戦犯釈放運動
1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は晴れて独立を回復、「戦後」は始まったのであった。
サンフランシスコ講和条約第11条には、関係国の同意なくして日本政府が戦犯受刑者を釈放してはならないと規定されていたため、巣鴨、フィリピンのモンテンルパ、オーストラリアのマヌス島には1224名もの人々が引き続き服役していた。
それを知った国民は、彼らを早急に釈放させようと、6月5日から全国で「戦犯受刑者の助命、減刑、内地送還嘆願」の署名運動を開始した。6月7日には日本弁護士連合会が「戦犯の赦免勧告に関する意見書」を政府に提出した。
署名運動は急速に広がり、地方自治体によるもの2千万、日本健青会をはじめとする各種団体によるもの2千万、合計でおよそ4千万もの署名が集まった。
これを受けて、政府は国内で服役中の戦犯の仮釈放および諸外国で服役中の戦犯を日本へ送還する措置について、関係各国と折衝を開始した。
米大統領への要請書
1952(昭和27)年7月、日本健青会の末次一郎氏は渡米し、トルーマン大統領に戦犯受刑者の釈放に関する要請書を提出した。
私は祖国日本の完全なる独立と真実の世界平和とを希求する青年の立場から、今次戦争における戦争犯罪人として今猶獄舎にある人々の全面的釈放の問題について、我々の強い要請を披瀝するものである。
今次戦争における所謂、戦争犯罪処断の目的は、一つには人類の世界から戦争を消滅させようとする人間の善意の祈りであろうが、然し一つには勝者の敗者に対する懲罰の一つの形式であったと思う。
従ってこの所謂、政治目的を背後に蔵した戦争裁判の結果は、或は全く無実の人々を多数苛酷な罪名の下に拘束し、或は裁判の行われたる時期によって罪名の軽重甚だしく、或は文明と人道の名の下に敗者のみが一方的に裁かれるという数々の不当な事実が発生して来たのである。
この様な重大な問題が、講和条約におけるとりきめが甚だしく不備であったために、条約発行後数ヶ月を閲したる今日、猶未解決の儘放置されて居り、かえって連合軍占領期間中に行われて居た仮出所の制度すらも、日本の管理に移されると共に之が停止を命ぜられるという逆現象さえ呈しているのである。このことは、講話成立と同時に戦争犯罪を全面解決した歴史上の先例から考えても、又上述した如き今次裁判の極めて特異な性格から見ても、講話成立と同時に当然全面釈放が行われるものと期待した我々日本国民に、甚しい失望と不満を与え、殊に無実の罪に拘束されている多くの人々に激しい憤りをさえ持たせるに至って居る。アメリカの良識を代表される閣下が、もしも現在巣鴨に拘置中の米国関係者427名に対して、全面釈放の措置を断行されるとすれば、我々日本人が最も心を痛めている、比島の死刑囚59名の助命、並びに同島にある111名の拘置者及び濠洲マヌス島にある206名の日本人の内地送還についても、必ず喜ぶべき結果が齎されるであろうと確信する。
我々は、この戦争裁判の背景にある政治目的は完全に達せられたと確信するが故に、且又この現状が日米両国民の親善を阻害するのみならず、共産主義者たちに逆用の口実を与えることを虞れるが故に、猶又この問題は講話発効と同時に解決されるのが至当であって、個別審査によって事務的に減刑等を行うという如き姑息なる手段によって解決すべきでないと信ずるが故に、更に日本国民は、この解決によって始めて真に平和国家の建設に邁進し得ると確信するが故に、閣下が、米国関係の全戦犯者に対する即時釈放を断行されんことを、茲に強く要請するものである。
1952(昭和27)年8月、日本政府はBC級戦犯の赦免勧告を関係各国に要請、10月にはA級戦犯を含む全戦犯の赦免、減刑を要請した。
11月13日、アメリカ政府はワシントンの日本大使館に対し、A級戦犯に関する赦免、減刑、仮出所などの処置を協議するため、東京裁判に参加した連合国との間で近く話し合いを始める考えであることを通告した。
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