西安事件
支那では、国民党の蒋介石と共産党の毛沢東の内戦状態が続いていた。蒋介石は共産党の討伐を優先し攻勢をかける。追い詰められた共産党は、蒋介石を「売国奴」「日寇の手先」と罵り、対立を超越して抗日救国のために戦わねばならぬと訴えた。これに対して蒋介石は、これは共産党が党勢を挽回するための策謀であることを指摘し警告するが、反日組織が続々と生まれ、抗日運動は勢いを増していった。
1936年、蒋介石が西安において逮捕監禁される事件が起こった。蒋介石は釈放されるが、この事件を契機に共産党は息を吹き返すことになる。
廬溝橋事件
1937(昭和12)年7月7日夜、北京郊外の廬溝橋で、演習を終えた日本軍に対し、突如数発の銃弾が何者かにより発砲された。日本側は不拡大方針に基づき、廬溝橋上の国民党軍へ軍使を派遣することにした。ところが、翌朝早朝、日本軍に向け、再び猛射が浴びせられた。ついに、日本軍は反撃し、国民党軍と戦闘を開始した。
この廬溝橋事件が支那事変の発端である。では、廬溝橋事件の発端である銃弾は、誰によって日本軍に向け発砲されたのか。コミンテルンの指令により、日本軍と国民党軍の衝突を意図的に作り出すことを目的とした、国民党軍に潜り込んだ共産党員による策謀だったのである。
あくまで不拡大方針を取る日本側は、事件発生から4日後に現地で協定を結ぶが、支那側はそれを破り、騙し討ちを繰り返した。
通州事件
廬溝橋事件発生から3週間後の1937(昭和12)年7月29日、北京の東方の通州で支那の保安隊による大規模な日本人虐殺事件が発生した。
保安隊は日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、残虐の限りを尽くした。陰部を刃物でえぐられた者、目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のような男性、胸部の骨が露出し内臓が散乱する男性、鼻に針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦、強姦後射殺され陰部に箒を押し込まれた女性、口中に砂をつめられた者、この事件でおよそ260名もの日本守備隊、日本人居留民が殺害された。
上海事変
日本側はなおも和平工作を続けるが、1937(昭和12)年8月9日、上海で大山勇夫海軍中尉らが機関銃で射殺され、青竜刀で頭を真二つに割られ虐殺される事件が起こった。さらに、1937(昭和12)年8月14日、蒋介石は上海を爆撃した。爆撃は市街地にも及び、日本人のほか多数の欧米人が犠牲となった。蒋介石はあえて欧米人に犠牲者を出すことによって、対日批判を引き出そうとしたのだ。
1937(昭和12)年8月15日、日本政府は陸軍の派兵を決定。その任務は日本人を保護するため、上海を占領するというものであった。
南京攻略
日本軍は苦戦の末、1937(昭和12)年11月9日、上海全域を占領した。日本側は事態収拾を図るため、国民政府の首都南京を攻略し、蒋介石に降伏勧告を行うことを決定した。1937(昭和12)年12月10日、南京攻略は開始されるが、蒋介石は首都を重慶に移すことを決め、部下や市民らを見捨て、すでに南京を脱出した後であった。
南京攻略に先立ち日本軍では、外国の首都に入城するに際して間違いがあってはならぬと訓令が出され、徹底がなされていた。ところが、南京から逃れようとする国民党軍は、市民に対する略奪や暴行、放火などを行い、軍服を捨てて一般市民を装い背後から攻撃するなどの蛮行を行った。
南京の完全占領は1937(昭和12)年12月13日、その4日後に入城式が行われた。
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人間というのは、どこまでも残酷になりうるもんだよね・・・。 戦争ではかなり異常な精神状態じゃないと作戦を遂行できないね。
2005/5/4(水) 午前 3:03 [ - ]
この記事は“日本の歴史”ですので、所謂「南京大虐殺」には触れませんでした。“日本の戦後”として、後日、取り上げたいと考えております。
2005/5/4(水) 午後 7:21 [ teikokubungaku ]