アヘン戦争
日本が江戸の平和を満喫していた頃、ヨーロッパの列強は、近代化にともなう国内の諸問題を解消する手段として、アジアやアフリカで植民地獲得の争奪戦を繰り広げていた。植民地の原住民は、人間として扱われず、奴隷として酷使され搾取され続けた。まさに、この時代は「弱肉強食」の時代であり、強いものが弱いものを征服するのが当たり前の時代であった。
日本と支那および朝鮮は、その列強の魔の手から逃れていた。一説によると、織田信長の時代に来日した宣教師が、「日本の国土は小さく資源が乏しいわりには、軍事力があり、勇敢である。日本がこうなのだから、支那はもっと強いはずだ」と本国に報告したことから、植民地として後回しにされたのだという話もある。
ところが、ある戦争をきっかけに事態は急変した。1840年、イギリスと清との間で起きたアヘン戦争である。紅茶の原料としてイギリスは、清から大量の茶を輸入していた。茶の代価として銀がイギリスから一方的に流出していくことを抑えるため、イギリスは植民地であるインドで麻薬の一種である阿片を生産し、それを清との貿易の対価に利用した。阿片は清で流行し、イギリスへ銀は再び流れ、清は経済危機となった。清は、阿片の販売、吸引を禁止するなどの対抗措置をとったが、イギリスは「自由貿易」を口実に清を攻め、アヘン戦争が始まった。イギリスの圧倒的な力の前に清は敗北し、香港を割譲することとなった。
隣国の出来事は、長崎の出島から「オランダ風説書」によって、ただちに幕府に知らされ、大きな衝撃として受け止められた。また、「海外新話」などにより、民衆にもアヘン戦争のようすが伝えられた。
ところが、清はこの出来事をあまり重大視していない。朝鮮は気がついてもいない。「眠れる獅子」が「張り子の虎」であると知った欧米の列強は、これをきっかけに支那大陸に進出してくるはずである。支那のつぎは朝鮮、そして日本である。日本が武士を中心とした武家国家であるのに対し、支那は文官が中心の官僚国家であったことが、意識の違いになったのだとされている。
開国
1853(嘉永6)年6月、日本に開国と通商を求める大統領の国書を携えたペリー提督率いる4隻の巨大な黒塗りの軍艦が、浦賀の沖合に姿を現した。アメリカは、支那大陸への貿易航路の中継点として、また捕鯨船の保護や補給のために、日本の湾港を利用したいと考えていた。
幕府としては鎖国を口実にアメリカの要求を拒否したいが、ペリーは武力をちらつかせ強硬である。江戸幕府が誕生して以来、平和な時代が長く続いていたこともあって、軍事力の差は歴然であった。
ペリーは、自身の手紙と白旗2本を幕府へ贈った。手紙には「もし日本が開国しなければ、アメリカは武力を持って日本を攻撃する。日本は防戦するがよい。戦争になれば勝つのはアメリカである。日本が降伏を乞うときには、この白旗を押し立てなさい。そうすれば和睦しましょう」と書かれていた。
幕府は国書を受け取り、ペリーは回答を得るため翌年もう一度訪れると告げて立ち去った。
1854(嘉永7)年1月、ペリーは7隻の軍艦を率いて再び来航した。幕府はアメリカの軍事力に屈するかたちで、3月に日米和親条約を締結し、開国となった。
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