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真田幸村と六文銭

六文銭



真田家(幸隆、昌幸、信之、幸村)の家紋

真田幸隆が 武田家に仕え そして豊臣家に仕え 関が原の戦いでは



                               
父 昌幸と幸村は 豊臣家に恩があったので 西軍 石田三成に加勢した

対する 長男 信之は 徳川家と縁があったので 東軍 徳川家康に加勢した 

真田家は その家名を 残す為 あえて 別れて戦ったとも 称される

六文銭 その意味合いは 三途の川の渡し賃が 六文

つまり いつ死んでも 構わないと言う 武士の心得

真田家の家来は 常に六文を携えていたらしい

上杉謙信 織田信長 徳川家康をもっとも 苦しめた真田…

そのおもいは六文銭…

桶狭間の戦い

桶狭間の戦いは 一五六十年六月 愛知県の桶狭間に 進軍してきた

今川義元軍 指揮官は今川義元の息子の今川氏真になっていましたが

父の義元も参戦していました まだ四一歳だったもの 隠居するような歳では

なかった

今川氏は それまでも三河や尾張を攻略しようと幾度も攻撃してきていました

今川の領地は駿河だったので 都のある京都に行こうとすると 必ず尾張を

通らないといけなく だからこの要所を抑えておく必要があったのです

これはのちに 京へ上る 武田信玄公にとっても同じこと

そうして以前から小競り合いを 起こしていた織田氏と今川氏

ところが 今回の義元は本気でした 信長に大した兵力がないことを

見抜いていながら 約四万もの大軍を 引き連れてきたんです それに対し織田軍

プラス 松平元康(徳川家康公)は 約五千に満たないほどの兵士で

これを 迎えなければならなかった 

よく奇襲が信長軍を 勝利させたとされていますが

それも一つの要因です でも本当にそれが信長の勝てた理由なんでしょうか

決戦当日 朝から織田勢の砦を 三つも潰した義元は気を良くし油断していました

そこに地元の信長に反感を持つ民が「どうかがんばってください」と酒や食べ物を

振舞ってきたのです すでに織田軍の なけなしの四千の兵さえ半分に減らして

いた義元は 絶対の勝利を確信して宴を開いたのです  油断です 午後一時

それまで晴れ渡っていた 空から にわかに豪雨が叩きつけてきました

酔っ払いながらも 慌てて避難しようとした義元の背後すぐに 

なんと信長の家臣が居たのです 大将とも 言える位置に 

あった義元の死によって今川軍は総崩れに なってしまったんです

桶狭間の戦いの 織田信長の勝利は 義元が 次々と戦勝をあげ気分を良くし

油断して酒なんか飲んだから

突然雨が 降りだして視界が 悪くなったから気づかれなかったことが

勝利の原因とされていますが その酒宴で 蜂須賀小六という信長の家来が

混ざっており この地を平定して頂ければと 今川義元を安心 安堵させたことと

戦意消失させてしまったこと 信長軍の動きを監視していたはずの 

葛山延貞が 信長の進軍を 報告しなかったのです それは彼が今川の家臣では

なく武田信玄公に 送り込まれた間者だったからです

これが わずかな手勢で 織田信長が勝利した要因とも 考えられています


                                          by 逸脱歴史ヒストリーより 一部引用

剣豪 上泉伊勢守信綱

上泉伊勢守信綱は 上州出身の剣術者 骨格も良く 教養にも長けていて

文武両道の 剣聖とも 呼ばれていた

              
その剣術は 凄まじく 念流 一刀流 陰流の 戦国 三大剣術源流中の 

陰流を学び それを さらに 発展させ

新陰流を生み出した 一刀流では 伊東一刀斎が 鐘卷自斎に 中条流を学び

伊東一刀流を生み出した そして 善鬼と神子上典膳に試合をさせ

その勝った方を後継者として 迎えた 小野善鬼が勝ち 伊藤一刀流は

伝承された 小野善鬼とは のちに徳川幕府 剣術指南役として

小野次郎衛門忠明として 柳生とともに 登用された

上泉伊勢守信綱は 時の将軍 足利義輝公に丸目蔵人左と 共に

一時期 仕えたが 放浪の旅へと向かい 己の剣術に磨きをかけた

上泉伊勢守信綱の新陰流は 活人剣であり 人を斬る為だけのものでは

無かったようです また 武田信玄公からの 仕官の誘いも何度も断わり 

己の武術の研鑽に励んだらしい

弟子には 槍の宝蔵院胤栄 柳生石舟斎宗厳に その印可相伝をおこなった

石舟斎は 柳生宗矩 柳生十兵衛三義の父 祖父でもある そして

柳生新陰流として 江戸時代を 活人剣として その末期まで 伝承された

日本の戦国時代に於ける 大きな 剣の達人です

その 流浪については 歴史のみぞ 知る

川中島の戦い

川中島の戦いは  村上義清の援助の為 上杉謙信公(長尾景虎)が加勢し 

時の甲斐(山梨県)の武田信玄公 (武田晴信)との間で 

現在の 犀川 千曲川を 挟む三角の土地で行われた

その戦いは 約5度に渡りおこなわれている

そのうち 一番の戦いの凄かった時は 第四次合戦です

それは 八幡原の戦いとも称され 武田軍 約2万と 上杉軍 約1万3千との

戦いであった 永禄四年(1561年)9月9日 深い霧 (幕霧)の中で戦われた

先に陣を 妻女山に張った上杉謙信公に対し 武田信玄公は

茶臼山(定かではない)に陣を張り 動かない謙信公に対し 啄木鳥の戦法

(山本勘助)でこれに合い対した 本隊8千を 八幡原に置き 別働隊1万2千を

妻女山へと向かわせた しかし 前日の炊煙のけむりの多さから 武田軍が明日

動くと察知した上杉軍は 明け方早く 千曲川の 雨宮の渡しから

八幡原(川中島)へと移動した そして 深い霧が晴れる頃には 武田軍の直前に

車がかりの陣にて 待ち構えていた 居るはずのない 上杉軍に驚き 武田軍は

鶴翼の陣にてこれを迎え討った

戦利は 午前中は 上杉軍の大勝であったが 妻女山からの別働隊が

川中島に戻ってから 戦局は反転した 武田軍の死者は約4千名 

上杉軍の死者は 約3千名とされている 

よく 武田信玄公と上杉謙信公の一騎打ちなんて 出てくるが これは まゆつば

ものであろうか どちらが勝利したか 

それは 八幡原の 草のみぞ知る




六文銭

 真田家は 武田信玄公の家臣で 
 
 六文銭は 真田家(幸隆、昌幸、信之、幸村)の家紋 旗印
 
 
 
 
 
その意味合いは 川途の川の 渡し賃が六文
つまり いつ死んでも 構わないと言う 武士の心得
真田家の家来は 戦時中 常に六文を 携えていたらしい
上杉謙信 織田信長 徳川家康を もっとも苦しめた
 
もっとも 恐れさせた 真田家
 
そのおもいは六文銭…

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