光、射る

光が、絶対的なものから相対的なものへと価値を変えようとしているから、僕も変わろうと思う。

日々感じたことなど

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話をはじめるために、例題にのぞむ


『リトル・ピープルの時代』 筆者:宇野常寛 を読みました。


筆者が展開されている論は、僕にとって受け容れやすいものでした。

マイケル・サンデルの『これからの正義の話をしよう』を読んでいことも理由のひとつかもしれません。


『これからの・・・』の主旨は、

あるひとつの主義・主張によっては、世界の全てを記述することができない、というところにありました。

 <A>という場面においては<a>という正義がより確からしく、

 <B>という場面においては<b>という正義がより確からしい。

数学でいうところの『場合分け』は、現実の世界においても当然適用されるんだな、というのが

『これからの・・・』を読んだ際の、僕の感想でした。


今回読んだ『リトル・ピープルの時代』においては、

【正義】というものの在り様が、

ビッグ・ブラザー(ウルトラマンのように巨大で、光の国からやってきた特別な存在)から、

リトル・ピープル(仮面ライダーのように小さく、しかもその力の起源は敵であるショッカーと同じ)へと

変容してきたということが示されていました。


価値観が多様化しているということは、

今さら声高に言わなくても誰もが分かっていることです。

価値観の数だけ正義があり、それら全てが時として正しく、時として間違っている。



さて、

Aさんは<a>という正義【だけ】を信じ、Bさんは<b>という正義【だけ】を信じており、

Cさんは<a>という正義も<b>という正義も、

それなりに正しく、しかし同じくらい間違いであることを知っているとします。


このとき、AさんとBさんが対立することは明らかです。

では、AさんとCさん、BさんとCさんではどうでしょうか?

あるいは、AさんとBさん、さらにCさんが三竦み状態になったとき、事態はどう収拾するのでしょうか?


ブログの更新をさぼっていたあいだ、僕はこんな例題について考えていました。


CさんとC'さん(Cさんと同じ価値観、つまり正義が相対的なものであることを知っている人)では、

激しいディスカッションは展開されるかもしれませんが、

まず争いは起こらないでしょう。



何が正しいのかを本当に知りたければ、その都度判断しなくてはなりません。

場面に応じて、時に即して。

形式的にではなく、実質的に。

絶対的ではない、相対的な正義を前提に。


さて、

AさんとCさん、あるいはBさんとCさんが争った場合、

もしくはAさんとBさんとCさんが争った場合、

一体、結果はどうなるのか?



仮に、論理的思考力と説明能力が互角で、

性別も年齢も、地位も全て同一条件だとすれば、

CさんがAさんもBさんも論破してしまうと思います。


しかし、

当然現実にはそんなことはありません。

過去の成功経験と実績を持つAさんやBさんは、

「事実としてそうであった」ということを武器に戦おうとします。

あくまで『過去の事実』であり、『いま、ここにおける正義』ではないのですが、

それはAさんにとっても、Bさんにとっても、どうでもいいことのようです。

何か信じる人というのは、信じるにいたった事実を元に、

『いま、ここにおける正義』に対して平気で暴力をふるいます。

驚くべきことですが、事実として起こっていることです。


過去がどうだったかを知ることは大切です。

経緯を知ることは、何かを考える際の条件立てとして必要不可欠だとも思います。

しかし、それは過去です。

過去のスタープレイヤーが、現在の平均的選手より、能力面で落ちるなんてことは

当たり前のことです。


過去にどれだけ凄かったとしても、今ダメなら試合には勝てません。

けれど、過去にスタープレイヤーだったAさんやBさんは、いつまでも試合に出続けるために、

あの手、この手を使います。


自己正当化のために苦心している人を見ると胸やけがします。

時に自己否定をし、間違いを認めることで、

全体として正しいほうへ向かうのなら、そのほうがずっといいと思うのですが、

どうもそうではない人もかなりいるようです。

常にそう信じ、実践できる人はいないと思います。


人には人の事情があって、どうしても守りたい領分があるのかもしれませんし、

略奪することによってしか、不安を埋められないのかもしれません。


その場合、自分が正義によってではなく、

単なる私情で動いていることを認めなくてはいけません。


Cさんもまた人間で、そして相対的な正義を信じる者ですから、

ときに自分の事情しだいで正義を捏造するかもしれません。

Cさんの正義を支えるのは、Cさん自身が持つある種の倫理観だと思います。


誰が謳おうと正義は正義、というのは幻想の話で、

誰が、どんな人が、正義を謳うのか、のほうが現実には重視されやすいらしい、

と僕は見ています。


Cさんであろうとすれば、

常に試されるのは、その人の、人間としての魅力とか、倫理観ということになります。


だからこそ、AさんやBさんに付け入る隙を与えてしまうのかもしれません。

また、どれもが正しく、どれもが間違っているということを、

何をやってもいいと自暴自棄になることなく、上手く消化するのも至難の業でしょう。

いつも正しいことはなんだろうと考えるのは、正直めんどくさいですし、とても疲れることです。


結論として、

理屈的には、その場面に応じて賢い答えを導ける可能性があるのはCさんですが、

現実的には、実際に賢さを手に入れたうえで上手く行使できるCさんは少なく、

AさんやBさんのほうがシンプルに、かつ上手く戦えます。

考えることが少ない分だけ、武器を選ぶ時間がない分だけ。




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