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『ニュー・シネマ・パラダイス』
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ブログに記事を載せるのも久しぶりです。きっと、これを最後にまた暫く音無の構えになるのでしょうね。
ところで、映画を観ないわたしが何を言うのでしょう? 『ニュー・シネマ・パラダイス』――LDを二枚購入しました。一枚は、完全版で、「トトが忘れられなかったもう一つの物語」と記載されています。
さて、それぞれの人生を(他人が)論じるというのは、適切ではなく、人それぞれが(その個人が)どう感じるかということ――を痛感しています。
ちょっと脇道へ入りますが、最近、つくづく嫌気がさしています。嗚呼くだらない〜と思いながら、このくだらないことが自分の人生なんだと思っています。もちろん、実生活(プライベート)だけではなくて? 仕事上のこともあります。いえ、それが生業ですから、文句言わずに、粛々と自分の与えられた道を進んでいます、というのは良く言い過ぎていますけど、走れるだけ走って倒れたら、そのときに考えようと思っています。でも、阿呆らしい〜 休み休みがんばります。身体が一番大事ですから。閑話休題。
映画の筋を含めて、全うなことを書くのはわたしにはできないので、感じたところを書いています。3分割して逆順で載せていますが、竜頭蛇尾になっています。
さて、映画では、少年、また青年の頃のサルヴァトーレを「トト」と呼んでいましたが、ここでも、少年、青年のサルヴァトーレをトトと呼ぶこととします。少年の頃のトトと、青年の頃のトトとでは、懸隔がありますから、同じトトと呼ぶには相応しくないかもしれません。
特に、青年期のトトにとって、青い瞳のエレナは、とても美しい人で、彼の心を惑わすかのようにして、彼は恋の虜になります。
少年の頃のトトは、映画館「シネマ・バラダイス」の映写室が、彼の夢の世界でしたから、映写室が彼の憧れだったのでしょう。
少年、青年、壮年と、それぞれのトト(サルヴァトーレ)がいるわけですが、それぞれの個性があって、まるで別人のように生きています。この辺りが明確に区別できる方と、そうではない方とがいますが、まぁ、これはそれぞれの発達過程ということになるのかもしれません。
映画『ニュー・シネマ・パラダイス』は、子供のときの思い出と、トト(サルヴァトーレ)がエレナに抱いた恋心とが、思い出として沈められます。そう、わたしたちの思い出と同じようにです。
誰もが経験したことのある片思いの恋と……ということになりますが、それらは心の奥底に沈められて、人はまた歩き始めるのでしょう。
そうして何時しか、歳月は流れ、真実は、光り始めるときを待っていたかのように、纏っていたものから解き放たれます。それがどのような形で生じるかは、これまた人それぞれでしょう。呪縛から無理矢理引きはがすというものではなく、自然と解き放たれるときを待つというものでしょうか。
映画では、そこに仕掛けのようなものを設けていますが、特にノーカット版では濃厚です。サルヴァトーレの現実との接点を強く意識していますが、まぁ、これは言わずもがなというものでしょうか。
トト(サルヴァトーレ)にはアルフレードが絡んできます。アルフレードの「生きる」ということに、トト(サルヴァトーレ)が絡んでいたという方がいいのかもしれません。アルフレードは、何時もトト(サルヴァトーレ)に語りかけていたのでしょう。自分自身の心に問うていたのかもしれません。
その声が何時、サルヴァトーレに届くのか。距離、時間は、関係ないのでしょう。すべては懸隔として表していいのかもしれません。
懸隔は、必要なものです。運命の輪が交差するには――再び巡り合わされる、その時が必要なのですから。
サルヴァトーレにとって、エレナは、気づくか気づかないかは別として、心の中に何時も生き続けていました。これもわたしたちの心の中に生き続ける女性と同じです。と、ちょっと乱暴な言い方をしていますが。
ところで、恋心は、心を惑わすものでしょうか。心が惑われると真実の窓が曇るのかもしれません。どの窓が曇るのか? それは、さて、人によりけりということでしょう。わたしの場合は、愛すること、愛していること――この窓が完全に曇ってしまいました。でも、それはそれで良かったのかもしれません(良いとか悪いとかではなくて、そういうものなのでしょう)
時を経て、色々なことが分かります。少し時を経て、分かったこと、そしてまた、長く時を経て、知ったこと――今、わたしがあることは、すべて、そのお陰なのだと思います。
そうして、静かに祈ることは、その方の幸せ――とかいうと、何言っているの?! まだ、心が曇っている証拠だわ!と、陰の声がしますが、まぁ、それはそれとして、わたしが何を感じるかは、あくまでもわたしのものなんですから……
サルヴァトーレは、アルフレードが彼(トト)に託した言葉のとおりに、生まれ故郷のシチリアの村(ジャンカルド)には帰って来ませんでした。そこには、30年という歳月が流れていました。
でも、誰しもが同じなのでしょう。理由はともあれ、誰しもが、故郷に置き忘れたものがあって、それを確かめる術がないのかもしれませんが、確かめようとはしません。
忘れていた? 乗り越えた? どのように表現するかはともかくとして、生きるという二の足はそこにはなかった?
サルヴァトーレの場合は、アルフレードが呼び寄せたのでしょうか。アルフレードが、サルヴァトーレに微笑みかけているようです。
ジャンカルド村に帰ったサルヴァトーレの、時は遡り、古の記憶が蘇り、人は再び魔術に陥るのでしょうか。この辺りのことは、ノーカット版が赤裸々に苦悶を表現しますが、こういうのは言わずもがなかもしれません。通常版では一切触れられていません。
ともあれ、サルヴァトーレが今あることは、このシチリアのジャンカルド村で生まれ育ったが故です。
そして、エレナを愛していたこと――わたしも…… 嗚呼、奇しくも30年近い歳月が流れていますが(というと余りにも大袈裟過ぎますが)置き忘れたもの、心の奥にしまい込んだものがありますが、これは誰しもがあることです。
アルフレードは、視力を失って、その代わりに何かを――感じる力を得たのでしょう。映画館は、「ニュー・シネマ・パラダイス」として生まれ変わります。
ところで、アルフレードがトトに話したお伽噺――王女と兵士の話は、わたしには、なぜ、兵士が立ち去ったのか、良く分かりませんが、それは、その兵士が思うこと、感じることだと思っています。
きっと、誰しもが同じような経験をもっていて、それぞれの思いで立ち去っていったのでしょうから、兵士がどう思って立ち去っていったのかは、それは兵士の思いで良いのだと思っています。
最近、つくづく思うのですが、周りの評論はどうでもいいんです。結局は、それをやっている本人がどう感じるかなのかだと思います。実際、周囲を見ると、ほんと、評論家ばかりが多くて、ほんとに馬鹿馬鹿しく、苦々しく思います。これでは、船頭多くして船山に上る、ということになります。いえ、実際に、船を漕ぐ人がいなくなりますから、潮目を彷徨うだけでしょう。そうして、また、あれやこれやと評論ばかりすればいいんです。辟易とします。実際、船はどこにもいきませんが、いえ、その中には一生懸命漕いでいる人もいるんです。評論家は生きてはいませんが、漕ぎ手だけが今を生きている、ということを思い知ります。評論家はいつも評論ばかりしているだけですから、振り返ることもなければ、サルヴァトーレの母の言うところのまぼろしも持たないのでしょう。閑話休題。
『ニュー・シネマ・パラダイス』は、最初、ノーカット版(オリジナル版)を、今では忘れ去られてしまったレーザーディスクで観ました。3時間はありました。結構長かったです。
オリジナル版のジャケットには「トトの忘れられなかったもう一つの物語」というコメントが付してありますが、それは本来サルヴァトーレの心の中にしまわれるものだと思っています。つまりは観るものには必要ないもののように思っています。却って、余計な現実に巻き込まれて、サルヴァトーレの生々しい心の動きと行動とを見せつけられて、観る側の気持ちが濁ってしまいます。が、こういうのが評論なのでしょうね。当事者の思いや行動が大切なのであって、周囲がとやかく言ってもなんの意味ももたないことです。
ところで、通常版では、何カ所かカットされているのですが、これ(カットされている箇所)が大変分かりやすいように思いました。先ず、初めに感じるのが、エレナが足早に通り過ぎていくシーンです。オリジナル版では、幾分、誇張されていて、違和感を覚える場面ですが、エレナを追うサルヴァトーレは、彼女に追いつくことがなかなかできなくて、それがエレナとサルヴァトーレの関係を象徴しているかのようで、そういう意味でオリジナル版は面白いですが、単にそれだけです。
あと、何カ所かカットされているところが分かりますが、まぁ、それはそれとして、最後の箇所は、後段に譲ります。
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