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太平天国の乱と洋務運動


太平天国の乱(たいへいてんごくのらん)は、朝の中国で、1851年に起こった大規模な反乱。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起きた。長髪賊の乱ともいわれる。


1851年 - 1864年清
太平天国の国旗太平天国の国章
(国旗)(国章)
太平天国の位置
赤が太平天国の主要支配地域

交戦勢力 指導者・指揮官 戦力 損害
Battle of Tongcheng.jpg
戦争中国代に起きた大規模な宗教反乱
年月日1851年1月 - 1864年8月
場所:中国南部
結果:清による鎮圧
太平天国清軍
洪秀全曽国藩
正規兵 200–500万人正規軍 100–300万人
数十万人以上数十万人以上。民間人犠牲者を含め、死者総数は2,000万人以上


拝上帝会の興隆


広東省花県客家出身である洪秀全は、度々院試(科挙の初期段階)に失敗したため、約40日間病床に臥せっていたが、その間不思議な夢を見たという。その夢とは上帝ヤハウェと思われる気品漂う老人から破邪の剣を与えられ、またイエスらしい中年の男から妖を斬る手助けを受けたというものだった。

洪秀全は病が癒えてから広州に受験で訪れた際、そこでプロテスタントの勧誘パンフレット『勧世良言』を入手し、以前に見た不思議な夢の意味を「理解」し、キリスト教に目覚めることになる。この不思議な夢とキリスト教の接合は、ロバート・モリソンが聖書を翻訳する際にゴッド(God)を音で表記せず、「上帝」という訳語を与えた為起こったと思われる。

洪秀全はキリスト教の教えの中でも特に上帝が唯一神であることを強く意識し、偶像破壊を熱心に行った。元々多神教的な土地柄である中国では儒教道教仏教にまつわる廟が多かったが、それらを破壊し、ただ上帝だけをあがめることを求めた。そのため郷里広東省での布教活動は一族と数人の賛同者を得ただけで成功しなかった。洪秀全は効果的な布教方法を模索せざるを得ず、「原道救世歌」や「原道醒世訓」という布教文書を著した。

1847年、太平天国の前身組織拝上帝会広西省桂平県金田村に創設した。この地において数少ない賛同者の1人であった馮雲山が布教活動を行い約3千人の信徒を獲得し、洪秀全を迎えて立ち上げたものである。拝上帝会の参加者は、炭焼き・貧農・鉱山労働者・客家などの低階層が中心であった。郷里花県で成功せず、この桂平県で成功した大きな理由の一つに病調伏等の現世利益重視の布教がある。

単なる宗教的熱意や倫理を説くばかりでなく、現在の生活でのメリットを強調することで馮雲山は多くの信徒を獲得したのである。しかし組織の拡大は、公権力やその土地の有力者との摩擦を生じさせた。馮雲山をはじめ拝上帝会の成員の逮捕が相次ぎ、洪秀全はそれまでの宗教活動から政治革命へと踏み出すことを決意する。

1850年、拝上帝会は金田村に集結して団営という軍事組織を結成した。そこでは厳しく男女を別ち、それぞれ男営・女営に入営させた。これ以前より鵞鳥の鳴き声でカモフラージュしながら、鉄砲や大砲等の武器を密造し、革命の準備を進めていたが、金田村に集結する過程で清朝の軍隊や自警団との小競り合いが発生した。金田村に集結した人々は1万から2万といわれるが、このうち成年男子は3千人ほどだったという。しかしそれでも数倍もある清軍を打ち破り、革命の火蓋を切った(金田蜂起)。


洋務運動(ようむうんどう)は、中国朝末期(1860年代前半 - 1890年代前半)、ヨーロッパ近代文明の科学技術を導入して清朝の国力増強を目指した運動。自強運動(じきょううんどう)とも。清朝の高級官僚であった曽国藩李鴻章左宗棠劉銘伝張之洞らが推進者。

福建省福州の造船所・福州船政局


内容[ソースを編集]

漢陽の兵器工場
それまでの中国は、対外関係において儒学に基づいた華夷秩序を形成していた。そのため、ヨーロッパにおける主権国家体制と異なり、条約を通じた対等な国際関係を形成しなかった。対等な外交事務を正式に行う役所は存在せず、こうした業務は主に理藩院の管轄に置かれ、「夷務」と称された。しかし、アロー戦争の敗北により主権国家体制に組み込まれたことで、外交を管轄する総理各国事務衙門(総理衙門)が設置された。また、天津条約により公文書などに「」の字の使用が認められなくなったため、「夷務」という表現も「洋務」と改められた。

運動の第一段階は太平天国を鎮圧することであり、大量の銃砲や軍艦を輸入するだけでなく、ヨーロッパの近代軍備を自前で整備するために、上海江南製造局に代表される武器製造廠や造船廠を各地に設置した。他にも、電報局・製紙廠・製鉄廠・輪船局や、陸海軍学校・西洋書籍翻訳局などが新設された。

これらの改革は、時期の早さでも規模の大きさでも日本の明治維新にまさっていた。たとえば日清戦争以前、1888年に編成された中国の北洋艦隊(北洋水師)は規模や質において日本海軍を上回りアジア最大の艦隊であった。長崎事件甲申政変では、日本は清に外交的、軍事的に敗北している。



洪秀全

洪秀全 王朝 在位期間 都城 姓・諱 生年 没年 父 母 皇后
太平天国
初代「天王」
Hong Xiuquan.jpg
1860年頃に描かれた肖像画
太平天国
1851年 - 1864年
天京
洪火秀→仁坤→秀全
嘉慶18年12月10日
1814年1月1日
同治3年4月27日
1864年6月1日
洪鏡揚
王氏
頼蓮英[1]
洪 秀全(こう しゅうぜん、拼音hóng xìu qúan)は代の亂党キリスト教を基にした宗教教団、拝上帝会を興し天王を自称、南京を首都として清に反旗を翻し、国号を「太平天国」とした(太平天国の乱)。


洪 秀全(こう しゅうぜん、拼音hóng xìu qúan)は代の亂党キリスト教を基にした宗教教団、拝上帝会を興し天王を自称、南京を首都として清に反旗を翻し、国号を「太平天国」とした(太平天国の乱)。









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日本を激怒させ国民党政府軍と戦争をさせる為に、中国保安隊によって日本人婦女子を含む二百二十三人が残虐に虐殺された「通州事件」や、「大山大尉惨殺事件」、更には、国民党政府軍に潜入していたコミンテルンのスパイである南京上海防衛隊司令官の張治中の謀略によって、上海に合法的に駐留していた日本海軍陸戦隊四千二百人に対して、三万人の国民党政府軍が総攻撃を仕掛けた第二次上海事変を起こすなど、中国は日本に対して次々に挑発を繰り返し、それまで自重し冷静な対応を取っていた日本も、中国との全面戦争を余儀なくされたのであり、不当に日本が中国を侵略したわけではない。

(中略)そもそも既に南京を攻略した日本軍にとって、南京で虐殺行為をする理由はない。

一方、通州事件や大山大尉惨殺事件、第二次上海事件などでの日本人に対する残虐行為には、日本軍を挑発し、国民党政府軍との戦争に引きずり込むというコミンテルンの明確な意図があったのである。

アパより

2017/2/18(土) 午後 0:08 [ 日中国交正常化45年南京80年に学ぶ ]


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