武田邦彦 (中部大学)■■■ 論文・まとめシリーズ 2012年03月25日
南京事件(2)・・・国民同士の信頼関係を築くために名古屋の河村市長が「日中友好のために、南京事件のことを明らかにしたい」と発言したことで波紋を呼び、このブログでも取り上げた。このことについて、日中友好協会愛知県連合会が「南京大虐殺が無かったと言うと日中関係がこじれる」ということで河村市長の発言を撤回するように求めている。
中国と信頼関係を築こうと希望している人たちにとってはこの問題はかなり難しい。過去の歴史の中で行われた不確かなことを「悪い方にとった方が信頼関係が築かれる」か、「良い方に考えた方が良い」かという問題である。
河村市長は良い方に考えたら信頼関係が築かれるとお考えであり、連合会は悪い方に決めて謝れば信頼関係は築かれると主張する。
本当は、事実が何らかの方法で解明できれば、それで解決するが、事実がわからないのだから、事実を争っている限りは解決はできない。科学的事実は科学で証明できるが、歴史的事実は明確な証拠が残っていなければ、過去のことなので推定せざるを得ない。だからいつまでも事実は確定しない。
南京事件を解決しようとしている人の多くは「事実を確定しよう」として努力されているが、その全容を勉強すると、諸説紛々、なかなか難しいようだ。
科学が進み、今から100年ほど前の過去を見ることができるようになればはっきりするだろう。つまり、南京事件が起こった時に地上から宇宙へ発せられた光を受け取り反射している星があるので、その反射光を分析して画像を再生することができれば過去を見ることができる。でも現在はこのような技術はない。
私の関心は「事実が確定できないときに、国際的紛争をどのようにして解決したらよいか?」ということだ。日本と中国は隣り合わせの国であり、南京事件が紛争項目であることは明らかである。だから、この問題をどうするかは日本国民として議論しておかなければならない。
解決策はいくつかある。まず、日本と中国の事実認識が違い、最後まで折り合わず、いがみ合うか戦争をするかの道。第二に中国が力(経済的政治的)で日本を屈服させ日本が心にもないにの謝って済ませる(日中友好協会の意見)、第三に中国が日本に歩み寄って南京事件を誇大に宣伝することを止める(河村市長方式)、そして、第四が、私が整理したこのブログで示したいと思う方法である。
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先回、南京事件を戦争としてみると、「兵隊が軍服を着て、戦場で戦う」という旧来の戦争(日本の関ヶ原、ヨーロッパのワーテルローなど)から、市民を巻き込んだ戦闘(総力戦:重慶爆撃、ゲルニカ、ソ連焦土作戦(6000万人に死亡)、東京大空襲、広島長崎への原爆、ベトナム戦役など)に代わる途中の出来事だったことを示した。
中国軍は市民が残っている南京に籠城し、一部は軍服を着ないで銃を持った(便衣兵)。この南京の戦いが「現代戦の最初のもの」としてとらえるか、あるいは「旧来の戦争の延長線上」とするかは、人によって違う。どちらでも解釈できるのは、ちょうど旧来から現代へ代わる途中だからだ。だから、この議論は無意味というのが私の見解である。
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第二の注目点は、「時代に応じた正義」ということである。かつて戦争に勝った方が負けた国民を皆殺ししても良いし、奴隷として連れて帰っても良いと考えられていた。皆殺しの歴史はすこしでも世界史を勉強した人ならいくつでもあげられるだろう。
同じ民族の間でも大量に殺戮されることがあった。中国では前漢の終わりに漢民族の半分が殺害され、後漢の終わりには漢民族は9割がいなくなり、1割しか存在しなくなったとされている。それ以外に、中国の広野で100万人を超える殺戮の歴史は多い。
しかし、皆殺し、奴隷、大量殺戮などを現代の道徳観、倫理観だけで考えるは不適切である。中国共産党が長春を包囲して攻略した長春攻防戦では、林彪率いる共産党が包囲戦、餓死戦をとって33万人が餓死したと伝えられている。
でも、この包囲戦を「残虐だ」と結論することは難しい。当時の中国では33万人が餓死しても共産主義社会を作るのが大切だったかも知れない。文化大革命でも同じである。
歴史は代わり、人類は進歩している。人類が進歩しないと考えると、日本人はどうしても元寇を持ち出さざるを得なくなり、それはあまり生産性のある話ではない。また、私には次のグラフが心に引っかかっている。
http://livedoor.blogimg.jp/takedakunihiko63/imgs/b/0/b0a442fe-s.jpg
このグラフはちょうど、南京事件が起こった頃、中国の覇権を狙った日本とイギリス、アメリカの投資競争のものである。19世紀の中国はまだイギリスの支配下にあり、イギリスが対華(対中)貿易のトップだったが、日清戦争で日本が主導権を握った。その後、アメリカの西に進みたいという衝動と中国が日本を牽制したいという希望からアメリカの対華貿易が盛んになり、ちょうど南京事件は日本が巻き返しにかかった頃のことだ。
この頃の日本の占領政策というのは、ヨーロッパ型とはかなり異なっていた。ヨーロッパは植民地をできるだけ発展させないで、そこから農業製品などを搾取することを目的としたが、日本は占領地に工業や大学を作り、占領地を発展させることによってその富を得る方式だった。
この写真はアメリカと中国への経済進出競争をしていた頃の日本が建設した工場群である。旧態依然とした中国の社会に日本は近代工業を持ち込んだ。このことが「良いことか悪いことか」というのはまた人によって違うが、事実はそうだった。
http://livedoor.blogimg.jp/takedakunihiko63/imgs/5/8/585fb796-s.jpg
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この様な時代背景のもとで南京事件が起こったわけだが、今では歴史の彼方に消え去ったものである。だから真相は不明だ。不明というか、日本と中国の事実認識が統一できない歴史的な過去の事件である。
南京事件の研究を勉強すると、「普通に考えれば1万人程度の殺害があったかも知れないが、30万人は少し大げさではないか」というところだが、中国が1万人を問題にしているのか、30万人を問題にしているのか、対日関係が悪くなるのを承知で虐殺事件として記念館を作り、教育をしているのか、その真意はまだよくわからない。
南京虐殺が無かったと言う結論を言えば日本人が喜び、南京虐殺があったといえば中国人が喜ぶ。だから今の時点で一般人を含めて政治的に事実を明らかにしようとするのはタイミングが悪い。だから、日本としては将来の課題として議論を避けるのが良いが、どうしても中国が忘れられないというなら、日本は中国と疎遠にならざるをえない。日本もそれを覚悟しておく必要がある。
日本とアメリカの間でも、沖縄戦、本土爆撃、原爆などがあり、それを日本が忘れなければ日米の友好は達成されない。過去を強調するか、それとも未来に向くか、どちらかの国が屈服しなければ友好はないというなら、真の友好は実現しないだろう。
河村市長に発言の撤回を迫った日中友好協会は、「中国との貿易でお金が欲しいから、事実はどうでも中国に頭をさげてしまえ」という考え方かも知れないが、それでは国際的な友好関係は築くことができない。この歴史的問題こそ、冷静になって日中の歴史家が一緒になって研究をすることであり、それと国際関係を別にすることこそ解決の道であると考える。私なら「棚上げ」を提案し、拒否されたら中国との友好関係を見直すことが良いと思う。
(平成24年3月25日) 武田邦彦 (中部大学) ○○ 歴史・倫理・日本 2013年05月22日
隠しているのか?知らないのか? 南京事件反日報道が続くマスコミ.一度、報道してしまったので、引き返せないマスコミ.その中心にいるNHK。ずいぶん、巨大な腐敗構造を日本は引きずっているものです。
今回は南京事件報道を考えてみます.多くの日本人が「日中戦争の前に、南京で日本軍が大量の中国人を殺した」と信じています。その原因の多くは「本田記者の本と朝日新聞の記事」によっています。
日本軍が南京で大量虐殺を行ったとされていて、国際的な問題なのに自分は良く知らなかったので、南京事件関係の本を10冊ほど読み、更にネットや雑誌なども通読してみた.その結果、私は次のように理解した.
1)南京事件として知られている内容は「学問的研究」(事実研究)ではなく、東京裁判や朝日新聞などの政治的キッカケで作られたもの、
2)東京裁判は占領下の真偽で事実は明らかになっていない、
3)朝日新聞の本田記者のレポートは、南京に2,3日逗留して、現地の中国人から聞いたことから想像したものである、
4)その後は余りに政治的になり、事実研究の人がバッシングされているので、事実が良くわからない、
5)当時の戦争では「軍服の着用」、「降伏のしきたり」が国際法上で決まっていたが、中国軍は幹部が逃走したので、「軍服を着ていない中国軍人」や「国際法上の降伏のしきたりとは違う投降」がほとんどだから、本来は「敵として殺して良い」(戦争は殺した数が多い方が名誉)状態だった、
6)民間人は戦闘前で20万人、戦闘後で20万人だから、1万人を超える民間人の殺害はなかった。
ということだから、南京事件は事実では無いといった方が良いだろう.でも、このことが日本でハッキリとした形で報道されないのはなぜかという方が重要だ.
日中友好という意味でも、事実をハッキリさせた方が良いし、南京虐殺が無かった方が日本も中国も良いはずだから、日本のNHKは勇気を持って事実を報道するようにした方が良い。
しかし、それに踏み切れないのは、やはり「中国が怖い」、「事実は報道しなくて良い」、「日本軍が悪かったという方が日本人が喜ぶ」という事と考えられる。
(平成25年5月20日) 隠しているのか?知らないのか? 南京事件(中部大学教授 武田邦彦)執筆: この記事は武田邦彦さんのブログ『武田邦彦(中部大学)』からご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2013年05月23日時点のものです。
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朝日新聞が避けて通れない、もう一つの「戦後責任」
本多勝一元記者が捏造認める!朝日新聞は速やかに「南京大虐殺」報道の検証と記事の取り消しを!かつて朝日新聞のスター記者だった本多勝一氏が、日本軍による虐殺の証拠として使ってきた写真が、実は捏造であったことを、本多氏自身が初めて認めました。
問題の写真は、本多勝一氏の『中国の日本軍』に掲載されたもので、日本兵が中国の婦女子をかり集めてこれから虐殺するところであるとの説明がなされています。
ところが、この写真の出所は、実は本多氏が当時勤めていた朝日新聞社発行の『アサヒグラフ』(一九三七年十一月十日号)に掲載されたもの。日本兵は家路につく少女たちを護っていたとのキャプションがついていて、少女たちの笑顔もはっきりと写っており、「南京大虐殺」とは何の関係もない写真であることは、誰の目にも明らかです。
武田邦彦来歴東京都出身。1962年、都立西高等学校、1966年3月、東京大学教養学部基礎科学科を卒業後、4月旭化成工業に入社。ウラン濃縮等の研究開発に携わり、1986年、論文「複合イオン交換反応系の理論と分離技術への応用」により東京大学から工学博士の学位を取得。[2]同年ウラン濃縮研究所長に就任[3]。自己代謝材料の開発に取組み、所長職を1991年まで勤める。
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歴史
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松井石根蒋介石への不信一方、米勢力に接近し反日、排日の色を濃くする蒋介石の国民党政府に対して不信感を抱くようになった。加えてこの時期、中国共産党が華南地域に勢力を拡大していたが、この動きに歯止めをかけることのできない国民党について、松井は批判的な姿勢を強めていた。国民党政府が、リットン調査団の報告書を嬉々として受け入れたことについても不満を募らせた。当時、松井は次のように述べている。
陸軍内部では統制派を中心に「中国一撃論」が盛んに説かれるようになっていた。日本への敵対視を続ける中国側の動向は看過できず、それならば蒋介石政権の政治基盤が脆弱な今の内に、一気に叩いておこうという論である。国民党政府に対する不信を濃くする松井は、徐々に「中国一撃論」へと傾いていった[3]。
西南の旅昭和11年(1936年)2月3日、蒋介石との関係を取り戻すために、田中正明を伴って「西南の旅」に出発した[5]。広東・広西で胡漢民、陳済堂、李宗仁、白崇禧ら西南派の指導者らと会談、さらに3月14日南京で蒋介石、何応欽、張群らと会談している。蒋介石との会談は1時間半に及んだが、ほとんどが松井と蒋介石二人だけの押し問答に終わった。
最後に二人は、孫文のアジア主義の遂行で互いに了解し合って別れた。しかし、別れぎわに蒋介石は松井に対し「今後は部下の張群と話をしてくれ」と失礼な言動をしたため、松井の顔が瞬間くもったという。(田中正明の言)[7]
日中戦争(支那事変)の上海戦昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋事件により日中戦争(支那事変)勃発。同年7月29日通州事件、8月9日大山事件(上海)が発生。同年8月13日第二次上海事変が勃発すると、予備役の松井に8月14日陸軍次官から呼び出しがかかった。8月20日上海派遣軍司令官として2個師団(約2万)を率いて、20万の中国軍の待つ上海に向けて出港した。
参謀本部は戦闘を上海とその周辺地域だけに限定していたが、松井は2個師団ではなく5個師団で一気に蒋介石軍を叩き潰し、早く和平に持ち込むべきだと考えていた。8月23日上海派遣軍は上陸を開始したが、上陸作戦は難渋をきわめた。
11月5日、柳川平助中将率いる第10軍は杭州湾上陸作戦を敢行、これを成功させて、状況は日本軍に有利になってきた。しかし、第10軍は松井の指揮系統下にはなかった。11月12日上海は陥落したが、日本軍の死者は1万人近くに及んだ。
南京戦ところが、11月19日第10軍は独断で(松井の指揮権を無視して)「南京攻略戦」を開始した。松井は制止しようとしたが間に合わず、第10軍の暴走を追認した。11月28日、参謀本部はついに南京攻略命令を発した。
12月7日、松井は南京攻略を前に「南京城攻略要領」(略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む)を兵士に示した(蒋介石はこの日の内に南京を脱出)。12月9日、日本軍は「降伏勧告文」を南京の街に飛行機で撒布した。翌日、降伏勧告に対する回答はなく、南京総攻撃が始まった。
13日、南京陥落。
17日、松井、南京入城。翌日慰霊祭の前に、各師団の参謀長らを前に、松井は彼らに強い調子で訓示を与えた。
松井は「軍紀ヲ緊粛スヘキコト」「支那人ヲ馬鹿ニセヌコト」「英米等ノ外国ニハ強ク正シク、支那ニハ軟ク以テ英米依存ヲ放棄セシム」などと語ったという。松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮の思想を念を押すようにして戒めた(上海派遣軍参謀副長の上村利道の陣中日記より)[3]。後の東京裁判における宣誓口述書では、一部の兵士による軍規違反の掠奪暴行は認めたものの、組織的な大虐殺に関しては否定している[10]。
一方、トラウトマン工作は成功しつつあったが、南京占領後に蒋介石はトラウトマンの提案を拒否したため、工作は頓挫した。しかし、松井はこの時期に蒋介石が信頼していた宋子文を通じて、独自の和平交渉を進めようとしていた[11]。
だが、昭和13年(1938年)1月16日近衛文麿首相の「蒋介石を対手とせず」宣言(近衛声明)ですべては終わった。松井は軍中央から中国寄りと見られ、考え方の相違から更迭され、2月21日に上海を離れて帰国し、予備役となった[5]。
昭和13年3月に帰国。静岡県熱海市伊豆山に滞在中に、今回の日中両兵士の犠牲は、アジアのほとんどの欧米諸国植民地がいずれ独立するための犠牲であると位置づけ、その供養について考えていた。滞在先の宿の主人に相談し、昭和15年(1940年)2月、日中戦争(支那事変)における日中双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝観音経をあげていた[12]。
興亜観音(熱海、伊豆山) 太平洋戦争(大東亜戦争)期から終戦まで軍籍を離れた松井は「大亜細亜協会」会頭として、アジア主義運動を展開し、国内各所での講演活動を行っていた。対米英開戦後の1月、松井は「思想国防協会」会長となり、日米開戦の意義や東南アジア占領地における興亜思想の普及について述べている。
1942年6月、松井は大亜細亜協会会頭として国外視察に出かけ、上海~南京~台湾~広東~海南島~仏印~タイ~ビルマ~マレーシア、スマトラ島~ジャワ島~セレベス島~フィリピンを訪れ、大東亜共栄圏確立の重要性を説いた。南京では汪兆銘と、ビルマではバー・モウ、シンガポールではチャンドラ・ボースとそれぞれ会談している。
帰国後の松井は、栄養失調から風邪をこじらせ、軽い肺炎を起こした。敗戦までの間、松井は仏門に励み、朝昼の二回、近くの観音堂に参拝するのが日課だった。
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松井石根 - Wikipedia松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。荒尾精の信奉者 [1] として、「日中提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、 ... 南京戦の再点検 『松井石根と南京事件の真実』 (早坂隆 著 ...南京戦の再点検 『松井石根と南京事件の真実』 (早坂隆 著) 文 早坂 隆|ルポライター Tweet 2011.07.20 00:00 今なお「大虐殺論争」の続く南京戦であるが、この占領時の日本側の司令官の名前は、その議論の裾野に比して ... 南京 松井の画像bing.com/images 南京戦 - Wikipedia南京戦
南京戦(ナンキン[8]せん、中国語: 南京保卫战、英語:Battle of Nanking)は、日中戦争における戦闘の1つで、1937年(昭和12年)8月以降の上海戦の戦線が拡大し、12月に中華民国の首都南京で展開した。日本軍は中国軍を追撃し、南京を陥落させた。日本軍からは南京攻略戦。中国側からみて上海戦と南京戦を併せて上海南京保衛戰とする研究もある[9]。
上海戦から南京戦へ「日中戦争#日中全面戦争」および「第二次上海事変」を参照
1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件で支那事変(日中戦争)は全面衝突化し、7月末から8月にかけて上海で大山事件など日本将兵が殺害される事件が相次ぎ、8月13日中国軍が攻撃を開始し[10]、第二次上海事変が始まった。8月14日には中国空軍による上海爆撃が実施され、日本軍陣地だけでなく租界地などの歓楽街にも被害が出た[11]。これを受けて日本は8月15日に「もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲」すると声明を出し、第3・第11師団による上海派遣軍を編成して派遣した[11]。9月2日に「北支事変」から「支那事変」と改称した[11]。
蒋介石も8月15日に対日抗戦総動員令を発令し、自らが陸海軍総司令官につき、四つの戦区に分けて全面戦争体制を整えた[12]。蒋介石は華北は補給維持が困難であるとして増援せず、主力は揚子江流域都市(南京市など)での決戦に備えて温存すると計画した[13]。
日本が中国に対し「速戦速決戦略」を採用したのに対して[14]蒋介石の戦略は、華北の日本軍が南下し、武漢地区で中国が東西に分断されるのを防ぐため、中国軍が華北では後退し、 上海に主力を集中して主戦場を華北から華東へと誘致するもので[15]、「日本軍に上海戦場を開かせる」という「持久消耗戦略」であった[14][16][17]。また、アメリカやイギリス、ソ連などを日中戦争に巻き込むという政略も採用した[14][16]。
上海戦で日本軍は苦戦し、9月までの日本軍第3・第11師団だけで死傷者は12388名にのぼり、第9師団は11月の蘇州河渡河までに12360名の死傷者を出した[18]。日本は11月5日、第10軍を杭州湾に、第16師団は白茆口に上陸させ、戦況は一挙に好転した[19]。11月7日に上海派遣軍と第10軍を併せて中支那方面軍として編成した[18]。河辺虎四郎ら参謀本部作戦課は作戦地域を上海西部の蘇州から嘉興を結ぶ線以東に制限したが、武藤章参謀副長らは南京追撃を主張した[20]。
11月15日、第10軍は「一挙追撃を敢行し、南京を占領すべき」と積極案を出し[19]、独断で進撃を開始した[21]。松井石根中支那方面軍はこれを追認した[19]。制限線撤廃をめぐって激論となっていたが参謀本部も11月24日、南京攻略を容認し、蘇州-嘉興線以東の制限を廃した[20]。方面軍は、上海派遣軍追撃隊は、常州、丹陽、金壇に前身拠点を造り、主力は無錫〜湖州線より東部で準備すると命じた[19]。10軍は嘉興〜湖州〜長興へ、114師団一部は宜興・漂陽へ、18師団追撃隊および国崎支隊は広徳に進出し、主力は後方地区に終結した[19]。最前線の部隊は、中国軍によって徹底的に破壊された橋梁や道路を修復しながら進撃をつづけた[19]。
参謀本部はトラウトマン工作など政治的解決を優先する意見などがあったが[21]、下村定第一部長の意見具申により南京攻略が決定され、大陸命7号によって中支那方面軍の戦闘序列が、大陸命8号によって海軍との共同攻略が下令された[19]。
中国側は消耗持久戦へ転換させ、ゲリラ戦を発動させた[12]。蒋介石は11月7日の日記で「抗戦持久」が重要で、「遊撃戦を発動し、敵を疲労させる」と書いた[12]。これは中国軍の83個師団約40万の兵力を江北に撤退させる退却掩護作戦でもあり、南京防衛は固守して援軍を待つものでなく、敵軍の消耗を目的としたもので[22]、日本軍進撃を食い止めるために橋梁、道路は徹底的に破壊され、家屋は焼かれ、食料は持ち去られた[12]。T・ダーディン特派員によれば、南京城外15マイルの空野清野作戦は中国軍の怒りとフラストレーションであり、焼き払いは軍事目的には役に立たなかった[12][23]
さらに敗残兵は後方地域に潜入してゲリラ化して日本軍を襲撃した[12]。
9か国条約会議が不調に終わってからは蒋介石も和平交渉に乗り気で、12月2日にトラウトマン大使と会談した[19]。
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2015/02/18 · 南京攻略戦で旧日本軍を率いた元司令官の大将、松井石根(いわね)にとって「南京大虐殺」は寝耳に水だった。戦後、東京裁判で松井はこう証言している。「(大虐殺は)公的… 南京大虐殺の冤罪で絞首刑にされた英雄、松井大将の生涯 | …南京大虐殺の責任者といういわれなき罪で絞首刑になった松井石根(まつい・いわね)大将。中国では、日本のヒトラーとまで言われているそうです。これまでザ・ファクトでは、南京大虐殺が嘘であることを検証して... 南京大虐殺はなかった!?松井石根陸軍大将 はじめに 松井石根大将は、「南京大虐殺」が起きたとされる南京攻略戦で大将として指揮をとり、不法行為の防止や阻止などを怠ったとして、B級戦犯として死刑の判決を受けました。正確に言うとA級戦犯ではないの ... |
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太平天国の乱と洋務運動
太平天国の乱(たいへいてんごくのらん)は、清朝の中国で、1851年に起こった大規模な反乱。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起きた。長髪賊の乱ともいわれる。
赤が太平天国の主要支配地域 交戦勢力 指導者・指揮官 戦力 損害
拝上帝会の興隆
洋務運動(ようむうんどう)は、中国の清朝末期(1860年代前半 - 1890年代前半)、ヨーロッパ近代文明の科学技術を導入して清朝の国力増強を目指した運動。自強運動(じきょううんどう)とも。清朝の高級官僚であった曽国藩・李鴻章・左宗棠・劉銘伝・張之洞らが推進者。
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太平天国と日本太平天国のことは清国の商船及び朝鮮から対馬藩を通じて幕末の日本に伝えられた。当初太平天国はキリスト教が土着化して発生した反乱とは見られておらず、明朝の後裔が起こした再興運動だと日本人は思っていたようだ。つまり今風に言えば満州族支配に反抗する漢民族という図式の民族紛争と捉えていたことになる。
これは「滅満興漢」というスローガンが強調されたこと、 辮髪を落としていたことが原因であろう。清朝では「頭を留めるものは髪を留めず、髪を留めるものは頭を留めず」といわれるように、辮髪の有無がその支配を受容したか否かの基準となっていたからだ。また農民など低階層が乱の主体であったという認識も希薄であった。この事は1854年前後に太平天国の乱をモデルにしたとみられる中国大陸を舞台とした明朝復興物語が講談・小説の形式で複数出版されている事からも分かる。
しかし『満清紀事』・『粤匪大略』といった書物が日本にもたらされると、知識人層の太平天国に対し好意的な評価は一変した。洪秀全が明朝の後裔ではないこと、キリスト教を信仰していることが伝わったためである。特に前者は朱子学的な大義名分論と正統論の点で嫌悪感を与え、後者は島原の乱を想起させ、幕末の世論に影響を与えた。太平天国への嫌悪感は、実際に乱を見聞した人々にも継承されていた。
1859年にはイギリス領事(後の公使)オールコックから江戸幕府に対して、軍用馬の3千頭をイギリス軍へ売却してくれる様に要請があった。幕府も国内の軍事的需要を理由に当初は躊躇したものの、英仏両軍に1千頭ずつ売却する事に応じて翌年夏までに実施された(この前後の日本の輸出品の中には主力品である生糸や茶の他にイギリス・フランス軍のために用いられたと思われる雑穀や油などの生活必需品の輸出記録が目立っている)。更に太平天国の末期にあたる1862年6月2日(文久2年5月5日)、幕府の御用船千歳丸というイギリスから買い取った船が上海に到着した。
交易が表面上の理由であったが、清朝の情報収集が本当の任務だった。江戸幕府は、清朝の動乱や欧米列強のアジアでのあり方に深い関心を寄せていたのである。乗船していたのは、各藩の俊秀が中心で薩摩藩の五代友厚や長州藩の高杉晋作らがいた。乗船していた藩士の日記には太平天国について「惟邪教を以て愚民を惑溺し」、「乱暴狼藉をなすのみ」という表現がならぶ。
また、日本国内においては海防の充実と国内改革による民心の安定化を求める論議が急速に高まる一因となった。早くも吉田松陰が「(奈良時代の)天平勝宝年間に唐の安史の乱に際して当時の朝廷が大宰府に非常態勢を布いて以来」の危機である事を著書の『清国咸豊乱記』で指摘している。こうした主張は薩摩藩の湯藤龍棟や古河藩の鷹見泉石らも同様の意見を相次いで唱えた。
ただ辛亥革命前後から、太平天国への評価は再び持ち直したようだ。これは中国本土でも同様であった。革命の立役者孫文が太平天国に深く傾倒していたことや、キリスト教信仰が明治維新以後解禁されたことから抵抗感が薄れたためであろう。洪秀全たちは長崎から亡命した大塩平八郎が名を変えたもので、その後太平天国の乱を起こしたのだ、という珍説まで一時流布した。
太平天国と日本との逸話は、世界恐慌時代にもあった。洪秀全の郷里広州花県に、1930年代(年不確定)に日本軍から洪秀全の子孫だという兵士が二人訪れたという話がかの地に伝えられている。これは日本軍の宣撫工作であったと思われる。
また、中国の王暁秋や日本の広沢吉平らは、欧米列強が清と同様に開国したばかりの日本でも太平天国の乱と同様の民衆反乱を誘発する事への危惧から、明治維新前後の日本国内の戦乱に対して直接的な軍事介入を行うことなく、結果的には列強が日本を植民地化する機会を逸したとする説を唱えている。
太平天国の史料について日本語訳されたものを挙げる。
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