読売新聞は17日、今月11日に開かれた読売新聞主催のシンポジウム「戦後60年・昭和史再検証 『戦争責任』を考える」での熱のこもった議論の模様を伝えた。
基調講演に立ったノンフィクション作家の保阪正康氏は、「演題の中で『あの戦争』という言葉を使ったのにはわけがある。日本の昭和前期の戦争をどう呼ぶかについては、『太平洋戦争』『大東亜戦争』『15年戦争』『アジア・太平洋戦争』などいろいろな呼称があって一本化されていない。言ってみれば、戦後60年たった今も、私たちが戦争について一本化された歴史観をもっていないことを意味している」と述べ、「あの時代に生きた人たちはどういう人だったのか、どう考えたのか。さらには私たちの国の制度や文化、国民性の欠陥は何か。私たちはそういったものまで含めて検証していく必要があるのだと思う」と語った。
シンポジウムには保阪氏のほか、国際日本文化研究センター助教授の牛村圭氏、ジャーナリストの櫻井よしこ氏、民主党衆議院議員の原口一博氏、自民党衆議院議員の加藤紘一氏、コーディネーターとして東京大学教授の御厨貴氏が参加した。
紙面から各氏の発言をいくつか書き取っておく。
牛村「戦争犯罪という言葉があるのは、戦争が合法的なものと認められていた証だ。今日のように殺人は重罪であり、戦争は殺人を前提とするという視点に立った場合、戦争犯罪という言葉の意味が分からなくなるおそれがある」
櫻井「戦争のネーミングが日本だけ一定しないのは、当時の国民のものの見方、認識の仕方、問題のとらえ方と、占領軍に与えられた、あの戦争の解釈とが、余りにも大きく違うのが一因ではないか。日本がこの戦いを始めた背景を知るには、少なくとも明治維新以来の歴史を、特に、アメリカと中国について集中的に見なければならない。アメリカは日露戦争のころから、潜在的な将来の脅威として日本を意識していた。そして時が進むにつれて、アメリカでの日本人排斥の問題とあいまって、日米間に大きな摩擦を生んでいく。ワシントン軍縮会議で日英同盟が切られたのは、アメリカが日本を敵として黙示的に位置付けたということであって、その背景には米中の大いなる結託があったことに注目せざるを得ない。その時点からは歴史の歯車の一つになってしまって、日米開戦は避けられない状況になったと思う。したがって、戦争責任を論ずる時には、日本が、米中、欧米と対立し、国際社会で追い詰められていくプロセスをしっかり見なければならない」
原口「1920年代に現れてきたのが、日本にとって死活問題の共産主義だ。ワシントン条約に入っていない巨大な軍事国家、ソ連が南進してくる。中国共産党の伸張も見られる。わが国のさまざまな地政学的な要請と、米英の利害が決定的に対立する。この構造をおさえておくことが大事だ」
櫻井「アメリカがどんな外交を展開していたのか、をはっきり認識した上での分析が必要であり、それが戦争責任を論じる下地になる」
櫻井「当時の動きを分析して、いかに国際政治が冷酷、理不尽でありうるのかを認識することが、次の問題回避の道につながる」
櫻井「考えるべきは、メディア、新聞、ラジオの役割だ。マスコミにあおられた世論は、あらがいがたい力を持っていたはずだ。近衛さんは、怒涛のような波の前に立ちふさがることができなかった。一つの流れにどーっと流れていくメディアのあり方は、今も、本質的に変わらないものがあることに危機感を覚える」
櫻井「日本がいかに戦争を回避しようと努力したとしても、米国にその気がなければ、努力は無に帰す。米国政府の対日政策は戦いを始めさせ、しかも、日本側に戦いの火ぶたを切らせることにあった。米国は、ハル・ノートを突きつけた翌日、軍の指揮官に戦争態勢に入るように指令を出している。日米戦争は事実上ハル・ノートで始まった。日本だけが悪かったというのではなくて、戦争開始の責任という意味で、もっと公平な視点も必要だ」
保阪「終戦に行き着く過程で、軍事から離れて、日本の美学のような、日本の文化が問われるような戦争形態になった。私たちの国は世界のなかで一揆を起こすことによって、国際社会に何らかの秩序変化をもたらした。必然的に、一揆を起こすような宿命のもと、一度はたどらなくてはいけない道ではなかったろうか。つらいけれども、私たちは、歴史の中に何を刻んだのかを考える必要がある」
櫻井さんの発言ばかりになってしまった。加藤氏もいろいろと発言してはいたが、とくに留めておく言葉はなかった。
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