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作者自身が「解題」として巻末に書いているが、これはパーソナルな中編小説と言うジャンルだ。 パーソナルの意味は、読者によってさまざまな解釈ができるように、メタフォブリック過多に創ってあることだと思う。 だから、この小説の読後感は千差万別。 初恋の島本さんは、誰しも心のそこにもっている、幼児回帰性みたいな、もう捨ててしまった懐かしい自分で、それがナット・キング・コールの「国境の南」で象徴されているのではないか。 あるいは、若き頃あこがれた主義主張であるのかもしれない。 一度は捨てたものが、突然炎のように燃え上がることがある。 恋愛でいえば焼けぼっくりに火がつき、思想的にいえば「5月革命」である。 でもそれは急速に勢いを失い、又日常が帰って来る。 シベリアの大平原で地平線から太陽が昇り又地平線に沈み、農夫が毎日同じ作業を繰り返す。夕方厭になって太陽の向こうには何があるのだろうかとあこがれても、「太陽の西」には何もない。この農夫のようなものが現実の自分であり、妻友紀子との生活だ。 又、生きるということは人を傷つけてしまう。 かけがえの無い自分の喪失と同時に、人の心を灰にすることもある。 この象徴がイズミという女性。 表情を失った非人間化した人間。 この女性をどうみるか意見が多いと思うが、私は作者自身にある、何かの加害者意識の贖罪と無縁でないような気がする。 具体的でなくとも生きていることの罪の意識を感じる。 村上氏の小説は過去と対話して、その喪失感がベースになっていることは確かだが、島本さんの面影が薄れ、友紀子とやり直す結末に「太陽の西」に続く、細く長い一本の道も見出せる。 島本さんは実在したのか、しなかったのか? ひょいと現れ、激しい嵐を巻き起こし、忽然と消えた、美貌の初恋の女性。 貴方の正体は最後まで何も明らかにされなかった。
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