| 私は創価学会学会員の方々にシンパシーを抱いています。時折雑誌などで知る、その社会や人間に注ぐまなざしにも共感するところが多いです。下の記事は2001年(5年前です)5月23日の朝日新聞に載った池田大作創価学会名誉会長の発言です。(13面「私の視点」)池田先生はこんなことを発言しているのに、なぜ今創価学会員は、公明党を支持し、自民党と組んで教育基本法「改正」を推進しようとしているのですか。どこでどう変わったのですか。創価学会員のねねばばさん、せっかく記事を書いてくださったのに訪問が遅れてごめんなさい。遅ればせながら、この記事をもって「対話」の端緒とさせていただきます。 |
「艱難に勝る教育なし」-----ギリシャの箴言と記憶している。
教育は観念ではない。頭脳だけでもない。実践であり正義である。「人格の向上」と「社会の繁栄」と「世界の平和」の源泉こそ、教育の本義であると私は思う。
かつて内村鑑三は、近代日本の教育が”艱難を避ける方法”を授け、才子ばかりをつくっていると嘆いた。本来、教育は”艱難に打ち勝つ力”を育むものでなければならない。
昨今、教育改革が政治日程に上るなか、小泉政権の下でも「教育基本法」の見直しが論議されている。
私自身は、拙速は慎むべきであると考える。基本法の眼目である「人格の完成」など、そこに掲げられた普遍的な理念は、教育の本義に則ったものであり、新しい世紀にも、十分、通用するからだ。
たしかに、基本法がうたう「人格」や「個性」は抽象的だという指摘もある。しかし、憲法に準ずる基本法の性格を考えれば、抽象性ゆえの普遍性は、むしろメリットとして、大いに生かせるのではなかろうか。
第一に、「グローバリゼーション(地球一体化)」は、とどめようのない時流である。そこでは、国益と同時に人類益への目配りが欠かせない。普遍的かつ世界市民的な視野を養うことが、ますます重要になる。
第二に、「教育勅語」に盛られたような具体的な徳目は、基本法の性格になじまないと思う。法文化されれば、必然的に権威主義的な色彩を帯びてしまうからだ。
現代は、あらゆる既成の権威が色あせ、家族という人類最古の共同体までも”ゆらぎ”に直面してい
る。その底流を直視せずに、教訓的な徳目を並べても、復古調の押しつけとして反発されるだけだ。
もとより私は、日本の歴史や伝統文化を軽んずるのではない。逆である。
軍部権力と対決して獄死した、ある卓越した教育者は「慈愛、好意、友誼、親切、真摯、質朴等の高尚なる心情の涵養は、郷里を外にして容易に得ることはできない」と述べた。地域や郷土に根ざした固有の文化や伝統を尊重してこそ、豊かな人格の土台も築かれる。
ただ、そうした心情の涵養、人格の形成は、外からの「押しつけ」ではなく、徹して「内発的」に成されるべきである。
周知のように、基本法は、アメリカのデューイの教育哲学と親近している。デューイも内発的な精神性を重視し、それを引き出すものこそ教育であり、「人間は、教育によって人間となる」と断じた。「内発」こそキーワードでなければなるまい。
私自身、教育を生涯の事業として取り組んできた。すべての子どもの生命にある「伸びゆく力」と「想像力」を開花させるのは、やはり教育の現場、また家庭や地域における、人格と人格の触発以外にない。
目指すべきは「教育のための社会」である。社会のために教育があるのではない。教育のために社会があり、国家がある。発想を大きく転換して、21世紀こそ、子どもたちが「生きる歓び」に輝く世紀としていきたい。
大胆に改革を提唱する小泉純一郎首相も、教育に関する発言は、まだ少ないのではないかという印象を国民は受けている。
未来のために最も重要であり、世界の平和と文化の創造の根本であり、人間が人間として幸福になるための真髄である教育を、ぜひ、忘れないでいただきたい。
| 池田大作先生は、この記事の中ではっきりと教育基本法「改正」に反対しています。徳目教育に反対し、「押しつけ」に反対しています。「教育のために社会があり国家がある」のであって、「社会のために教育があるのではない」としています。ということは、財界ののぞむ格差社会のために学校評価性や教育バウチャー制を導入し、教育に市場原理を導入することに、必然的に反対することになるのではないでしょうか。 |
| 池田先生が冒頭近くで引用している内村鑑三はキリスト者です。「教育」と「人間」についての深い理解をキリスト者と創価学会員は共有しうることをここに見ます。創価学会員は上の池田先生の発言を今どう受け止めるのか、問いたいと思います。 |
転載元: キリスト者として今を生きる
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今さらですが…。
2006/12/31(日) 午前 2:57 [ tec**o_bow ]