タイムリミットは48時間
1985(昭和60)年3月17日、イランイラク戦争が激化する中、イラクのフセイン大統領は、「3月19日午後8時をもってイラン上空を飛行するすべての航空機を撃ち落とす」との衝撃的な声明を発表した。
イランの首都テヘランには300名ほどの日本人が在住していた。タイムリミットは48時間。テヘラン空港はイランを脱出しようとする人で溢れかえっていた。各国航空会社は自国民を優先し、日本人ははじき出されてしまう格好となった。当時の日本には政府専用機もなく、民間機も安全が保証されていないとして、日本からの救援機派遣は断念せざるを得ない状況であった。テヘラン市内では空襲が激しさを増し、孤立した日本人たちの不安は最高潮に達していた。
エルトゥールル号の遭難
1890(明治23)年9月16日夜、オスマン帝国、現在のトルコから親善のため日本を訪れていたエルトゥールル号は、帰路台風に遭い、和歌山県樫野崎灯台沖に連なる岩礁に激突し、機関部の浸水により爆発、沈没した。
荒れ狂う海に投げ出された乗組員の一人が崖をよじ登り灯台に辿り着いた。灯台守は村人たちに事故を知らせ、村人たち総出で生存者を必至に救助し、献身的に介抱を行った。死者、行方不明者587名の大惨事で、69名の乗組員が救出された。台風で出漁が出来ず、それでなくとも貧しい生活を送っていた村人たちは、非常用のにわとりを供出してまで、生まれて初めて見る異国人の回復に努めた。
エルトゥールル号の遭難は和歌山県知事に伝えられ、明治天皇に言上された。明治天皇は可能な限り援助するようにと指示され、医者と看護婦を派遣された。そして生存者は、比叡、金剛の軍艦2隻によって、無事、オスマン帝国へと送還された。
エルトゥールル号の遭難は日本中に伝わり、大きな衝撃として受け止められた。
この事故に衝撃を受けた山田寅次郎という若者は、犠牲者の遺族へ義捐金を集めようと奔走し、集められた義捐金を自ら携え、事故から2年後、オスマン帝国に渡り、熱烈な歓迎を受けることになった。
時を越えて
1985(昭和60)年3月19日、2機のトルコ航空機がテヘラン空港に到着した。
「日本のみなさんを助けにきました。この飛行機に乗ってください」
トルコ航空機は日本人215名を乗せ、イランを脱出した。タイムリミットまで1時間15分の出来事であった。
なぜ、トルコは危険を顧みず航空機を派遣して日本人を救出したのか、日本政府もマスコミもその理由は分からなかった。
元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏はこう語った。
「エルトゥールル号の事故に際し、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、いまもトルコ人は忘れていません。わたしも小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子供たちでさえエルトゥールル号のことを知っています。いまの日本人が知らないだけです。それで、困っている日本人を助けようとトルコ航空機が飛んだのです」
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