「共同謀議」
東京裁判では、1928年1月1日より1945年9月2日までの期間において、世界征服を狙った「共同謀議」の立案または実行に全被告が参画したとして訴追された。
これはあまりにも荒唐無稽な話である。被告の一人、賀屋興宣元蔵相は次のように語った。
「ナチと一緒に挙国一致、超党派的に侵略計画を立てたというのだろう。そんなことはない。軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ、南だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画も出来ずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」
清瀬一郎弁護人は、この「共同謀議」なる空想は「田中上奏文」の過信によるものではないかと考えた。満州事変から大東亜戦争に至るまでの日本の行為を、すべて「悪」とする史観は現在においてもなお根強い。その根底にあるものの一つとされるのが、この「田中上奏文」である。
「田中上奏文」
「日本が世界を征服するためには、まず支那を征服しなければならない」との内容が記された「田中上奏文」は、1927(昭和2)年7月25日付で田中義一首相が昭和天皇に上奏した文書とされ、1929年12月、南京で出版された「時事月報」誌上に漢文で掲載され、ついで英文などに訳され、世界中にばらまかれた。
この文書には、事実と明らかに異なる記述や間違い、天皇への上奏文として相応しくない表現などが多数あり、また肝心の日本語による原文が現在においても「発見」されておらず、実際はコミンテルンの指令により支那で作られた偽書だったのである。
1941年、エドガー・スノーは『アジアの戦争』を出版した。その中でスノーは「田中上奏文」を引用し、様々な誇張、歪曲によってアメリカ国民に反日感情を植え付け、対日戦争を扇動したのであった。ドイツがヒトラーの『わが闘争』をバイブルに世界征服に乗り出したように、日本も「田中上奏文」に基づいて世界征服を企てたという筋書きは、東京裁判における参考書の役割を果たし、「共同謀議」なる荒唐無稽な物語を生んだのである。
東京裁判では、「田中上奏文」の内容に矛盾点があることを指摘され、最終的には証拠として扱われなかったが、その「物語」の影響までは拭い去ることはなかった。
個人責任
東京裁判の争点の一つに、国際法上、国家の行為について個人に刑事責任を問うことができるかという問題があった。
これまで戦争は国際法上の人格を持つ国家の相互間における衝突であり、敗戦国は賠償金の支払いなどの代償を負ったが、戦争自体が犯罪であるとして、その指導者が個人的に刑事責任を追及されることはなかったのである。
また、裁判における証拠の取り扱いも公正さを欠くものであった。ウェッブ裁判長は恣意的に弁護団側の証拠を却下し、一方では検察団側の本来であれば価値もない根拠薄弱な伝聞までも証拠として採用したのであった。弁護団側が準備した証拠書類のうち3分の2は却下される運命となった。
事後法を用いて、国際法を逸脱してまで、連合国側は「物語」を演出し、完成させようと躍起であった。
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