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日本の戦後

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ぬぐうべからざる文明の汚辱である
1952(昭和27)年12月9日、第15回国会、衆議院本会議において田子一民議員ほか58名提出、自由党、改進党、左右両派社会党、無所属倶楽部の共同提案による「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が圧倒的多数で可決された。

わが国は、平和条約の締結によつて独立国となつて、すでに半歳以上をけみしておるのであります。国民の大多数は、独立の喜びの中に、新生日本の再建に努力しております。この際、このとき、この喜びをともにわかつことができず、戦争犯罪者として、あるいは内地に、あるいは外地に、プリズンに、また拘置所に、希望なく日を送つておりますることは、ひとり国民感情において忍び得ざるのみならず、またさらに国際友好上きわめて遺憾に存ずるところであります。
およそ戦争犯罪の処罰につきましては、極東国際軍事裁判所インド代表パール判事によりまして有力な反対がなされ、また東京裁判の弁護人全員の名におきましてマツカーサー元帥に対し提出いたしました覚書を見ますれば、裁判は不公正である、その裁判は証拠に基かない、有罪は容疑の余地があるという以上には立証されなかつたとあります。東京裁判の判定は、現在あるがままでありましたならば、何らの善も生まず、かえつて悪に悪を重ねるだけであると結論づけておりますことは、諸君のすでに御承知の通りであります。また外地における裁判について申し上げましても、裁判手続において十分な弁護権を行使し得なかつた関係もあり、また戦争当初と事件審判との間には幾多の時を費しまして、あるいは人違い、あるいは本人の全然関知しなかつた事件もあると聞いておるのであります。
英国のハンキー卿は、その著書において、この釈放につき一言触れておりますが、その中に、英米両国は大赦の日を協定し、一切の戦争犯罪者を赦免すべきである、かくして戦争裁判の失敗は永久にぬぐい去られるとき、ここに初めて平和に向つての決定的な一歩となるであろうと申しておるのであります。かかる意見は、今日における世界の良識であると申しても過言ではないと存じます。
かくして、戦争犯罪者の釈放は、ひとり全国民大多数の要望であるばかりでなく、世界の良識の命ずるところであると存じます。もしそれ事態がいたずらに現状のままに推移いたしましたならば、処罰の実質は戦勝者の戦敗者に対する憎悪と復讐の念を満足する以外の何ものでもないとの非難を免れがたいのではないかと深く憂うるものであります。
(田子一民議員)

かつての極東裁判の判事であり、しかも日本の無罪を主張いたしましたインドのパール博士は、去る11月11日に、巣鴨の拘置所において、戦犯に対して、あくまでも正義を主張してやまない人間の真実の叫びとして、大要左のようなあいさつをされたのであります。「すべて、裁判官の真諦は、人間の心の中に法の公正さに対する信頼感をもたらすことにある。その意味で、今次戦争最大の損失、最大の災害は、法的正義に対する信頼感の破壊にあつた。法律家の中には、連合国のつくつた法は、敗者である皆さんのみを対象としたものであつて、彼ら自身もしくは一般人類に適用されないものであるということを告白している。もしそれが真実ならば、そこに生れたものは法律ではなく、そこに成り立つたものは正義ではない。ここにおられる皆さんは可能なる最悪の不公正の犠牲者である。英国において上層部の間に論争が行われている。そのうちのある者は、戦犯條例によつて定められた法は、ドイツ人を、あるいは日本人を対象とした法であつて、一般社会に適用されるべきものでないことを認めている。連合国は一体どこから権利を得てこれらの法律をつくり、それを適用し、それによつて判決を下し得たのであろうか。」というあいさつをされておるのであります。
占領中、戦犯裁判の実相は、ことさらに隠蔽されましてその真相を報道したり、あるいはこれを批判することは、かたく禁ぜられて参りました。当時報道されましたものは、裁判がいかに公平に行われ、戦争犯罪者はいかに正義人道に反した不運残虐の徒であり、正義人道の敵として憎むべきものであるかという、一方的の宣伝のみでございました。また外地におきまする戦犯裁判の模様などは、ほとんど内地には伝えられておりませんでした。国民の敗戦による虚脱状態に乗じまして、その宣伝は巧妙をきわめたものでありまして、今でも一部国民の中には、その宣伝から抜け切れないで、何だか戦犯者に対して割切れない気持を抱いている者が決して少くないのであります。
戦犯裁判は、正義と人道の名において、今回初めて行われたものであります。しかもそれは、勝つた者が負けた者をさばくという一方的な裁判として行われたのであります。戦犯裁判の従来の国際法の諸原則に反して、しかもフランス革命以来人権保障の根本的要件であり、現在文明諸国の基本的刑法原理である罪刑法定主義を無視いたしまして、犯罪を事後において規定し、その上、勝者が敗者に対して一方的にこれを裁判したということは、たといそれが公正なる裁判であつたといたしましても、それは文明の逆転であり、法律の権威を失墜せしめた、ぬぐうべからざる文明の汚辱であると申さなければならないのであります。
(山下春江議員)

私は、社会党を代表いたしまして、ただいまの提案に賛意を表するものでございます。
平和条約が成立して相当の日時を経過いたしましたけれども、いまだに戦犯は釈放されないのであります。平和条約によりまして、わが国は国際憲章並びに世界人権宣言の履行を約束いたしました。しかるに、戦争が最も大きな犯罪でありますることは、われわれがここに強調をする必要がございません。戦争が残虐であるということを前提として考えますときに、はたして敗戦国の人々に対してのみ戦争の犯罪責任を追究するということ、言いかえまするならば、戦勝国におきましても戦争に対する犯罪責任があるはずであります。しかるに、敗戦国にのみ戦争犯罪の責任を追究するということは、正義の立場から考えましても、基本人権尊重の立場から考えましても、公平な観点から考えましても、私は断じて承服できないところであります。特にB、C級の戦犯に対しましては、その行為が残虐であつたということによつて、いまだに釈放されておらぬのでございますけれども、戦争が残虐であることは、私どもがただいま申し上げた通りであります。
世界の残虐な歴史の中に、最も忘れることのできない歴史の一ページを創造いたしたものは、すなわち広島における、あるいは長崎における、あの残虐な行為であつて、われわれはこれを忘れることはできません。この世界人類の中で最も残虐であつた広島、長崎の残虐行為をよそにして、これに比較するならば問題にならぬような理由をもつて戦犯を処分することは、断じてわが日本国民の承服しないところであります。
(古屋貞雄議員)


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戦犯釈放運動
1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は晴れて独立を回復、「戦後」は始まったのであった。
サンフランシスコ講和条約第11条には、関係国の同意なくして日本政府が戦犯受刑者を釈放してはならないと規定されていたため、巣鴨、フィリピンのモンテンルパ、オーストラリアのマヌス島には1224名もの人々が引き続き服役していた。
それを知った国民は、彼らを早急に釈放させようと、6月5日から全国で「戦犯受刑者の助命、減刑、内地送還嘆願」の署名運動を開始した。6月7日には日本弁護士連合会が「戦犯の赦免勧告に関する意見書」を政府に提出した。
署名運動は急速に広がり、地方自治体によるもの2千万、日本健青会をはじめとする各種団体によるもの2千万、合計でおよそ4千万もの署名が集まった。
これを受けて、政府は国内で服役中の戦犯の仮釈放および諸外国で服役中の戦犯を日本へ送還する措置について、関係各国と折衝を開始した。
米大統領への要請書
1952(昭和27)年7月、日本健青会の末次一郎氏は渡米し、トルーマン大統領に戦犯受刑者の釈放に関する要請書を提出した。

私は祖国日本の完全なる独立と真実の世界平和とを希求する青年の立場から、今次戦争における戦争犯罪人として今猶獄舎にある人々の全面的釈放の問題について、我々の強い要請を披瀝するものである。
今次戦争における所謂、戦争犯罪処断の目的は、一つには人類の世界から戦争を消滅させようとする人間の善意の祈りであろうが、然し一つには勝者の敗者に対する懲罰の一つの形式であったと思う。
従ってこの所謂、政治目的を背後に蔵した戦争裁判の結果は、或は全く無実の人々を多数苛酷な罪名の下に拘束し、或は裁判の行われたる時期によって罪名の軽重甚だしく、或は文明と人道の名の下に敗者のみが一方的に裁かれるという数々の不当な事実が発生して来たのである。
この様な重大な問題が、講和条約におけるとりきめが甚だしく不備であったために、条約発行後数ヶ月を閲したる今日、猶未解決の儘放置されて居り、かえって連合軍占領期間中に行われて居た仮出所の制度すらも、日本の管理に移されると共に之が停止を命ぜられるという逆現象さえ呈しているのである。このことは、講話成立と同時に戦争犯罪を全面解決した歴史上の先例から考えても、又上述した如き今次裁判の極めて特異な性格から見ても、講話成立と同時に当然全面釈放が行われるものと期待した我々日本国民に、甚しい失望と不満を与え、殊に無実の罪に拘束されている多くの人々に激しい憤りをさえ持たせるに至って居る。アメリカの良識を代表される閣下が、もしも現在巣鴨に拘置中の米国関係者427名に対して、全面釈放の措置を断行されるとすれば、我々日本人が最も心を痛めている、比島の死刑囚59名の助命、並びに同島にある111名の拘置者及び濠洲マヌス島にある206名の日本人の内地送還についても、必ず喜ぶべき結果が齎されるであろうと確信する。
我々は、この戦争裁判の背景にある政治目的は完全に達せられたと確信するが故に、且又この現状が日米両国民の親善を阻害するのみならず、共産主義者たちに逆用の口実を与えることを虞れるが故に、猶又この問題は講話発効と同時に解決されるのが至当であって、個別審査によって事務的に減刑等を行うという如き姑息なる手段によって解決すべきでないと信ずるが故に、更に日本国民は、この解決によって始めて真に平和国家の建設に邁進し得ると確信するが故に、閣下が、米国関係の全戦犯者に対する即時釈放を断行されんことを、茲に強く要請するものである。

1952(昭和27)年8月、日本政府はBC級戦犯の赦免勧告を関係各国に要請、10月にはA級戦犯を含む全戦犯の赦免、減刑を要請した。
11月13日、アメリカ政府はワシントンの日本大使館に対し、A級戦犯に関する赦免、減刑、仮出所などの処置を協議するため、東京裁判に参加した連合国との間で近く話し合いを始める考えであることを通告した。


中国の旅
向井敏明、野田毅の両氏は、「百人斬り競争」により捕虜と非戦闘員を殺害した戦争犯罪人として、南京の雨花台で銃殺刑に処せられた。
向井敏明氏の次女、千恵子氏は、「戦犯の子供」という世間の冷たい視線を浴び、貧しい生活に耐えながらも、就職、結婚と、その人生を必死に歩み続けた。
1971(昭和46)年、朝日新聞は本多勝一記者の「中国の旅」の連載を開始した。そして、この「中国の旅」が、千恵子氏の人生をさらに狂わせることになるのであった。
本多記者は、創作記事である「百人斬り競争」を、中国人の伝聞として、あたかも真実であるかのように大々的に取り上げた。そこには、上官の命令により「殺人ゲーム」が繰り返され、非戦闘員である中国人が、向井、野田という殺人鬼によって殺害されたという物語が描かれていたのである。
「中国の旅」は単行本化され、ベストセラーとなった。千恵子氏の職場ではいろいろと囁かれるようになり、家庭内もギクシャクするようになった。そして、夫までもが千恵子氏を「人殺しの娘だ」と責め立てるようになり、ついに家庭は崩壊し、離婚へと至るのであった。
「バカヤロー、人間のクズめ!」
千恵子氏は、1988(昭和63)年から、南京にある記念館へと足を運ぶようになり、展示コーナーのパネルとなった父と対面する「中国の旅」を始めた。
1997(平成9)年、宮城県教組などの教育研究機関が作成した授業プランに沿って、仙台市内の小学校で東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事が授業の副教材として使われていたことが報じられた。
小学6年生の女の子は授業の感想を次のように書き、教師から三重丸をもらっている。

ちょっとひどすぎるよ、日本も! おーい 野田さーん 向井さーん
バカヤロー 人で遊ぶんじゃねー! コラー オラー 人間のクズめ!
日本のはじ! フー すっきりした!
ちょっと頭おかしいんじゃない。のう神けい外科にでも行ってみてもらったら?
中国の人達がかわいそう

2003(平成15)年、千恵子氏ら遺族は、毎日新聞、朝日新聞、本多勝一氏らを相手に、謝罪広告の掲載などを求め、提訴に踏み切った。すると、中国政府から突然ビザが下りなくなり、千恵子氏の旅は妨げられるようになった。
「日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです」としてこの世を去った向井敏明、野田毅の両氏は、パネルの前を通り過ぎる日本からの修学旅行生の姿に何を思うのであろうか。


百人斬り“超記録”
1947(昭和22)年12月、南京で戦犯裁判が開かれ、捕虜と非戦闘員を殺害した戦争犯罪人として、向井敏明、野田毅は死刑を言い渡された。そして、その唯一の証拠とされたのが、1937(昭和12)年、毎日新聞の前身である東京日日新聞の浅海一男記者が、戦意高揚のために創作した「百人斬り競争」という記事であった。

南京入りまで“百人斬り競争”といふ珍競争をはじめた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。
野田「おいおれは百五だが貴様は?」向井「おれは百六だ!」・・・・・・両少尉は“アハハハ”結局いつまでにいづれが先に百人斬つたかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう。だが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。十一日昼中山陵を眼下に見下す紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語つてのち、
知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは、一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや。戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ。十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶり出されて弾雨の中を「えいままよ」と刀をかついで棒立ちになつてゐたが一つもあたらずさ。これもこの孫六のおかげだ。 と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸つた孫六を記者に示した。
(東京日日新聞、昭和12年12月13日付)

日本刀で数人も斬れば、どんな名刀であれ使い物にならなくなり、「鉄兜もろともに唐竹割」など到底不可能なことである。まして、向井は砲車小隊長、野田は大隊副官であり、白兵戦とは無縁であった。
辞世
向井氏らの家族は、記事を書いた浅海記者に、記事は創作であったということを明らかにして欲しいと頼むが、本人たちから聞いたことを自分は書いただけだとし、向井、野田の行為は捕虜や非戦闘員へのものではないとしながらも、創作であるという事実を認めようとはしなかった。
1948(昭和23)年1月28日、向井、野田の両氏はトラックの荷台に乗せられ、多くの罵声を浴びながら雨花台へと連行され、無数の銃弾を頭部に受け、処刑された。

我は天地神明に誓い 捕虜住民を殺害せる事全然なし 南京虐殺事件等の罪は 絶対に受けません 死は天命と思い日本男士として 立派に中国の土になります 然れ共魂は大八州島に帰ります 我が死を以て中国抗戦八年の 苦杯の遺恨流れ去り 日華親善 東洋平和の因とも なれば捨石となり幸ひです 中国の御奮闘を祈る 日本の敢奮を祈る 中国万歳 日本万歳 死して護国の鬼となります 天皇陛下万歳
(向井敏明)

南京大虐殺の罪名は絶対にお受けできません。お断りします。我々の死が中国と日本の楔となり両国の提携となり、ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。何卒、我々の死を犬死、徒死たらしめないよう、これだけを祈願いたします。中国万歳 日本万歳 天皇陛下万歳
(野田毅)

その後、野田氏の獄中記が発見され、浅海記者が「記事は一切記者に任せて下さい」と持ちかけたものであることがわかった。また、不注意によって事実無根の虚報が出たことは自分らの責任であるとし、法廷を煩わし、世間を騒がしたことを詫びている。


Mirror for Americans: JAPAN
占領が終わらなければ、日本人は、この本を日本語で読むことはできない。
(ダグラス・マッカーサー、1949年8月6日付書簡)

1948(昭和23)年、ヘレン・ミアーズ著『Mirror for Americans: JAPAN』はアメリカで出版された。占領下の日本では、GHQにより同書の翻訳出版が禁止され、占領が終了した1953(昭和28)年、邦題『アメリカの反省』(原百代訳)は、ようやく出版されることとなった。そして1995(平成7)年、『アメリカの鏡・日本』(伊藤延司訳)が出版されると、同書は大きな反響を呼ぶこととなる。
東洋学の研究者であり、日本や支那での滞在経験のあるミアーズは、1946(昭和21)年、GHQに設置された労働局諮問委員会のメンバーとして来日し、労働基本法の策定に参加。アメリカに帰国した後、同書を書き上げたのだった。

1946年、アメリカ人は日本人の生殺与奪の権を握り、日々決定を下している。その決定は何世紀にもわたって、間違いなく日本の発展を左右するものである。アジアの発展にもかかわるものである。
ところが、これほどの強権に備えて、私たちが十分な用意をしてきたとはいえなのである。
アメリカ人が日本社会を「改革」する能力をもっていて「われわれが考える」ように日本を変えるというなら、私たちがどういう日本を考えているのか、だけでなく、日本はどうであったかも明確かつ具体的に知っていなければならない。

ミアーズは、国際情勢の変化と国際法、日本経済、日本の歴史、文化、伝統を具体的かつ公平に分析し、「いったい私たちは公正な裁判官を自任できるほど潔白で聡明なのか」、「日本人は本当に世界征服の野望を抱く野蛮で侵略的な民族なのか」といった疑問を明快な論理で解き明かしていく。ミアーズは「日本を『改革』しようとしている私たちが裁いているのは、日本人ではなく私たち自身なのだ」と断言し、占領政策の矛盾をつくのだった。

改革はむしろ西洋化された日本、1853年以来発展してきた制度を対象にしているのだ。この制度は、今日、日本の伝統的侵略性を非難している欧米諸国が、初めて日本を「占領、改革」した結果として、できあがったものなのだ。

さらにミアーズは、新渡戸稲造の次の言葉を引用し、韓国併合、満州事変、そして支那事変における、アメリカの二重基準を厳しく指摘する。

私たちはアメリカから多くのこと、とくに、隣接地域の不安定政権にどう対処するかを学んできた。そして、学んだことを実行すると、先生から激しく叱られるのである。

東京裁判の判決が下された1948(昭和23)年という時期に、GHQの内部の情報に直接触れた人物が、冷静でありながらも痛烈に母国であるアメリカに反省を促す同書は、我々に過去だけではなく、現在、さらには未来を考えさせる一冊である。そして、戦後の一方的な歴史観、価値観を打ち破る一冊、「私たちの鏡・日本」なのである。


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