世界恐慌
1929年10月29日、アメリカで「暗黒の木曜日」とよばれる株価大暴落が起こり、それが引き金となって世界中に恐るべき不況の嵐が吹き荒れることになった。日本経済も大打撃を受け、大量の失業者が街にあふれた。
しかし、この世界恐慌に影響を受けなかった国がある。社会主義国家、ソ連である。ソ連では五か年計画が推進され、農業や重工業が発展し、国民の生活水準も上昇しているかのようにみえた。
イギリスやフランスでは、本国と植民地間の関税を下げて物資を流通させ自給自足経済を営む一方、外国商品には高い保護関税障壁を設けて排除する経済ブロックを採用する。しかしそれは、ますます国際市場を狭め、有力な植民地や市場、物資自給力を持たない新興資本主義国を苦境に追い込んだ。アメリカでは、1933年に大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトが、資本主義自由経済の欠陥を補正するため、これに社会主義的要素を取り入れ、強力な国家統制を実現しようとするニューディール政策によってこの難局を乗り切ろうとした。第一次大戦に敗れ、巨額の賠償金を背負わされたドイツでは、世界恐慌が致命的な打撃となり、アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党が第一党に躍り出て、1933年、ヒトラーは首相となり政権を握った。
満州事変
日露戦争の勝利によって、日本が南満州における権益をロシアから譲り受けると、そこに産業を興し、関東軍によって治安が確保されたため、満州には支那の内乱の惨禍は及ばず、著しく発展した。共産主義の拡大に対する防波堤として、満州は日本にとって重要な地であったが、世界恐慌の嵐が吹き荒れると、まさに満州は日本の生命線となった。しかし、国民政府は日本を含めた各国との不平等条約の無効を一方的に通告できるとする革命外交を掲げ、満州においても共産党による工作が進められ、排日運動を呼びかけ、暴動や襲撃、鉄道の妨害が繰り返された。満州権益が脅かされ、居留民が危険に晒されているなかで、日本政府は協調外交で解決を図るが、排日、侮日運動はいよいよ激しくなっていき、国民は「軟弱外交」と強く批判した。1931(昭和6)年6月、参謀本部の中村震太郎大尉が支那側に殺害される事件が起き、事態はいよいよ緊迫した。
1931(昭和6)年9月18日、奉天郊外の柳条湖で、南満州鉄道が爆破された。関東軍はこれを支那側の仕業として、ただちに沿線都市を占領した。しかし実際は、関東軍が独断で自ら爆破したものであった。政府や軍部中央は不拡大方針を取ったが、関東軍は全満州を占領した。
1932(昭和7)年、清の最後の皇帝であった溥儀を執政とし、満州国建国が宣言された。国際連盟は満州にリットン調査団を派遣し、その報告書に基づき、日本軍の撤収と満州の国際管理を勧告する。日本はこれを拒否し、満州国の独立を承認、1933(昭和8)年、国際連盟を脱退した。脱退を宣言して帰国した松岡洋右全権を、国民は熱狂的に歓迎し、新聞は褒め称えたのであった。
満州国は五族協和、つまり、漢族、満族、蒙族、及び日本、朝鮮の、多民族による共存共栄を理念とし、日本の支援のもと、きわめて短期間に目覚ましい発展を遂げ、人口は急激な勢いで増加した。
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