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日本とは、日本人とは

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自民党の武部勤、公明党の冬柴鉄三両幹事長は6日午前、韓国の盧武鉉大統領とソウルの青瓦台で会談した。
盧大統領は、竹島や歴史教科書問題をめぐり「これまでの反省や謝罪を無効にするような日本政府、政治家、政界を主導する勢力がある」と厳しく批判した。また、小泉首相のアジア・アフリカ会議での演説を評価するとしながらも、「韓国政府と国民が望んでいるのは、新たな謝罪ではなく、過去の謝罪に見合った実践を求めている」と強調した。

日本はいつから韓国に評価してもらわなければならない立場になったんだ。
「謝罪に見合った実践」とはお金のこと? もう、充分にあげたじゃないの。
ABCD包囲陣
1941(昭和16)年4月、日ソ中立条約の調印を終えて帰国の途にあった松岡洋右外相の胸中には壮大な和平構想が描かれていた。日独伊の同盟とソ連との条約、これによってアメリカとの交渉が有利に進み、支那事変が解決され、日米関係が改善されるのではないか。ところが、1941(昭和16)年6月、ドイツがソ連に侵攻。独ソ戦が始まり、松岡の構想は破綻するのだった。
日米通商航海条約失効以降、アメリカの経済圧迫が強まるなか、日本は重要資源確保のため蘭印との交渉を行っていた。しかし、米英の妨害により決裂。日本は窮地に立たされるのであった。そこで日本はフランスと外交交渉を行い、1941(昭和16)年7月、南部仏印へ進駐を開始した。仏印は重慶と米英蘭による対日包囲陣の重要地域であり、また、ゴム、錫などの産地でもあって、いつ米英側から仏印進駐が行われるかもしれず、日本はこれに対して自衛措置を講ずる必要があった。これに対し米英蘭は日本資産の凍結、対日石油輸出の全面禁止といった報復に出たのであった。これにより米英支蘭によるABCD包囲陣は一段と強化され、日米関係は重大局面を迎えることとなった。
大西洋会談
日米関係の危機的状況を打開するため、近衛文麿首相はフランクリン・ルーズベルト大統領との会談を決意した。日米首脳会談の提案がアメリカへ伝達された頃、ルーズベルトはイギリスのチャーチル首相と大西洋上で会談を行っていた。
ドイツ軍の攻勢に対し苦戦を強いられていたイギリスは、アメリカを第二次大戦に参戦させることによって局面を打開しようと考えていた。しかし、ルーズベルトは国民に参戦しないことを公約として大統領に当選しており、アメリカの世論も参戦には反対であった。そこでルーズベルトとチャーチルは、日本を追い込み、日本からアメリカに戦争を仕掛けるように仕向けることによって、日米戦争を引き起こし、日本の同盟国であるドイツにアメリカが宣戦布告するというシナリオを話し合っていたのである。
アメリカは日米首脳会談実現の引き延ばしを始めた。
明治天皇の御製
1941(昭和16)年9月6日、御前会議において、石油貯蔵量からして戦機はすでに秒読みであり、10月上旬までに交渉がまとまらない場合、開戦を決意するとの方針が決定された。

よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ

昭和天皇は、明治天皇の御製を繰り返し詠まれ、平和を強く願われる御意志を示された。
1941(昭和16)年10月2日、アメリカのハル国務長官より非妥協的と取れる覚書が送りつけられ、日米首脳会談が実現せぬことが明白となった。和戦いずれかに決定すべきか日本政府は懊悩し、行き詰まった近衛内閣は、1941(昭和16)年10月16日、総辞職したのであった。
白紙還元の御諚
後継内閣組閣の大命は東條英機陸相に降下した。大命とともに、木戸内府を通じて、「9月6日の御前会議決定にとらわれることなく、内外の情勢を更に広く深く検討し、慎重なる考究を加ふることを要す」とのお言葉が東條に伝えられた。
東條は陸軍を掌握しており、海軍が開戦に反対なら戦争はできぬという考えを持ち、また、勅命を厳格に遵守するという理由から後継首相に推されたのであった。東條新内閣発足後、基本方針が再検討されることになった。こうして、交渉案として最後的譲歩案である甲案と、甲案不成立の場合の暫定協定案である乙案が決定し、外交交渉の期限を12月1日にすることにした。
ハル・ノート
1941(昭和16)年11月7日、野村駐米大使はハル国務長官と会見し、甲案を提出した。ところが、アメリカは日本の外交電報を傍受し暗号解読しており、甲案、乙案の内容もすでに交渉前に把握されていたのだった。ハルは甲案に大した関心を示さず、交渉は不調に終わる。1941(昭和16)年11月20日、野村と、野村に協力させる目的で派遣された来栖前駐独大使が乙案を提出。しかし、ハルは交渉に応じようとはしなかった。翌日、来栖はハルと会見し、三国同盟をほとんど死文化するまでに譲歩したが、ハルはこれにも応じなかった。
1941(昭和16)年11月26日、ハルは野村、来栖に対し、一切の妥協も譲歩も含まれていない強硬案、所謂「ハル・ノート」を提示した。ハル・ノートは、それまでの交渉経緯と一致点をすべて無視し、日本の長年の犠牲による結果をすべて放棄するばかりか、国際的地位を棄てることを求めるに等しいものであった。
1941(昭和16)年12月1日、御前会議が開かれ、ついに開戦が決定された。


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