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オウム・死刑執行

オウム・死刑執行


オウム真理教の麻原教祖ら7人の死刑が執行された。

私のオウム事件に対する印象は、麻原教祖の俗っぽさと信徒たちの純真さがないまぜになり、何でエリートとも言える優秀な連中が「虚像でしかない麻原の夢」に騙されていったのか、誠に不可解な出来事というものであった。

私が、麻原が俗っぽいと思ったのは、1990年に衆議院選挙で落選し「票が操作された。国家による宗教弾圧だ」と落選理由を国家に向けておきながら、その後オウムが敵としたものは国家ではなく、物理的に弱く無防備な一般社会に向けられたことであった。94年6月の松本サリン事件、95年3月の地下鉄サリン事件がそうである。

そして95年5月の逮捕時の姿・・・現金960万円と食料を持って自分だけは助かろうと隠し部屋に小さくなって隠れていたこともある。まるでコソ泥の姿である。

裁判でも、「地下鉄サリン事件は幹部たちにストップをかけたが、彼らに負けてしまった」(第34回公判)と言い「私は完全に無罪だ」(第62回公判)と主張していた。トップとして無責任であり、卑怯であり、嘘つきでもある。

幹部であった井上死刑囚は死刑執行前の6月25日に面会した支援者の一人に「一人のカリスマを絶対的に正しいと信じることは間違いだった。自分も絶対的に正しい人になりたいと思ってしまった」と事件を振り返って言ったという。井上死刑囚は高校2年の時、当時のバブルに踊る社会に「俺たちは本当に幸せなのか」と疑問を持ち入信した経過を持つ人で、動機の純真さを見をることができる。

麻原は1990年の選挙に落選し、社会の人気も承認も得ることが出来ず・・・一般社会を逆恨みするようになった・・・。
気の小ささから公私混同し、「私怨」を「公憤」に着色して信徒に信じさせ、従わない者は「ポア」と称して殺してしまう…。

改めて思うのは、政治の相対性と宗教の絶対性の本質的相克である。
相対性は複数の中で生きようとするが、絶対性は一つしか許そうとしない…。
麻原は「日本の王になる」と言ったというが、政治の世界と宗教の世界の違いには無知であったと言える。
宗教は自己完結的であるが、政治は双方向である。

選挙には出たが、政治戦略・・・誰を味方とし誰を敵とみなすのか…をどう考えていたのか・・・政治目標は何であったのか…政策は何かあったのか…。
「世直し」などと言うが、すべてが疑問であった。

それでも麻原に付いていった人たち・・・側近だった死刑囚の中には、後世のためにももっと話を聞くべきではなかったかと思う人もいた・・・が、終わった。

麻原の遺骨・・・引き取り争いがあるようだが、後継集団が三つもあるということとともに、相変わらず不可解なことが続く世の中ではある。

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オウムは破防法の適用団体にすべきでした

残念です

2018/7/11(水) 午前 0:15 [ アグリOMA ] 返信する

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> アグリOMAさん

私も同意します。

宗教の絶対性を政治に持ちこむと、碌なことはありません。

2018/7/13(金) 午前 11:30 [ 帝王の涙 ] 返信する

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