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ペリーが浦賀に来航したのは1853(嘉永6)年。大東亜戦争に敗れた後、主権を回復したのが1952(昭和27)年。わずか100年の間の出来事である。 その100年の物語の発端は、ペリーの黒船来航にある。この瞬間、白色人種は、日本という「パンドラの箱」を自らの手でこじ開けてしまったのだ。 世界中では白色人種による植民地争奪合戦が繰り広げられていた。開国の後、明治の日本人は、涙ぐましいほどの努力を重ねる。自分たちは、白色人種に比べ、劣ってなどいない。西洋からあらゆるものを吸収し、使いこなすことで、それを実証しようとした。鹿鳴館での舞踏会など、いま考えれば滑稽とも取れる話ではあるが、当時の人々は、それだけ真剣だったのだ。 開国からおよそ50年。日本は、国家の命運をかけた日露戦争に辛くも勝利し、懸案であった不平等条約の撤廃に漕ぎ着ける。第一次大戦の後、日本は五大国の一員となるが、そこに「人種」という大きな壁が立ちはだかっていることを思い知らされるのである。 日本とは、支那、アメリカ、ロシアといった、3つの大国に囲まれた小さな島国である。 支那は時代の風向きを感じ取ることが出来ず、列強の餌食となり、国内の覇権争いのため日本を巻き込もうと策動する。アメリカは極東での利権を得ようと、日本への露骨な挑発を繰り返す。ロシアは、すべてをかき回し、共産主義を一挙に撒き散らそうと、あらゆる手段で扇動する。これらの国に挟まれ、必死に藻掻きながらも、日本は和平への道を探り続けたのである。 1941(昭和16)年12月8日、ついに日本は立ち上がった。 これを「無謀であった」というのは容易い。しかし、無謀であろうが、なかろうが、日本は立ち上がらなければならない状況に追い込まれていたのである。 誰が導火線に火をつけたのか。 明らかにそれは支那であり、アメリカであり、ロシアであった。もし、日本がその引き金を引かなければ、どうなっていたのか。引き金を引かぬことは可能であったのか。引き金を引いたことは間違いであったのか。たとえ間違いであったとして、誰が日本を裁くことができたのか。 「日本だけが間違っていた」「悪いのは日本である」といった単純な歴史観が戦後の日本を跋扈し、なぜ、日本がその引き金を引かねばならなかったのかということについては、あまり語られようとはしなかった。 戦争には敗れた。しかし日本という「パンドラの箱」は、荒波に揉まれ傷つきながらも、人種差別の撤廃を実現させたのである。 もう一度、歴史を見つめ直し、日本という国がどのような国なのか、自分たちの祖先はどのような人々であったのか、じっくりと考えるべきではなかろうか。そして、日本が3つの大国に囲まれた小さな島国であるという条件は、当然ながらいまも変わってはいない。現在の外交問題を考えるうえでも、歴史を見つめ直すことは決して無駄なことではあるまい。 |
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2005年05月13日
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