teikokubungaku

日本とは、日本人とは

日本の歴史

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]

九人の乙女
日本がポツダム宣言を受諾した後もソ連は南樺太、千島列島を侵攻し続け、1945(昭和20)年8月28日から9月5日にかけて北方4島を占領した。ソ連軍は婦女子に対しても容赦なく発砲し、民間人に多数の犠牲者を出した。
1945(昭和20)年8月20日、樺太の真岡郵便局に勤務する9人の女性電話交換手は、ソ連軍が近づく恐怖の中、使命感により最後まで職務を全うし、「皆さん、これが最後です。さよなら、さよなら」の言葉を残して、青酸カリにより自決した。
また、ソ連が中立条約を破って満州などに侵攻したことにより生じた日本人捕虜はシベリアに抑留され、過酷な環境下で強制労働に従事させられた。
真相はかうだ
1945(昭和20)年8月末、アメリカ軍を主体とする連合国軍の進駐が始まり、日本の占領が始まった。
ポツダム宣言は「日本軍」の無条件降伏を確保するため「日本政府」に降伏条件を提示した文書であり、日本政府の無条件降伏を意味するものではなかったが、1945(昭和20)年9月2日、戦艦ミズーリ艦上で停戦協定にあたる降伏文書への調印がなされると、アメリカは態度を急変させる。占領統治は、日本がアメリカの脅威とならないような無力な国にすることを目的とし、マッカーサー司令官率いる連合国軍総司令部、即ちGHQの指令を日本政府が実行するという形で行われた。
GHQは1945(昭和20)年9月から占領終了までのおよそ7年間、言論の検閲を行った。国民に検閲が行われていることを認識させぬように検閲制度への言及を厳禁し、周到、巧妙に検閲は行われた。
GHQは日本人に戦争贖罪意識を植え付けることを目的に、1945(昭和20)年12月より、新聞各紙に「太平洋戦争史」の掲載を始めさせ、ラジオ番組「真相はかうだ」の放送を開始させた。日本軍がいかに残虐非道であったかを、歪曲、誇張し、悪の帝国主義が正義の民主主義に屈したという観念を植え付け、日本が国家として無条件降伏したものと信じ込ませようとした。検閲により言論を封じ込め反論できなくした上で、自らに都合の良い「真相」を徹底的に宣伝する、まさに洗脳政策であった。
日本国憲法
GHQは憲法の改正を求め、自ら1週間で憲法草案を作成した後、日本政府に受け入れるよう厳しく迫った。日本政府は英語原案を翻訳し、修正を加え、政府案として議会で審議し、1946(昭和21)年11月3日に日本国憲法として公布され、1947(昭和22)年5月3日より施行された。また、1947(昭和22)年3月には、教育勅語に代わる教育基本法が公布され、日本人の価値観は大きく歪められることになった。
極東国際軍事裁判
1946(昭和21)年5月から極東国際軍事裁判所を開廷し、日本の戦時指導者を「平和に対する罪」「人道に対する罪」などを犯した戦争犯罪者であるとして裁判にかけた。この極東国際軍事裁判、通称東京裁判は、戦勝国が敗戦国のみを対象に一方的に裁き、証人に偽証罪を問わず、伝聞による資料も採用され、罪刑法定主義、法の不遡及の原則からも、裁判の名に値しない不公正なものであった。
起訴は昭和天皇の誕生日である1946(昭和21)年4月29日、東條英機以下7人の絞首刑執行は当時皇太子であった明仁親王の誕生日である1948(昭和23)年12月23日に行われた。
サンフランシスコ講和条約
大東亜戦争、第二次大戦は、共産主義の台頭を招くこととなった。世界はアメリカの率いる自由陣営とソ連の率いる共産圏が勢力を争う冷戦の時代に突入する。
支那では内戦が再開され、共産党に破れた蒋介石と国民党は台湾に逃れた。朝鮮では南北に米ソの後押しを背景にそれぞれ政権が誕生した。
大東亜戦争の結果、列強の植民地となっていたアジア諸国などでは独立の気運が高まり、次々と独立を勝ち取った。
共産主義の台頭、1950年に勃発した朝鮮戦争をきっかけにアメリカの占領政策は転換する。1951年(昭和26)年9月、サンフランシスコで講和会議が開かれ、日本はアメリカを中心に自由陣営など48か国と、サンフランシスコ講和条約を結んだ。さらにアメリカと日米安全保障条約を結んだ。
1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効、これにより日本は主権を回復した。


開く トラックバック(1)

真珠湾攻撃
1941(昭和16)年12月8日、海軍機動部隊の空母から攻撃隊が発進、ハワイの真珠湾に停泊するアメリカ太平洋艦隊を空襲。同日、マレー半島のコタバルに陸軍部隊が上陸、イギリス軍と交戦。日本軍による快進撃が始まった。
マレー沖海戦ではイギリスの誇る最新鋭戦艦プリンセス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈。フィリピン、シンガポール、ジャワ、ビルマなどでも米英蘭軍を破り、日本は大勝利のうちに緒戦を制した。
日本の計画では、攻撃開始に先立って、アメリカに最後通告を行う予定となっていた。しかし実際は、開戦の30分前に渡すはずの通告文が、開戦から55分も経ってから渡すことになってしまったのだ。開戦前夜、日本大使館には最後通告の文書が送られていた。しかし、大使館員たちは同僚の送別会のため外出し、大使館には誰一人として居なかったのである。アメリカはこの文書も傍受し暗号解読しており、開戦を事前に知っていたのだが、この日本側の大失態を大いに利用し、日本が騙し討ちを行ったと内外に喧伝するのであった。
大東亜共栄圏
日本はこの戦争の目的を、アジアを欧米の支配から解放、独立させ、各国の提携による経済発展、人種撤廃などを謳った大東亜共栄圏の設立にあると宣言した。
長い間、白人によって支配され、抵抗する気力さえ失っていたアジアの人々にとって、同じような肌の色をした日本人の勇姿はまさに衝撃であった。そしてその衝撃はアジアにとどまらず、すべての有色人種のものとなり、衝撃は独立への勇気となり、希望へとなった。
神風特別攻撃隊
1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦を境に戦局は暗転する。1943(昭和18)年4月には、連合艦隊司令長官山本五十六が戦死。本土防衛の重要拠点であったマリアナ諸島では次々と玉砕。追い詰められた日本軍は、1944(昭和19)年10月のレイテ沖海戦で、世界を震撼させる作戦を敢行した。神風特別攻撃隊が死を覚悟した体当たり攻撃を行ったのである。これにより、多くの若者が護国の鬼と化し、桜花の如く散っていった。
東京大空襲
1945(昭和20)年2月、ソ連のヤルタにおいて、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンによる会談が行われた。この会談でルーズベルトは、ソ連が対日参戦することをスターリンに求め、その代償として南樺太と千島列島、満州の権益を認めるとの密約を行った。
1944(昭和19)年から、軍事基地や軍需工場を標的としたアメリカ軍による空襲が開始され、さらには戦意を喪失させる目的から、民間人を巻き込んだ無差別爆撃を全国各地で行うようになる。1945(昭和25)年3月10日未明、344機のB29爆撃機が東京上空に現れ、焼夷弾を大きな円周上に落として退路を断ち、その内側を絨毯爆撃し、およそ10万人もの生命を奪った。
1945(昭和20)年4月、沖縄本島でアメリカ軍との激しい戦闘が始まり、多数の民間人が犠牲となった。
原子爆弾
ドイツ降伏後の1945(昭和20)年7月、ルーズベルトの急死により大統領に昇格したトルーマンなど米英ソ三か国の首脳がベルリン郊外のポツダムに集まり、日本に対する戦争終結の条件を示したポツダム宣言を米英支3か国の共同声明として発表することを決めた。当初、日本に終戦への道を開くため天皇の地位を保証する条項がポツダム宣言の原案には入れられていたのだが、トルーマンはある思惑から、それを削除した。ポツダム宣言が発表され、鈴木貫太郎首相はこれを「黙殺」するとの声明を発表した。
1945(昭和20)年8月6日、アメリカは原子爆弾を広島に投下した。2日後、ソ連は中立条約を破って日本に宣戦布告、満州に侵攻した。1945(昭和20)年8月9日、アメリカは長崎に原爆を投下した。アメリカは空襲による被害の少ない地を選び、あえてそこに原爆を投下し、その破壊力を確かめたのである。トルーマンの思惑とはこれであった。広島、長崎の原爆による死者は、1945(昭和20)年12月までで、およそ21万人である。
玉音放送
1945(昭和20)年8月9日、御前会議が開かれた。ポツダム宣言の受諾について結論を出せず、翌日、鈴木首相は昭和天皇に聖断を仰いだ。昭和天皇はポツダム宣言の受諾を決断され、聖断は下った。
1945(昭和20)年8月15日正午、昭和天皇の玉音放送により国民は日本の敗戦を知った。

玉音放送(現代口語訳文)
私は深く世界の大勢と日本の現状について考え、非常の措置をもって事態を収拾しようと思い、ここに忠義なる国民に告げたいと思います。
私は政府に、米国、英国、支那、ソ連、四国に対し、その共同宣言を受諾することを通告させました。
そもそも日本国民の安全を確保し、世界の国々とともに栄えることを喜びとすることは、私の祖先から行ってきたことであり、私もそのように努めてまいりました。先に、米国、英国、二国に宣戦を布告したのも、日本の自立と東亜の安定を願ってのものでありまして、他国の主権を侵害したり、領土を侵犯したりするようなことは、もちろん私の意志ではありません。しかしながら、交戦はすでに四年が経ち、陸海将兵の勇敢な戦闘や、官僚、公務員たちの勤勉、一億国民の奉公、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の大勢もまた我々には有利とはなりませんでした。それのみなならず、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、何の罪もない者を殺傷し、その被害はまったく図り知れません。それでもなお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くのみならず、すべての人類の文明が破壊されることでしょう。そのような事態になったとしたら、私はどうしてわが子のような多くの国民を保ち、祖先の霊に謝罪することができるでしょうか。これこそが私が政府に共同宣言に応じるようにさせた理由なのです。
私は日本とともに終始東亜の解放に協力した友好国に対して、遺憾の意を表さざるを得ません。日本国民にして、戦場で没し、職場で殉職し、悲惨な最期を遂げた者、またその遺族のことを考えると、体中が引き裂かれる思いがします。さらに戦場で負傷し、戦禍にあい、家や職場を失った者の厚生については、私が深く心配するところであります。思うに、これから日本の受けるであろう苦難は尋常なことではないでしょう。国民の気持ちも私はよく知っております。しかしながら私はこれから、耐え難いことを耐え、忍び難いことを忍んで、永遠の平和が開かれることを求めるのです。
私は、ここに国体を守り忠義で善良な国民の真心を信頼し、常にその国民とともにあろうと思います。感情のままにみだりに争いごとをし、或いは国民同士がいがみあって、互いに時局を混乱に陥らせ、世界から信用を失うようなことになることを私は最も戒めます。国を挙げてひとつの家族として子孫ともども団結して、固く日本の不滅を信じ、道は遠くとも責任は重大であることを自覚し、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操を固くし、日本の栄光を再び輝かせるよう、世界の動きに遅れないように努力しなければなりません。国民はどうか私の気持ちを酌んで理解してください。


ABCD包囲陣
1941(昭和16)年4月、日ソ中立条約の調印を終えて帰国の途にあった松岡洋右外相の胸中には壮大な和平構想が描かれていた。日独伊の同盟とソ連との条約、これによってアメリカとの交渉が有利に進み、支那事変が解決され、日米関係が改善されるのではないか。ところが、1941(昭和16)年6月、ドイツがソ連に侵攻。独ソ戦が始まり、松岡の構想は破綻するのだった。
日米通商航海条約失効以降、アメリカの経済圧迫が強まるなか、日本は重要資源確保のため蘭印との交渉を行っていた。しかし、米英の妨害により決裂。日本は窮地に立たされるのであった。そこで日本はフランスと外交交渉を行い、1941(昭和16)年7月、南部仏印へ進駐を開始した。仏印は重慶と米英蘭による対日包囲陣の重要地域であり、また、ゴム、錫などの産地でもあって、いつ米英側から仏印進駐が行われるかもしれず、日本はこれに対して自衛措置を講ずる必要があった。これに対し米英蘭は日本資産の凍結、対日石油輸出の全面禁止といった報復に出たのであった。これにより米英支蘭によるABCD包囲陣は一段と強化され、日米関係は重大局面を迎えることとなった。
大西洋会談
日米関係の危機的状況を打開するため、近衛文麿首相はフランクリン・ルーズベルト大統領との会談を決意した。日米首脳会談の提案がアメリカへ伝達された頃、ルーズベルトはイギリスのチャーチル首相と大西洋上で会談を行っていた。
ドイツ軍の攻勢に対し苦戦を強いられていたイギリスは、アメリカを第二次大戦に参戦させることによって局面を打開しようと考えていた。しかし、ルーズベルトは国民に参戦しないことを公約として大統領に当選しており、アメリカの世論も参戦には反対であった。そこでルーズベルトとチャーチルは、日本を追い込み、日本からアメリカに戦争を仕掛けるように仕向けることによって、日米戦争を引き起こし、日本の同盟国であるドイツにアメリカが宣戦布告するというシナリオを話し合っていたのである。
アメリカは日米首脳会談実現の引き延ばしを始めた。
明治天皇の御製
1941(昭和16)年9月6日、御前会議において、石油貯蔵量からして戦機はすでに秒読みであり、10月上旬までに交渉がまとまらない場合、開戦を決意するとの方針が決定された。

よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ

昭和天皇は、明治天皇の御製を繰り返し詠まれ、平和を強く願われる御意志を示された。
1941(昭和16)年10月2日、アメリカのハル国務長官より非妥協的と取れる覚書が送りつけられ、日米首脳会談が実現せぬことが明白となった。和戦いずれかに決定すべきか日本政府は懊悩し、行き詰まった近衛内閣は、1941(昭和16)年10月16日、総辞職したのであった。
白紙還元の御諚
後継内閣組閣の大命は東條英機陸相に降下した。大命とともに、木戸内府を通じて、「9月6日の御前会議決定にとらわれることなく、内外の情勢を更に広く深く検討し、慎重なる考究を加ふることを要す」とのお言葉が東條に伝えられた。
東條は陸軍を掌握しており、海軍が開戦に反対なら戦争はできぬという考えを持ち、また、勅命を厳格に遵守するという理由から後継首相に推されたのであった。東條新内閣発足後、基本方針が再検討されることになった。こうして、交渉案として最後的譲歩案である甲案と、甲案不成立の場合の暫定協定案である乙案が決定し、外交交渉の期限を12月1日にすることにした。
ハル・ノート
1941(昭和16)年11月7日、野村駐米大使はハル国務長官と会見し、甲案を提出した。ところが、アメリカは日本の外交電報を傍受し暗号解読しており、甲案、乙案の内容もすでに交渉前に把握されていたのだった。ハルは甲案に大した関心を示さず、交渉は不調に終わる。1941(昭和16)年11月20日、野村と、野村に協力させる目的で派遣された来栖前駐独大使が乙案を提出。しかし、ハルは交渉に応じようとはしなかった。翌日、来栖はハルと会見し、三国同盟をほとんど死文化するまでに譲歩したが、ハルはこれにも応じなかった。
1941(昭和16)年11月26日、ハルは野村、来栖に対し、一切の妥協も譲歩も含まれていない強硬案、所謂「ハル・ノート」を提示した。ハル・ノートは、それまでの交渉経緯と一致点をすべて無視し、日本の長年の犠牲による結果をすべて放棄するばかりか、国際的地位を棄てることを求めるに等しいものであった。
1941(昭和16)年12月1日、御前会議が開かれ、ついに開戦が決定された。


東亜新秩序
上海事変勃発後も日本は国民政府との和平工作を続けた。トラウトマン駐支ドイツ大使を通じて、蒋介石へ和平提案を伝えるが、交渉は進まず、蒋介石から誠意ある回答は得られなかった。日本はトラウトマン工作の打ち切りを決断し、「爾後国民政府を対手とせず」との声明を出すに至った。
1938(昭和13)年11月、戦火が支那全土に拡大し、解決の目処が立たぬなか、近衛文麿首相は、のちの大東亜共栄圏構想の出発点ともいえる、東亜新秩序の建設を謳った声明を出す。日本、満州、支那の提携により東亜に経済統合を実現する構想を掲げ、先の声明を修正し国民政府に対し新秩序建設への参加を呼びかけ、事態の好転を期待したのだった。国民党の重鎮であった汪兆銘は、これに呼応し重慶を脱出、和平による救国への道を模索し、1940(昭和15)年3月、南京国民政府を樹立した。
ノモンハン事件
レーニンの死後、ソ連の実権を握ったスターリンは秘密警察と強制収容所を用いて反対勢力を弾圧、処刑し、独裁体制を築き上げていった。また、ロシア革命以降、ソ連では異常なまでに軍事力が増強されていた。
国家の健全な思想と体制を破壊する共産主義の膨張に、日本は警戒をさらに強めることになる。1936(昭和11)年、コミンテルンによる共産主義的破壊活動に対する防衛を目的とした、日独防共協定が調印された。
1938(昭和13)年7月、ソ連が突如、満州国との国境にある張鼓峰を越境し、満州国側に陣地を構築する事件が起きた。日本側は外交交渉による解決を試みるが、ソ連は圧倒的な火力により攻撃を繰り返した。その後、停戦協定が結ばれ日本軍は撤退するが、ソ連軍は協定を破って越境、鉄条網を張り、陣地を構築したのだった。
1939(昭和14)年5月には、満州と外蒙古の国境においてノモンハン事件が起き、関東軍とソ蒙軍との間で戦闘が行われ、多数の犠牲者を出した。
援蒋ルート
満州事変から支那事変にかけて、支那大陸への関心を高め、門戸開放を唱えるアメリカとの関係は緊迫の様相を呈し始めた。
1938(昭和13)年11月の東亜新秩序を謳った近衛声明が出されると、アメリカはこれに強く反発した。各国が関税障壁を設け、排他的経済ブロックを確立していくなかで、日本が自存の道を確保するためにも、日満支の自給自足経済ブロックという構想は必然的であったといえる。
1939(昭和14)年、アメリカは突如、日米通商航海条約の廃棄を一方的に通告する。日本にとっては重大な衝撃であった。
南京から重慶へ逃れた蒋介石に対し、米英仏ソなどは、仏印やビルマ、支那西北方から重慶に通じる「援蒋ルート」によって、莫大な軍事経済援助を行っていた。この援助が続けられる限り、支那事変が長期化し、解決されないことは明白であり、この援助こそが日本を泥沼に引きずり込んだのである。
日独伊三国同盟
1939(昭和14)年8月、ドイツはソ連と不可侵条約を締結。その翌月、ドイツはポーランドに電撃的に侵攻し、第二次大戦は幕を開けた。
援蒋ルートのうち最大の輸送量を占めるのは仏印ルートであった。日本はフランス政府に援蒋行為の禁止を申し入れるが、フランスは様々な口実で、これを受け入れようとはしなかった。しかし、1940(昭和15)年6月、フランスがドイツに降伏すると、仏印ルートによる援蒋物資の輸送を停止し、日本監視団の派遣も承諾した。ところが、アメリカはこれを不服とし、対日輸出禁止の強化を図った。
支那事変は解決の糸口が見つからず、日米関係は悪化の一途を辿っていた。これを打開し、支那事変の解決とアメリカとの軍事衝突を回避する一縷の望みとして、1940(昭和15)年9月、日独伊三国同盟の締結に踏み切ることになる。この同盟を推進した松岡洋右外相は、さらにソ連と結んで、アメリカの態度を軟化させる狙いであった。
三国同盟締結、さらには1940(昭和15)年11月に、日本が汪兆銘の南京国民政府を承認すると、米英の援蒋活動は露骨なまでに強化された。


開く トラックバック(1)

西安事件
支那では、国民党の蒋介石と共産党の毛沢東の内戦状態が続いていた。蒋介石は共産党の討伐を優先し攻勢をかける。追い詰められた共産党は、蒋介石を「売国奴」「日寇の手先」と罵り、対立を超越して抗日救国のために戦わねばならぬと訴えた。これに対して蒋介石は、これは共産党が党勢を挽回するための策謀であることを指摘し警告するが、反日組織が続々と生まれ、抗日運動は勢いを増していった。
1936年、蒋介石が西安において逮捕監禁される事件が起こった。蒋介石は釈放されるが、この事件を契機に共産党は息を吹き返すことになる。
廬溝橋事件
1937(昭和12)年7月7日夜、北京郊外の廬溝橋で、演習を終えた日本軍に対し、突如数発の銃弾が何者かにより発砲された。日本側は不拡大方針に基づき、廬溝橋上の国民党軍へ軍使を派遣することにした。ところが、翌朝早朝、日本軍に向け、再び猛射が浴びせられた。ついに、日本軍は反撃し、国民党軍と戦闘を開始した。
この廬溝橋事件が支那事変の発端である。では、廬溝橋事件の発端である銃弾は、誰によって日本軍に向け発砲されたのか。コミンテルンの指令により、日本軍と国民党軍の衝突を意図的に作り出すことを目的とした、国民党軍に潜り込んだ共産党員による策謀だったのである。
あくまで不拡大方針を取る日本側は、事件発生から4日後に現地で協定を結ぶが、支那側はそれを破り、騙し討ちを繰り返した。
通州事件
廬溝橋事件発生から3週間後の1937(昭和12)年7月29日、北京の東方の通州で支那の保安隊による大規模な日本人虐殺事件が発生した。
保安隊は日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、残虐の限りを尽くした。陰部を刃物でえぐられた者、目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のような男性、胸部の骨が露出し内臓が散乱する男性、鼻に針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦、強姦後射殺され陰部に箒を押し込まれた女性、口中に砂をつめられた者、この事件でおよそ260名もの日本守備隊、日本人居留民が殺害された。
上海事変
日本側はなおも和平工作を続けるが、1937(昭和12)年8月9日、上海で大山勇夫海軍中尉らが機関銃で射殺され、青竜刀で頭を真二つに割られ虐殺される事件が起こった。さらに、1937(昭和12)年8月14日、蒋介石は上海を爆撃した。爆撃は市街地にも及び、日本人のほか多数の欧米人が犠牲となった。蒋介石はあえて欧米人に犠牲者を出すことによって、対日批判を引き出そうとしたのだ。
1937(昭和12)年8月15日、日本政府は陸軍の派兵を決定。その任務は日本人を保護するため、上海を占領するというものであった。
南京攻略
日本軍は苦戦の末、1937(昭和12)年11月9日、上海全域を占領した。日本側は事態収拾を図るため、国民政府の首都南京を攻略し、蒋介石に降伏勧告を行うことを決定した。1937(昭和12)年12月10日、南京攻略は開始されるが、蒋介石は首都を重慶に移すことを決め、部下や市民らを見捨て、すでに南京を脱出した後であった。
南京攻略に先立ち日本軍では、外国の首都に入城するに際して間違いがあってはならぬと訓令が出され、徹底がなされていた。ところが、南京から逃れようとする国民党軍は、市民に対する略奪や暴行、放火などを行い、軍服を捨てて一般市民を装い背後から攻撃するなどの蛮行を行った。
南京の完全占領は1937(昭和12)年12月13日、その4日後に入城式が行われた。


全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]


.
teikokubungaku
teikokubungaku
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
検索 検索

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事