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三国干渉
日清戦争の勝利によって、清から遼東半島が日本に割譲されることになったが、東アジアに野心を抱くロシアはそれを許さなかった。ロシアはドイツ、フランスを誘い、強力な軍事力を背景に、遼東半島を返還するよう日本に迫った。三国に対抗する力をもたない日本に、この三国干渉を受け入れる以外の選択肢はなかった。
日本は遼東半島を返還するが、ドイツは膠州湾と青島を租借し、フランスは広州湾、イギリスは威海衛と九龍、そしてロシアは日本から返還させた遼東半島の旅順、大連を租借したのであった。日本国民は「臥薪嘗胆」を合言葉に、富国強兵に努めた。
北清事変
日清戦争、三国干渉を契機に、列強諸国は支那大陸に群がり、支那大陸は分割されていった。
列強諸国への反発から、外国勢力排斥を掲げた義和団の乱が山東省で起こり、各地でキリスト教徒や宣教師が殺害され、教会が破壊された。1900年には北京に勢力を拡大し、外国公館を包囲する事態にまで発展した。しかし、清国政府は傍観するのみで、義和団を排除しようとはしない。それどころか、清はこれを利用して列強諸国に宣戦布告したのであった。清軍は北京の外国公館や天津の租界を包囲し、攻撃をはじめた。日本とドイツの公使館員が惨殺されると、列強諸国は地理的に近い日本に救援軍の派遣を求めた。
救援軍が到着するまでの間、各国の公使館員を中心とした義勇軍が作られ、籠城戦となった。公使館付き武官であった柴五郎中佐の指揮のもと、日本人義勇兵は見事な活躍を見せた。2か月余り続いた籠城戦で、迅速で的確な指揮をとる柴中佐は、各国の義勇兵の信頼を得るとともに、誰からも愛され、尊敬されるのであった。イギリス公使館が襲撃された際、救援に駆けつけ、清軍を撃退した日本人の勇敢さは、大いに賞賛された。柴中佐はこの活躍により、後に各国から勲章を授与されることになる。
日本から派遣された救援軍は、列強との連合軍において、最も奮闘し、清軍を鎮圧した。また、その規律の正しさに列強諸国は感嘆したのであった。この当時の欧米兵士の間では略奪や強姦が常識とされていた。実際、北京などでは大規模な略奪が行われたが、日本軍だけは略奪行為を一切行わなかったことから、日本は大いに評判を高めることになった。
日英同盟
ロシアは1891年からシベリア鉄道の建設に着手し、その脅威はさし迫っていた。さらに、北清事変を口実に満州に送り込んだ大軍をロシアは撤兵させようとはしなかった。
1902(明治35)年、ロシアの南下政策に対する牽制として、日英同盟が締結された。「光栄ある孤立」を誇りとし、ヨーロッパにおいてすら同盟を結ばなかったイギリスが、伝統を捨て、しかも有色人種である日本と同盟を結んだことは、当時の外交常識では考えられぬことであった。ロシアの南下政策に対する利害の一致があったとはいえ、北清事変における柴中佐らの功績こそが、この同盟を実現させたといっても過言ではない。
清から独立し国号を大韓帝国と改めた朝鮮は、日本が三国干渉で譲歩すると、急速にロシアへと接近した。朝鮮がロシアの支配下となることを避けるため日清戦争を戦い、朝鮮の独立を助けたはずが、あろうことか自らロシアの属国に朝鮮はなろうとしたのであった。ロシアは満州の兵力を増強し、朝鮮北部に軍事基地を建設した。
日本が大国ロシアに勝てるとすれば、ロシアの兵力がこれ以上極東で増強されるまえに、短期決戦で決着をつけるしかない。日本はロシアとの開戦を決意するのであった。


壬午事変
日本は、朝鮮の開国後、その近代化を助けるべく軍政改革を援助した。1882年、一部の朝鮮兵士が暴動を起こし、守旧派の大院君が反乱を起こす壬午事変が起きた。このとき、日本公使館が襲われ、7人が殺害される事件が起こった。
清は壬午事変を口実に軍隊を派遣し、反乱は鎮圧されるが、朝鮮は清の影響をさらに受けることになった。
甲申事変
壬午事変で日本公使館に危害が及んだことを謝罪するため日本に派遣された金玉均は、日本のめざましい発展ぶりを見て、朝鮮の開化を強く望むようになった。福沢諭吉は、私財を投じて金玉均ら朝鮮の開化派を援助した。
1884年、金玉均ら開化派はクーデターを起こした。しかし、このときも清の軍隊は、これを直ちに鎮圧、日本公使館は炎上し、多数の日本人が惨殺された。これを甲申事変という。
クーデターに失敗した金玉均は日本に亡命するが、のちに上海で暗殺され、遺体は朝鮮で八つ裂きにされたという。福沢諭吉は朝鮮に絶望し、欧米に対抗するためとはいえ、アジアの開化をいつまでも待ち続けているのでは、日本も停滞するだけであると、「脱亜入欧」を唱えた。
長崎事件
琉球が日本に組み込まれ、1884年には清仏戦争の敗北によってベトナムまで失った清は、有力な朝貢国である朝鮮だけは奪われまいとしていた。
1886(明治19)年、清は購入したばかりの定遠や鎮遠といった軍艦からなる北洋艦隊を長崎に入港させた。この入港は、朝鮮における影響力を維持しようとする清の、日本に対する示威行動であった。ところが、長崎に上陸した清国水兵が日本人に暴行を働き、日本の警察と衝突して多数の死者が出る事件が起きた。
この清の行動は裏目となり、清に対する敵愾心を植え付け、日本に軍備の増強を急がせた。また、規律は乱れ、志気が乏しい清国兵士たちの実情が露呈し、日本側に自信を持たせることになった。
日清戦争
1894(明治27)年、朝鮮で東学の乱とよばれる農民暴動が起きた。朝鮮は鎮圧しかね、清に出兵を要請した。日本と清では甲申事変後に天津条約が結ばれていた。天津条約では、もし朝鮮で内乱が起き、両国あるいはいずれかが朝鮮へ派兵する必要が生じた場合、相手国へ事前に通告し、了解を得ることになっていた。しかし、清が日本に出兵を通告した文章には「属邦保護」のためと記してあった。日本は、朝鮮が清の属邦であることを認めるわけにはいかないとして、条約に従い出兵した。日本側は、日清両国が協力して朝鮮の内政改革を行うことを提案するが、清が拒絶したため、日清戦争が始まった。
日清戦争は陸海ともに日本の圧勝であった。黄海海戦で制海権を握った日本は、清が誇る北洋艦隊を威海衛で壊滅させた。
1895(明治28)年、日本は清と下関条約を結び、清は朝鮮の独立を承認するとともに、軍事賠償金を支払い、遼東半島と台湾を日本に割譲した。
欧米諸国は、日本の勝利を高く評価し、日本との条約改正に同意し、治外法権は撤廃されることとなった。


大日本帝国憲法
日本が欧米諸国と結んだ条約には、国内で外国人が罪を犯しても日本の法律では裁くことのできない治外法権が認められていた。「日本は法整備がなされておらず、そのような国の法律に自国民を委ねることはできない」といった理由で条約改正に応じてもらえぬ日本は、立憲政治の実現へ努力を重ねていた。1876(明治9)年、国憲起草の勅語が発せられ、元老院で憲法草案がつくられ、民間からも憲法草案が続々と発表された。1881(明治14)年には、10年後の国会開設を約束した国会開設の勅諭が下された。
伊藤博文は1882(明治15)年、憲法を自ら調査研究するため欧州へ向かった。当時、欧米諸国以外で立憲政治を成功させた国は存在せず、トルコでは立憲政治が試みられたが、失敗に終わっていた。元老院でつくられた草案は、各国の憲法を取り集め、焼き直しただけにすぎず、それが日本に適したものかどうか伊藤は疑問であった。伊藤は、オーストリアのシュタイン、ドイツのグナイストという二人の憲法学者に就き、憲法はその国の歴史や伝統に立脚したものでなければならないと学び、帰国後、井上毅、金子堅太郎らとともに、プロシアなどの憲法を下敷きにし、日本の伝統文化と西洋の政治理念を融合させた憲法草案の準備を進めた。
1889(明治22)年2月11日、大日本帝国憲法が発布された。大日本帝国憲法は、日本は万世一系の天皇が統治する立憲君主制であることを明らかにした。天皇は国の元首であり、国の統治権を総攬する者であるとし、その上でその統治は憲法の条規に従うとされ、法律の制定は国民の意思が反映された議会の協賛によること、行政は国務大臣の輔弼によること、司法は裁判所が行うと定めた。つまり、法律は議会が議決したものを天皇が裁可することによって制定、施行されるが、天皇が議会の同意なく法律を公布することや、議会が議決した法律を裁可しないことはならないとし、国務大臣の同意のないままに勅令を下すことはできないということである。
教育勅語
1890(明治23)年、日本人としての道徳観を説いた教育勅語が発布された。教育勅語は、大東亜戦争の敗北によって教育の現場から姿を消したが、近年、見直され、復活を望む声も多い。

教育勅語(国民道徳協会訳文)
私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を完うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、美事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
国民の皆さんは、子は親に孝養をつくし、兄弟、姉妹はたがいに力を合わせて助け合い、夫婦は仲むつまじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じあい、そして自分の言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格をみがき、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と、安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然のつとめであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、更にいっそう明らかにすることでもあります。
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、このおしえは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、まちがいのない道でありますから、私もまた国民の皆さんとともに、父祖の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。


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琉球処分
独立国家として存在するためには、国際法にもとづいた領土の保全ならびに国境の画定が重要な条件である。日本は国境の画定を急いだが、問題は日本と清の双方に朝貢していた琉球と、北方の樺太の帰属であった。
1871(明治4)年、琉球の漁民66人が台風に遭い台湾に漂着し、そのうち54人が住民に惨殺されるという事件が起きた。日本は清に事件の責任を追及するが、台湾は統治の及ばぬ「化外の地」であるとして、清は一切の責任を拒否した。そこで日本は、台湾に懲罰を与え自国民の安全を確保するのは当然の義務だとして、1874(明治7)年、台湾へ出兵した。
日本は、開国以来、外交をつねに、当時は万国公法とよばれていた国際法にもとづいて認識し対処してきた。欧米列強がつくりあげた万国公法を、われわれも理解し実践できるのだと証明し、列強と対等な条約を結びたい日本は、万国公法の優等生であった。国際法にもとづいて領土問題に取りかかる日本に対し、華夷秩序的発想で応じる清という構図は、両国の国際情勢に対する認識の違いを象徴していた。
このときの日本の外交は巧みである。帰属の曖昧な琉球と台湾があり、そこに事件が起きる。「“こちらの国民である”琉球の住民が、“そちらの国民である”台湾の住民に殺害された。責任を果たしてほしい」という日本に対し、「台湾の住民は“こちらの国民ではない”」と答える清。つまり、琉球が日本に帰属するという主張には異議を唱えず、なおかつ台湾の清への帰属を否定したことになる。それならばと、日本は台湾へ出兵する。しばらくして、清もこれに気がついたのか、「“こちらの領土である”台湾に事前に交渉もなく出兵した」と厳しく抗議し、台湾からの撤兵を要求してくる。結局、交渉の末、日本の台湾出兵は琉球の保護であったと清は認め、清は台湾と引き換えに日本側へ賠償金を支払うことになった。この交渉によって、日本に琉球の保護責任があること、つまり琉球が日本に帰属していることを、清が承認したこととなり、1879(明治12)年には、琉球を沖縄県とし、日本の領土とした。
樺太千島交換条約
樺太は日本とロシアに両属する雑居地として、両国住民の間で紛争が頻発していた。日本はロシアとの衝突をさけるため交渉を重ねた結果、1875(明治8)年、日本が樺太をロシアに譲り、得撫島以北の千島列島をロシアが日本に譲渡する、樺太千島交換条約を結んだ。
また、1876(明治9)年には、小笠原諸島も日本の領土とした。


ロシアの脅威
明治の日本にとって最大の脅威はロシアであった。ロシアはカムチャッカ半島を領有し、1860年には沿海州を清から奪いウラジオストックに港を開いていた。もし、ロシアが南下を進め、不凍港を獲得するため朝鮮半島を植民地にするようなことになれば、次は日本が狙われる。1868(明治元)年、新政府樹立後ただちに日本は朝鮮に使節を送り、あらたな国交と通商を求めた。ところが、朝鮮は国書の受け取りを拒否したのである。国書の文面が気に入らないというのが理由だ。文面には、天皇の「皇」や「勅」といった文字が使われており、支那の皇帝のみが許される文字を使うとは、朝鮮を属国視するものだというのであった。もちろん、日本側にはそのような意図はない。朝鮮に説明し理解を求めたが、いっこうに国書を受け取ることはなかった。
中華思想
古来より、東アジアには中華思想、華夷秩序というものが存在した。「中華」とは、世界の中心、世界の華であり、支那の皇帝は世界を治める唯一の天子であって、周辺の国々は野蛮な「夷狄」であるというものだ。周辺の国々は、朝貢、つまり貢物を献上し、支那の皇帝に認められることにより、王として周辺の国々を治めることができる。このように支那の皇帝と君臣関係を結ぶ政治体制を冊封体制とよんだ。卑弥呼が魏の皇帝から金印を授かったといった話があるように、日本もかつては、この体制下にあった。しかし、日本は7世紀にこの体制から脱却した。

日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや

聖徳太子である。東アジアの情勢を巧みに利用し、隋の皇帝へ国書を送り、支那の皇帝と日本の天皇は対等の立場であると表明したのだ。
日本が中華思想から脱却したのに対して、朝鮮は支那の属国であり続けた。それどころか、世界の中心である支那にもっとも近い朝鮮は朝貢国の筆頭であり、支那に次ぐ国だという小中華思想を生み出したのである。
現在の日中関係、日韓関係を語る上でも、この中華思想、小中華思想は考慮されるべき要素である。
日清修好条規
朝鮮は日本との交渉を拒絶し続けた。そこで、朝鮮の宗主国である清との国交樹立を先にして、1871(明治4)年、日清修好条規を結んだ。この条約は、日本がアメリカに結ばされたような不平等条約と違い、対等な関係を定めた条約であった。
さて、日本がロシアの脅威から身を守るためには、なんとしても朝鮮が開国し、独立国として近代化してもらわなければならない。日朝交渉が遅々として進まぬことに業を煮やした日本政府は、軍艦雲揚号を朝鮮水域に派遣し、示威行動をとったのである。朝鮮は砲撃し、雲揚号も反撃する。この事件をきっかけに、日本は国交樹立を強く迫り、1876(明治9)年、日朝修好条規が結ばれ、長らく懸案であった朝鮮との国交が樹立した。


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