東亜新秩序
上海事変勃発後も日本は国民政府との和平工作を続けた。トラウトマン駐支ドイツ大使を通じて、蒋介石へ和平提案を伝えるが、交渉は進まず、蒋介石から誠意ある回答は得られなかった。日本はトラウトマン工作の打ち切りを決断し、「爾後国民政府を対手とせず」との声明を出すに至った。
1938(昭和13)年11月、戦火が支那全土に拡大し、解決の目処が立たぬなか、近衛文麿首相は、のちの大東亜共栄圏構想の出発点ともいえる、東亜新秩序の建設を謳った声明を出す。日本、満州、支那の提携により東亜に経済統合を実現する構想を掲げ、先の声明を修正し国民政府に対し新秩序建設への参加を呼びかけ、事態の好転を期待したのだった。国民党の重鎮であった汪兆銘は、これに呼応し重慶を脱出、和平による救国への道を模索し、1940(昭和15)年3月、南京国民政府を樹立した。
ノモンハン事件
レーニンの死後、ソ連の実権を握ったスターリンは秘密警察と強制収容所を用いて反対勢力を弾圧、処刑し、独裁体制を築き上げていった。また、ロシア革命以降、ソ連では異常なまでに軍事力が増強されていた。
国家の健全な思想と体制を破壊する共産主義の膨張に、日本は警戒をさらに強めることになる。1936(昭和11)年、コミンテルンによる共産主義的破壊活動に対する防衛を目的とした、日独防共協定が調印された。
1938(昭和13)年7月、ソ連が突如、満州国との国境にある張鼓峰を越境し、満州国側に陣地を構築する事件が起きた。日本側は外交交渉による解決を試みるが、ソ連は圧倒的な火力により攻撃を繰り返した。その後、停戦協定が結ばれ日本軍は撤退するが、ソ連軍は協定を破って越境、鉄条網を張り、陣地を構築したのだった。
1939(昭和14)年5月には、満州と外蒙古の国境においてノモンハン事件が起き、関東軍とソ蒙軍との間で戦闘が行われ、多数の犠牲者を出した。
援蒋ルート
満州事変から支那事変にかけて、支那大陸への関心を高め、門戸開放を唱えるアメリカとの関係は緊迫の様相を呈し始めた。
1938(昭和13)年11月の東亜新秩序を謳った近衛声明が出されると、アメリカはこれに強く反発した。各国が関税障壁を設け、排他的経済ブロックを確立していくなかで、日本が自存の道を確保するためにも、日満支の自給自足経済ブロックという構想は必然的であったといえる。
1939(昭和14)年、アメリカは突如、日米通商航海条約の廃棄を一方的に通告する。日本にとっては重大な衝撃であった。
南京から重慶へ逃れた蒋介石に対し、米英仏ソなどは、仏印やビルマ、支那西北方から重慶に通じる「援蒋ルート」によって、莫大な軍事経済援助を行っていた。この援助が続けられる限り、支那事変が長期化し、解決されないことは明白であり、この援助こそが日本を泥沼に引きずり込んだのである。
日独伊三国同盟
1939(昭和14)年8月、ドイツはソ連と不可侵条約を締結。その翌月、ドイツはポーランドに電撃的に侵攻し、第二次大戦は幕を開けた。
援蒋ルートのうち最大の輸送量を占めるのは仏印ルートであった。日本はフランス政府に援蒋行為の禁止を申し入れるが、フランスは様々な口実で、これを受け入れようとはしなかった。しかし、1940(昭和15)年6月、フランスがドイツに降伏すると、仏印ルートによる援蒋物資の輸送を停止し、日本監視団の派遣も承諾した。ところが、アメリカはこれを不服とし、対日輸出禁止の強化を図った。
支那事変は解決の糸口が見つからず、日米関係は悪化の一途を辿っていた。これを打開し、支那事変の解決とアメリカとの軍事衝突を回避する一縷の望みとして、1940(昭和15)年9月、日独伊三国同盟の締結に踏み切ることになる。この同盟を推進した松岡洋右外相は、さらにソ連と結んで、アメリカの態度を軟化させる狙いであった。
三国同盟締結、さらには1940(昭和15)年11月に、日本が汪兆銘の南京国民政府を承認すると、米英の援蒋活動は露骨なまでに強化された。