あ ほ り ず む

どちらさんも毎度!です。

何 か 観 た

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犬が星見た

 
武田百合子さんの『犬が星見た』を読んだのも、ずいぶん昔のこと。

書名に惹かれて買った覚えがある。

いい書名やなぁ思うた。

当然やけど、内容もよかった。


ところで、爺さんや婆さんの通夜の時。

近親の子供が棺の周りを無邪気に走り回り、棺の中の顔に「じいちゃん」、「ばあちゃん」と呼びかけた

りしてた。

・・・ホンマは「ひいじいちゃん」、「ひいばあちゃん」やけど。

それが何よりだった。

やっぱり、そうでないとアカン思うた。


明日や明後日のことなんかどうでもいい。

単純で清潔に「今」を生きたいなぁと思うだけのこと。


佐野洋子さんの『神も仏もありませぬ』の中にも、好きな一文がある。

こんなの。


   青い空に白い雲が流れて行くのを見ると、子供の時と同じに世界は私と共にある。

   六十であろうと四歳であろうと「私」が空を見ているだけである。
   
                     ― 佐野洋子『神も仏もありませね』より



小川雅章という方の『ロンサムドーロ』という絵の犬もええなぁ。

この空は、間違いなく私が育ったオオサカの空やし。




そんだけ。

笠原和夫

   
深作欣二の「仁義なき戦い」や山下耕作「総長賭博」の脚本を書いたのが笠原和夫。

その遺作集に『映画はやくざなり』(新潮社)がある。

笠原和夫は2002年12月12日、肺炎で亡くなっている。76歳だった。


「仁義なき戦い」で一貫して描かれていたもの。

それは、戦いには完全な悪も善も存在しないという事であり、この世界は「対立」などという単純な図式

で割り切れるものではないという事だ。

まあ、普通に生きていると、そんなことは理解できるのだが、組織とか思想とか宗教なんてものに絡め取

られると、それがわからなくなる人も多いのかも知らん。


「仁義なき戦い」は朝日新聞の映画評で絶賛された。ヤクザ映画が全国紙で取り上げられることも初めて

のことだったそうだ。

「総長賭博」は今でこそ評価は高いが、公開時は全くといっていい状態だった。公開されてから一年以上

過ぎた頃、雑誌『映画批評』で三島由紀夫が絶賛してから注目された。


「仁義なき戦い」のヒットで続編が作られていく。

ただ、二作目の『仁義なき戦い−広島死闘編』だけは他のシリーズと違っている。

「第一部がスクランブルみたいな荒っぽい群像劇だったので、これに満足しない東映固有のお客さんもい

るだろうと自分なりの判断もあった。そういう任侠映画以来のファン層に向けて、主人公の心情に突っ込

んだ情念の芝居を作ってやろうと思った。」と笠原和夫は書いている。


第二部『広島死闘編』は、山上光治という24歳で自殺する殺し屋に焦点を絞って作られた映画となる。

山上光治を演じたのが、北大路欣也。北大路欣也というと、この映画を思い出す。すごかったです。

この山上光治を、深作欣二は「戦後の繁栄から取り残された階級」と捉えたが、笠原和夫は「戦争に行き

遅れた軍国少年」として描こうとしていたと書いている。

深作は昭和5年、笠原は2年生まれ。敗戦の年の15歳と18歳の差はこんなにもあるのかっと思った。


ところで、笠原和夫は黒澤明のことも書いている。

「私は黒澤明監督を尊敬すること人後に落ちないが、「七人の侍」は見せ方が巧いだけで、それほど凄い

映画だとは思っていない。どうして七人は善人ばかりで、野武士の方は悪人ばかりなのか。ある種の画一

主義というか、あまり細かくナマの人間を追ってくれない。あれでは勧善懲悪の時代劇と変わらず、本当

の意味での集団劇、群像劇とは言えない。」


私も『七人の侍』は面白いだけ(それは凄いことだが)の映画だと思っていたのでなるほどと思った。

ちなみに、笠原の黒澤映画いちばんは『素晴らしき日曜日』。

私は、これ書いてて浮かんだのが『酔いどれ天使』と『野良犬』です。


そんだけ。
    お小夜ちゃん
  
    この娑婆にぁ、悲しいこと、辛えことがたくさんある
  
    だがな、忘れるこった。
  
    忘れて日が暮れりゃ、あしたになる・・・・。
  
    あぁ、あしたも天気だ。

先週(2/7)のKBS京都「中島貞夫の邦画指定席」は『二人の用心棒』。

いつも通り何となく観てたら途中で気がついた。

あれぇ?これ『関の弥太っぺ』やんけ。

長谷川伸原作の『関の弥太っぺ』。

原作を読んだけど、原作をはるかに凌ぐのが山下耕作監督で中村錦之助主演の『関の弥太っぺ』。

東映、1963年の作品。

『二人の用心棒』は、大映、1968年の作品で監督は三隅研次。関の弥太郎は本郷功次郎。

あと、長谷川一夫主演の大映、1959年もテレビで観た。


やっぱり、山下耕作の『関の弥太っぺ』だけが突出してる。

ちょっと、山下耕作の作品をWikipediaで見たらこんな具合に書いてた。

「『関の弥太ッぺ』(せきのやたっぺ)は1963年、東映配給網により劇場公開された股旅映画。主演中村

錦之助。監督山下耕作。製作東映。シネマスコープ。89分。長谷川伸の同名戯曲を脚色。

叶えられぬ夢を抱えて生きる哀しみを独自のリリシズムで描く。ラストシーン、木槿(むくげ。花言葉は

信念)の花の咲く垣根越しの男女のカットは日本映画最高のワンシーンとされる。」(Wikipediaより)

そうそう、最後の方のシーンや。


「ラスト、飯岡衆は約束の場所で弥太郎を待つ。「来ました」「森介は一緒か?」「弥太郎一人です」。

行き止まりの道を歩いてくる弥太郎。笑っている。カメラは背中に廻る。背中が小さく、小さくなる。傘

をポーンと投げる弥太郎。弥太郎の運命を暗示するかのように彼岸花(死人花とも呼ぶ)が咲いている。

遠くで鐘がなっている・・・。」(同じく、Wikipediaより)

そうそう、これもええ場面や。


何しろ、10回くらい観てます。

ただ、このWikipediaの記事肝心な部分が違っている。弥太郎のお小夜に対して台詞のことだ。

弥太郎の台詞。Wikipediaではこう書かれている。

「・・・この娑婆には辛い事、悲しい事がたくさんある。忘れるこった。忘れて明日になれば・・・。

(空を見上げて)ああ、明日は晴れだなぁ」

そして、この台詞を話す場面が二度あり、二度とも同じ台詞を話しているとしている。


それは違う。


最後の場面で、弥太郎は「明日は晴れだなぁ」とは言わない、言えるわけがない。

せっかくの記事が台なしになっているように思ったのだ。


●冒頭の台詞は私が記憶している弥太郎の台詞です。二度目には「明日も天気だ」とは言わないです。

●前に私が書いた『関の弥太ッぺ』の記事です→http://blogs.yahoo.co.jp/tei_zin/8532065.html

●Wikipedia/山下耕作/『関の弥太っぺ』
 →http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%81%AE%E5%BC%A5%E5%A4%AA%E3%81%A3%E3%81%BA


そんなんです。

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菅原文太と川地民夫の『まむしの兄弟』の話から、川地民夫がええなぁと書いたりしました。

川地民夫で、いちばん印象に残っているものがこれです。

『野獣の青春』。

監督は鈴木清順で、調べたら1963年の封切りとなってました。

私はどっかの場末の映画館のオールナイトか何かで観たように覚えてます。


この映画で、川地民夫は普段は女のような優男だけど、母親がパンパンであることから、パンパンという

言葉に異常に反応します。

この言葉を吐いた相手は、その顔をカミソリでスダレのようにされてしまうという不気味なやくざを演じ

てました。

渡辺美佐子の役どころはその川地の仲間ですが、会話の中でふと「パンパン」と言ってしまいます。

鈴木清順らしく、そこからカメラは唐突になんの関係もない場面に切り替え、渡辺の悲鳴だけが音として

入ります。この川地の不気味さは凄かったので深く印象に残っています。


その川地民夫も出演していたのが『河内カルメン』です。1966年の作品です。

主演は野川由美子。

  今日はきょうとて京都のおんな

  明日はあるのか飛鳥のおんな

  何はともあれ浪花のおんな

  兵庫はないんかい〜って突っこまんで下さい。

大阪の女を主人公にした映画もたくさんあるのでしょうが、この映画の野川由美子の口から飛び出す荒っ

ぽい河内弁が特に気に入っております。

映画自体もスピード感いっぱいです。欲にかられた男たちと渡り合いながら生きる河内女の姿です。

最後は、虚無の果てに復讐ヒロインとなったりします。


よく考えたら、これも鈴木清順監督でした。

私は、鈴木清順の作品は『ツィゴイネルワイゼン』なんかよりも、日活時代のB級アクションと呼ばれて

た頃の作品のほうが好きです。

『けんかえれじい』がいちばん好きだったりします。

「流れ者に女はいらねえ」の名台詞は、渡哲也主演の『東京流れ者』での台詞です。


そんなんです。

ついでに。

『河内カルメン』や『悪名−八尾の朝吉』、『こつまなんきん』なんかの映画の原作は今東光です。

ずいぶんと八尾の知名度に貢献しているのですが、地元からは八尾の悪いイメージを有名にしたとされ

て、あまり好かれてないと聞いたことがあります。八尾市では何度か彼の彫像の計画があったそうですが

が、そんな理由で住民の同意を得られず成立していないそうです。


あらためて、そんなんです。

ブギウギと黒澤映画

昨日、『羅生門』をテレビでやってたけど細切れにしか観れなかった。

オトンが角淳一病になってしまったのだ。

「私は角淳一です。あなたはどなたでしょうか?」

これをしつこく繰り返したのだ。もちろん自分のことを角淳一とは言えへんけども。

え〜と、角淳一はこんな人です→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E6%B7%B3%E4%B8%80

『羅生門』ちゃんと観れなくて、ちょっと残念だった。


ほんでも、黒澤映画ってやっぱりモノクロのイメージが強い。好きな黒澤映画をみんなに聞いてもたぶん

モノクロに集中すると思う。

私はカラーでは『デルス・ウザーラ』がええなあ思うたけど。

やっぱり、カラーの頃には「巨匠」のイメージが出来上がってしもうて、観るほうも意識しすぎなとこも

あったんやろか?といらん事考えたりもする。


検索してみたら『羅生門』の次の監督作品が『白痴』になってた。

iyhs0114さん(ブログ名は遠い蒼空)も認める男前、森雅之が主演だ。森雅之の父は小説家の有島武郎だ

ったりする。

じつは『白痴』をもう一回観たいと思うてる。

黒澤がドストをどう解釈してたのか?改めて知りたかったりする。


で、いつものように話は飛ぶけど(もう十分飛んでるけど)、ドストエフスキーの『白痴』のことだ。

辻潤はヘルマン・ヘッセの『白痴は予言する』を訳している。

これはもちろん、ドストの『白痴』についてにヘッセが書いたものだ。

この訳の終わりに、辻潤はこんなことを書いている。

  ムイシュキンは、まことに「白痴」でもあろう。しかも立派な「超人」でもある。この「超人」

  は、ニイチェ風な鬼面人を威嚇するというところがなく、温顔で、春風胎動として、当人も、

  至極楽々としているのである。しかし、英雄や、天才や、なにか「権力意志」といったものの好

  きな人達は、恐らく、かくの如き人物では満足できないであろう。

ヘッセ自身は『白痴は予言する』でこんな事を書いている。
 
  人間の教養を土台としてみた最高の現実は世界を光と闇に、善と悪に、また許されたる物と禁ぜ

  られたる物とに分かつことである。ムイシュキンにとっての最高の現実は一切の制度をてんぷく

  し、一切の道徳的価値と等しい存在を経験することである。結局、白痴は無意識界の母権を誘導

  し、文明を粉微塵に粉砕する人間である。彼は律法の掟を破るものではなく、単にそれを裏返し

  て、その反対も等しく記されていることを人々に示すばかりである。


えらい話が飛んでしもうた。

ブギウギと黒澤の話やった。

黒澤の『酔いどれ天使』で笠置シズ子の『ジャングル・ブギ』が出てくるけど、『野良犬』でも『東京ブ

ギウギ』が流れたり、『生きる』でもピアニストがキャバレーのような所でブギウギを演奏する場面があ

ったりする。

ほんでも、どうも黒澤の中ではブギウギとか大衆音楽的なものは堕落、退廃、軽薄、全部まとめて低俗の

音として扱われている気がするのだ。

何でかと言うと、上の三つの作品で、大衆音楽は演奏者がいたりする現実の演奏として流れているのだけ

ども、それに対して、クラッシックみたいなものは、あくまでバックの音として場面に関係なく流された

りしているからだ。

前から気になっていたのやけども、少し前に読んだ『戦後日本のジャズ文化』でマイク・モラスキーとい

う人も書いてたので、やっぱりと思うたりした。


今日も話があちゃこちゃしました。すんませんです。

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