九人の乙女
日本がポツダム宣言を受諾した後もソ連は南樺太、千島列島を侵攻し続け、1945(昭和20)年8月28日から9月5日にかけて北方4島を占領した。ソ連軍は婦女子に対しても容赦なく発砲し、民間人に多数の犠牲者を出した。
1945(昭和20)年8月20日、樺太の真岡郵便局に勤務する9人の女性電話交換手は、ソ連軍が近づく恐怖の中、使命感により最後まで職務を全うし、「皆さん、これが最後です。さよなら、さよなら」の言葉を残して、青酸カリにより自決した。
また、ソ連が中立条約を破って満州などに侵攻したことにより生じた日本人捕虜はシベリアに抑留され、過酷な環境下で強制労働に従事させられた。
真相はかうだ
1945(昭和20)年8月末、アメリカ軍を主体とする連合国軍の進駐が始まり、日本の占領が始まった。
ポツダム宣言は「日本軍」の無条件降伏を確保するため「日本政府」に降伏条件を提示した文書であり、日本政府の無条件降伏を意味するものではなかったが、1945(昭和20)年9月2日、戦艦ミズーリ艦上で停戦協定にあたる降伏文書への調印がなされると、アメリカは態度を急変させる。占領統治は、日本がアメリカの脅威とならないような無力な国にすることを目的とし、マッカーサー司令官率いる連合国軍総司令部、即ちGHQの指令を日本政府が実行するという形で行われた。
GHQは1945(昭和20)年9月から占領終了までのおよそ7年間、言論の検閲を行った。国民に検閲が行われていることを認識させぬように検閲制度への言及を厳禁し、周到、巧妙に検閲は行われた。
GHQは日本人に戦争贖罪意識を植え付けることを目的に、1945(昭和20)年12月より、新聞各紙に「太平洋戦争史」の掲載を始めさせ、ラジオ番組「真相はかうだ」の放送を開始させた。日本軍がいかに残虐非道であったかを、歪曲、誇張し、悪の帝国主義が正義の民主主義に屈したという観念を植え付け、日本が国家として無条件降伏したものと信じ込ませようとした。検閲により言論を封じ込め反論できなくした上で、自らに都合の良い「真相」を徹底的に宣伝する、まさに洗脳政策であった。
日本国憲法
GHQは憲法の改正を求め、自ら1週間で憲法草案を作成した後、日本政府に受け入れるよう厳しく迫った。日本政府は英語原案を翻訳し、修正を加え、政府案として議会で審議し、1946(昭和21)年11月3日に日本国憲法として公布され、1947(昭和22)年5月3日より施行された。また、1947(昭和22)年3月には、教育勅語に代わる教育基本法が公布され、日本人の価値観は大きく歪められることになった。
極東国際軍事裁判
1946(昭和21)年5月から極東国際軍事裁判所を開廷し、日本の戦時指導者を「平和に対する罪」「人道に対する罪」などを犯した戦争犯罪者であるとして裁判にかけた。この極東国際軍事裁判、通称東京裁判は、戦勝国が敗戦国のみを対象に一方的に裁き、証人に偽証罪を問わず、伝聞による資料も採用され、罪刑法定主義、法の不遡及の原則からも、裁判の名に値しない不公正なものであった。
起訴は昭和天皇の誕生日である1946(昭和21)年4月29日、東條英機以下7人の絞首刑執行は当時皇太子であった明仁親王の誕生日である1948(昭和23)年12月23日に行われた。
サンフランシスコ講和条約
大東亜戦争、第二次大戦は、共産主義の台頭を招くこととなった。世界はアメリカの率いる自由陣営とソ連の率いる共産圏が勢力を争う冷戦の時代に突入する。
支那では内戦が再開され、共産党に破れた蒋介石と国民党は台湾に逃れた。朝鮮では南北に米ソの後押しを背景にそれぞれ政権が誕生した。
大東亜戦争の結果、列強の植民地となっていたアジア諸国などでは独立の気運が高まり、次々と独立を勝ち取った。
共産主義の台頭、1950年に勃発した朝鮮戦争をきっかけにアメリカの占領政策は転換する。1951年(昭和26)年9月、サンフランシスコで講和会議が開かれ、日本はアメリカを中心に自由陣営など48か国と、サンフランシスコ講和条約を結んだ。さらにアメリカと日米安全保障条約を結んだ。
1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効、これにより日本は主権を回復した。