブロックする手だては単行本出版社には(出版権存続期間は別として)ないでしょうから、それを前提として、業界マナーとして底本となる単行本を制作発行した出版社に謝礼的なものを支払うということかと思います。しかし、原版権ができてしまうと、著作権者の意向に関わりなく、(作家の原稿から一から起こすのでない限り)単行本出版社自身の権利主張ができることになりますから(原版権の中の「複製権」と「譲渡権」)、文庫本の発行もスムーズに行かないケースも出てくるかもしれません。
 持ちつ持たれつの業界慣行が崩れ、ぎすぎすしたものになるおそれはないでしょうか。それも、肝心の著作権者である作家は蚊帳の外でのバトルになる可能性もあります。
 
 こうやってみてくると、出版権が一定期間で切れたとしても、別途の権利である原版権によって、事実上新たな書籍の形で出すことが著作権者にとっても難しくなるという恐れも出てくるのではないでしょうか?
 
                            続く

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