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五箇条の御誓文
黒船来航以来、日本は欧米列強の軍事的脅威から独立をまもり、不平等条約改正のため、文明国の一員として認められる国家へ生まれ変わるということが悲願となり、ここから涙ぐましいほどの努力がはじまったのである。
1868年3月、明治天皇は五箇条の御誓文を発し、新しい国造りの基本方針を示した。
五箇条の御誓文
一、広く会議を興し、万機公論に決すべし
一、上下心を一にして、盛に経綸を行うべし
一、官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦まさらしめんことを要す
一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし
一、智識を世界に求め、大に皇基を振起すべし
岩倉使節団
1871(明治4)年、岩倉具視を団長に、木戸孝允、大久保利通らの米欧回覧使節団が派遣され、西洋文明を実地で見学し、学び取った。新政府の指導者みずからが、政府が誕生して間もないこの時期に、2年近くも留学をしたということは注目すべきことである。欧米と日本との差に愕然とし、追いつくためにすべきことを具体的に考えさせ、危機感を感じながらも、決意と覚悟を決めさせたのだった。
1872(明治5)年には学制が発布され、1873(明治6)年には徴兵令、地租改正と、近代国民国家としての基盤を固めた。
文明開化
明治維新は国民の意識や生活にも大きな変化を与えた。洋服を着て、牛肉を食べ、ガス灯が灯る街頭を馬車に揺られ、煉瓦造りの洋風建築の前を行き来する。多くの新聞や雑誌が発刊され、欧米諸国の生活や風俗、思想が紹介された。
この欧米列強による植民地争奪戦の時代、白色人種の攻勢に対して有色人種の示す態度には、いくつかあった。西洋文明を拒絶して反抗するか、殻に閉じこもり逃避を試みるか、あるいは恐れをなして抵抗すらできず諦めるか。また、白人の狡猾さに騙され内紛を引き起こし、そこをつけ込まれるか。いずれにせよ、それは白人の支配力をますます強める結果となったのである。
しかし、日本はそれまでの有色人種が考えもつかなかった道を選択するのであった。西洋文明を学び、それを消化し、使いこなすという道である。それを当然のように思われるかもしれないが、当時、白色人種は「自分たちは突出しており、進化した人種である」と本気で信じ、また、有色人種もそれを認めるに至っていたのである。日本は地理的に、外の世界から文化を取り入れ、日本らしい柔軟さで自国の文化と融合させ吸収していくことには豊富な経験があった。そして、この日本の挑戦が、今後の世界を大きく動かすことになるのであった。


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不平等条約
アメリカ総領事に着任したハリスは、新たに通商条約を結ぶことを要求し、1858(安政5)年、日米修好通商条約を締結した。この条約は、アメリカ人が日本国内で罪を犯しても日本が裁くことのできない治外法権を認め、アメリカからの輸入の際に日本が関税を自由に決定する権利である関税自主権のない不平等条約であった。つまり日本は、「おまえらのような国と対等な条約など結ぶわけがない」とアメリカから「半開国」の烙印を押されたのである。その後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと同様の条約が結ばれた。そして、この不平等条約改正こそが、明治新生国家の大きな課題となり、原動力となった。
徳川幕府の終焉
幕府がアメリカの脅しに屈し、朝廷の意向に反して開国をしたことに、武士のみならず庶民からも批判があがった。その批判の動きは、朝廷を尊び、外国を追い払おうとする、尊皇攘夷運動へと発展した。長州藩は下関海峡を通過していた外国船を攻撃し、攘夷を決行するが、その後、列強の連合艦隊に完膚なきまでに叩かれ無残な敗北を喫した。薩摩藩も、イギリス人を斬り殺した生麦事件の報復として、イギリス艦隊から攻撃を受け敗北した。このことで西洋文明の力を認識した両藩は、土佐藩の坂本龍馬の仲介により同盟を結び、強力な国家をつくるべく尊皇倒幕運動へと転化していった。
1867年、徳川慶喜は倒幕派の勢いが増し、政権を維持することが不可能であるとみて、征夷大将軍の地位を朝廷に返上した。これを大政奉還という。
朝廷は王政復古の大号令を発し、天皇を中心とした新政府を組織することを宣言した。
江戸時代は、戦国時代の頃のような戦いのない、安定した時代であったため、文化、学問、産業など、さまざまな分野が発展を遂げた。また、各地に寺子屋がつくられ、子供たちは「読み、書き、そろばん」を身につけ、民衆の教育水準は向上した。これらの要素が明治維新を成し遂げる大きな力になったことは言うまでもないが、その恩恵は現在のわれわれも、さまざまなかたちで享受しているのである。


アヘン戦争
日本が江戸の平和を満喫していた頃、ヨーロッパの列強は、近代化にともなう国内の諸問題を解消する手段として、アジアやアフリカで植民地獲得の争奪戦を繰り広げていた。植民地の原住民は、人間として扱われず、奴隷として酷使され搾取され続けた。まさに、この時代は「弱肉強食」の時代であり、強いものが弱いものを征服するのが当たり前の時代であった。
日本と支那および朝鮮は、その列強の魔の手から逃れていた。一説によると、織田信長の時代に来日した宣教師が、「日本の国土は小さく資源が乏しいわりには、軍事力があり、勇敢である。日本がこうなのだから、支那はもっと強いはずだ」と本国に報告したことから、植民地として後回しにされたのだという話もある。
ところが、ある戦争をきっかけに事態は急変した。1840年、イギリスと清との間で起きたアヘン戦争である。紅茶の原料としてイギリスは、清から大量の茶を輸入していた。茶の代価として銀がイギリスから一方的に流出していくことを抑えるため、イギリスは植民地であるインドで麻薬の一種である阿片を生産し、それを清との貿易の対価に利用した。阿片は清で流行し、イギリスへ銀は再び流れ、清は経済危機となった。清は、阿片の販売、吸引を禁止するなどの対抗措置をとったが、イギリスは「自由貿易」を口実に清を攻め、アヘン戦争が始まった。イギリスの圧倒的な力の前に清は敗北し、香港を割譲することとなった。
隣国の出来事は、長崎の出島から「オランダ風説書」によって、ただちに幕府に知らされ、大きな衝撃として受け止められた。また、「海外新話」などにより、民衆にもアヘン戦争のようすが伝えられた。
ところが、清はこの出来事をあまり重大視していない。朝鮮は気がついてもいない。「眠れる獅子」が「張り子の虎」であると知った欧米の列強は、これをきっかけに支那大陸に進出してくるはずである。支那のつぎは朝鮮、そして日本である。日本が武士を中心とした武家国家であるのに対し、支那は文官が中心の官僚国家であったことが、意識の違いになったのだとされている。
開国
1853(嘉永6)年6月、日本に開国と通商を求める大統領の国書を携えたペリー提督率いる4隻の巨大な黒塗りの軍艦が、浦賀の沖合に姿を現した。アメリカは、支那大陸への貿易航路の中継点として、また捕鯨船の保護や補給のために、日本の湾港を利用したいと考えていた。
幕府としては鎖国を口実にアメリカの要求を拒否したいが、ペリーは武力をちらつかせ強硬である。江戸幕府が誕生して以来、平和な時代が長く続いていたこともあって、軍事力の差は歴然であった。
ペリーは、自身の手紙と白旗2本を幕府へ贈った。手紙には「もし日本が開国しなければ、アメリカは武力を持って日本を攻撃する。日本は防戦するがよい。戦争になれば勝つのはアメリカである。日本が降伏を乞うときには、この白旗を押し立てなさい。そうすれば和睦しましょう」と書かれていた。
幕府は国書を受け取り、ペリーは回答を得るため翌年もう一度訪れると告げて立ち去った。
1854(嘉永7)年1月、ペリーは7隻の軍艦を率いて再び来航した。幕府はアメリカの軍事力に屈するかたちで、3月に日米和親条約を締結し、開国となった。


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