|
松井石根蒋介石への不信一方、米勢力に接近し反日、排日の色を濃くする蒋介石の国民党政府に対して不信感を抱くようになった。加えてこの時期、中国共産党が華南地域に勢力を拡大していたが、この動きに歯止めをかけることのできない国民党について、松井は批判的な姿勢を強めていた。国民党政府が、リットン調査団の報告書を嬉々として受け入れたことについても不満を募らせた。当時、松井は次のように述べている。
陸軍内部では統制派を中心に「中国一撃論」が盛んに説かれるようになっていた。日本への敵対視を続ける中国側の動向は看過できず、それならば蒋介石政権の政治基盤が脆弱な今の内に、一気に叩いておこうという論である。国民党政府に対する不信を濃くする松井は、徐々に「中国一撃論」へと傾いていった[3]。
西南の旅昭和11年(1936年)2月3日、蒋介石との関係を取り戻すために、田中正明を伴って「西南の旅」に出発した[5]。広東・広西で胡漢民、陳済堂、李宗仁、白崇禧ら西南派の指導者らと会談、さらに3月14日南京で蒋介石、何応欽、張群らと会談している。蒋介石との会談は1時間半に及んだが、ほとんどが松井と蒋介石二人だけの押し問答に終わった。
最後に二人は、孫文のアジア主義の遂行で互いに了解し合って別れた。しかし、別れぎわに蒋介石は松井に対し「今後は部下の張群と話をしてくれ」と失礼な言動をしたため、松井の顔が瞬間くもったという。(田中正明の言)[7]
日中戦争(支那事変)の上海戦昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋事件により日中戦争(支那事変)勃発。同年7月29日通州事件、8月9日大山事件(上海)が発生。同年8月13日第二次上海事変が勃発すると、予備役の松井に8月14日陸軍次官から呼び出しがかかった。8月20日上海派遣軍司令官として2個師団(約2万)を率いて、20万の中国軍の待つ上海に向けて出港した。
参謀本部は戦闘を上海とその周辺地域だけに限定していたが、松井は2個師団ではなく5個師団で一気に蒋介石軍を叩き潰し、早く和平に持ち込むべきだと考えていた。8月23日上海派遣軍は上陸を開始したが、上陸作戦は難渋をきわめた。
11月5日、柳川平助中将率いる第10軍は杭州湾上陸作戦を敢行、これを成功させて、状況は日本軍に有利になってきた。しかし、第10軍は松井の指揮系統下にはなかった。11月12日上海は陥落したが、日本軍の死者は1万人近くに及んだ。
南京戦ところが、11月19日第10軍は独断で(松井の指揮権を無視して)「南京攻略戦」を開始した。松井は制止しようとしたが間に合わず、第10軍の暴走を追認した。11月28日、参謀本部はついに南京攻略命令を発した。
12月7日、松井は南京攻略を前に「南京城攻略要領」(略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む)を兵士に示した(蒋介石はこの日の内に南京を脱出)。12月9日、日本軍は「降伏勧告文」を南京の街に飛行機で撒布した。翌日、降伏勧告に対する回答はなく、南京総攻撃が始まった。
13日、南京陥落。
17日、松井、南京入城。翌日慰霊祭の前に、各師団の参謀長らを前に、松井は彼らに強い調子で訓示を与えた。
松井は「軍紀ヲ緊粛スヘキコト」「支那人ヲ馬鹿ニセヌコト」「英米等ノ外国ニハ強ク正シク、支那ニハ軟ク以テ英米依存ヲ放棄セシム」などと語ったという。松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮の思想を念を押すようにして戒めた(上海派遣軍参謀副長の上村利道の陣中日記より)[3]。後の東京裁判における宣誓口述書では、一部の兵士による軍規違反の掠奪暴行は認めたものの、組織的な大虐殺に関しては否定している[10]。
一方、トラウトマン工作は成功しつつあったが、南京占領後に蒋介石はトラウトマンの提案を拒否したため、工作は頓挫した。しかし、松井はこの時期に蒋介石が信頼していた宋子文を通じて、独自の和平交渉を進めようとしていた[11]。
だが、昭和13年(1938年)1月16日近衛文麿首相の「蒋介石を対手とせず」宣言(近衛声明)ですべては終わった。松井は軍中央から中国寄りと見られ、考え方の相違から更迭され、2月21日に上海を離れて帰国し、予備役となった[5]。
昭和13年3月に帰国。静岡県熱海市伊豆山に滞在中に、今回の日中両兵士の犠牲は、アジアのほとんどの欧米諸国植民地がいずれ独立するための犠牲であると位置づけ、その供養について考えていた。滞在先の宿の主人に相談し、昭和15年(1940年)2月、日中戦争(支那事変)における日中双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝観音経をあげていた[12]。
興亜観音(熱海、伊豆山) 太平洋戦争(大東亜戦争)期から終戦まで軍籍を離れた松井は「大亜細亜協会」会頭として、アジア主義運動を展開し、国内各所での講演活動を行っていた。対米英開戦後の1月、松井は「思想国防協会」会長となり、日米開戦の意義や東南アジア占領地における興亜思想の普及について述べている。
1942年6月、松井は大亜細亜協会会頭として国外視察に出かけ、上海~南京~台湾~広東~海南島~仏印~タイ~ビルマ~マレーシア、スマトラ島~ジャワ島~セレベス島~フィリピンを訪れ、大東亜共栄圏確立の重要性を説いた。南京では汪兆銘と、ビルマではバー・モウ、シンガポールではチャンドラ・ボースとそれぞれ会談している。
帰国後の松井は、栄養失調から風邪をこじらせ、軽い肺炎を起こした。敗戦までの間、松井は仏門に励み、朝昼の二回、近くの観音堂に参拝するのが日課だった。
|
全体表示
[ リスト ]


