治安維持法
1921年、ソ連は外蒙古を侵略し、アジア共産化工作の最前線基地とした。同年、支那で共産党が結成され、日本でも翌年、日本共産党が結成された。
イデオロギーといった新たなる形態の「侵略」、目的のためには手段を選ばない過激な思想、とりわけ、コミンテルンが君主制の廃止を掲げていることに警戒した日本では、1925(大正14)年、ソ連との国交樹立にともない、その影響力が拡大されることを予想して、共産党やその支援者の非合法活動を取り締まる目的で、治安維持法が制定された。
南京事件
軍閥が群雄割拠する支那では、孫文の国民党と共産党が合作した。孫文の死後、国民党の実権を握った蒋介石は、国民革命軍を率いて、支那統一を目指し軍閥の討伐を開始した。
国共合作により国民党に加入した共産党員は、国民党を分裂破壊せしめる陰謀を企てる。1927(昭和2)年、国民革命軍が南京にある各国の外国領事館を襲い、略奪や強姦を行い、居留民を虐殺する事件が起こった。イギリスとアメリカは避難民救済のため砲撃を行うが、日本は砲撃に参加しなかった。この南京事件は、蒋介石を陥れるため、国民革命軍に混入した共産党員が仕組んだものであった。そしてそれは、外国勢力と国民党の衝突を引き起こし、一挙に共産化を図ろうとするコミンテルンの計略なのであった。この事件により、国共合作は破綻した。
1928(昭和3)年、南京事件の再来を警戒し居留民保護のため済南に出兵していた日本軍に、蒋介石は治安の確保を約束したうえで警備の撤去を要請した。日本軍が警備を撤去すると、国民革命軍は約束を破り、略奪を開始した。居留民は言語に絶するほどの暴虐陵辱を加えられ、多数の死傷者が出る大惨事となった。済南事件における蛮行は、日本国民を驚愕させ、憤激させたのであった。
国民党は、済南事件は日本軍による外交官虐殺事件が発端であると捏造し、広く吹聴、恰好の反日材料として宣伝に利用するのであった。
統帥権干犯問題
1930(昭和5)年、ロンドンで補助艦の制限を議題とするロンドン軍縮会議が開催された。英米日で10・10・7の比率を望む海軍に対し、政府は米英との強調に努めて、それを下回る比率を受け入れることとなった。これに反発した一部の軍人らは、大日本帝国憲法に定められた天皇の統帥権を犯したとして政府を激しく非難、同年11月、浜口雄幸首相は暴漢に襲われ重傷を負った。
速成で作られた大日本帝国憲法には、伊藤博文ら元老が健在であった間には表面化することがなかった、ある問題を抱えていた。この憲法の条文には、「首相」や「内閣」という言葉はなく、それについて一言も触れていなかったのである。元老の意向で首相が選ばれていた頃は、元老の意向は天皇の意向であるということに等しく、問題は露呈しなかったのであるが、この時代、ほとんどの元老はすでに亡くなっており、首相が軽んじられていた。軍部は憲法のこの急所を突き、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という条文を振り回したのだった。
しだいに政党政治への不満が国民にも高まり、軍部へ期待が寄せられるようになっていくのであった。
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