無芸大食

取り留めもなく色んなことを書いてますが、内容がなくて申し訳ありません。お立ち寄り戴けましたら狂喜乱舞致します。リズム音痴なのに?

映画

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『ニュー・シネマ・パラダイス』

#1/3

 ブログに記事を載せるのも久しぶりです。きっと、これを最後にまた暫く音無の構えになるのでしょうね。
 ところで、映画を観ないわたしが何を言うのでしょう? 『ニュー・シネマ・パラダイス』――LDを二枚購入しました。一枚は、完全版で、「トトが忘れられなかったもう一つの物語」と記載されています。
 さて、それぞれの人生を(他人が)論じるというのは、適切ではなく、人それぞれが(その個人が)どう感じるかということ――を痛感しています。
 ちょっと脇道へ入りますが、最近、つくづく嫌気がさしています。嗚呼くだらない〜と思いながら、このくだらないことが自分の人生なんだと思っています。もちろん、実生活(プライベート)だけではなくて? 仕事上のこともあります。いえ、それが生業ですから、文句言わずに、粛々と自分の与えられた道を進んでいます、というのは良く言い過ぎていますけど、走れるだけ走って倒れたら、そのときに考えようと思っています。でも、阿呆らしい〜 休み休みがんばります。身体が一番大事ですから。閑話休題。

 映画の筋を含めて、全うなことを書くのはわたしにはできないので、感じたところを書いています。3分割して逆順で載せていますが、竜頭蛇尾になっています。

 さて、映画では、少年、また青年の頃のサルヴァトーレを「トト」と呼んでいましたが、ここでも、少年、青年のサルヴァトーレをトトと呼ぶこととします。少年の頃のトトと、青年の頃のトトとでは、懸隔がありますから、同じトトと呼ぶには相応しくないかもしれません。
 特に、青年期のトトにとって、青い瞳のエレナは、とても美しい人で、彼の心を惑わすかのようにして、彼は恋の虜になります。
 少年の頃のトトは、映画館「シネマ・バラダイス」の映写室が、彼の夢の世界でしたから、映写室が彼の憧れだったのでしょう。
 少年、青年、壮年と、それぞれのトト(サルヴァトーレ)がいるわけですが、それぞれの個性があって、まるで別人のように生きています。この辺りが明確に区別できる方と、そうではない方とがいますが、まぁ、これはそれぞれの発達過程ということになるのかもしれません。

 映画『ニュー・シネマ・パラダイス』は、子供のときの思い出と、トト(サルヴァトーレ)がエレナに抱いた恋心とが、思い出として沈められます。そう、わたしたちの思い出と同じようにです。
 誰もが経験したことのある片思いの恋と……ということになりますが、それらは心の奥底に沈められて、人はまた歩き始めるのでしょう。
 そうして何時しか、歳月は流れ、真実は、光り始めるときを待っていたかのように、纏っていたものから解き放たれます。それがどのような形で生じるかは、これまた人それぞれでしょう。呪縛から無理矢理引きはがすというものではなく、自然と解き放たれるときを待つというものでしょうか。

 映画では、そこに仕掛けのようなものを設けていますが、特にノーカット版では濃厚です。サルヴァトーレの現実との接点を強く意識していますが、まぁ、これは言わずもがなというものでしょうか。
 トト(サルヴァトーレ)にはアルフレードが絡んできます。アルフレードの「生きる」ということに、トト(サルヴァトーレ)が絡んでいたという方がいいのかもしれません。アルフレードは、何時もトト(サルヴァトーレ)に語りかけていたのでしょう。自分自身の心に問うていたのかもしれません。
 その声が何時、サルヴァトーレに届くのか。距離、時間は、関係ないのでしょう。すべては懸隔として表していいのかもしれません。
 懸隔は、必要なものです。運命の輪が交差するには――再び巡り合わされる、その時が必要なのですから。

 サルヴァトーレにとって、エレナは、気づくか気づかないかは別として、心の中に何時も生き続けていました。これもわたしたちの心の中に生き続ける女性と同じです。と、ちょっと乱暴な言い方をしていますが。
 ところで、恋心は、心を惑わすものでしょうか。心が惑われると真実の窓が曇るのかもしれません。どの窓が曇るのか? それは、さて、人によりけりということでしょう。わたしの場合は、愛すること、愛していること――この窓が完全に曇ってしまいました。でも、それはそれで良かったのかもしれません(良いとか悪いとかではなくて、そういうものなのでしょう)
 時を経て、色々なことが分かります。少し時を経て、分かったこと、そしてまた、長く時を経て、知ったこと――今、わたしがあることは、すべて、そのお陰なのだと思います。
 そうして、静かに祈ることは、その方の幸せ――とかいうと、何言っているの?! まだ、心が曇っている証拠だわ!と、陰の声がしますが、まぁ、それはそれとして、わたしが何を感じるかは、あくまでもわたしのものなんですから……

 サルヴァトーレは、アルフレードが彼(トト)に託した言葉のとおりに、生まれ故郷のシチリアの村(ジャンカルド)には帰って来ませんでした。そこには、30年という歳月が流れていました。
 でも、誰しもが同じなのでしょう。理由はともあれ、誰しもが、故郷に置き忘れたものがあって、それを確かめる術がないのかもしれませんが、確かめようとはしません。
 忘れていた? 乗り越えた? どのように表現するかはともかくとして、生きるという二の足はそこにはなかった?

 サルヴァトーレの場合は、アルフレードが呼び寄せたのでしょうか。アルフレードが、サルヴァトーレに微笑みかけているようです。
 ジャンカルド村に帰ったサルヴァトーレの、時は遡り、古の記憶が蘇り、人は再び魔術に陥るのでしょうか。この辺りのことは、ノーカット版が赤裸々に苦悶を表現しますが、こういうのは言わずもがなかもしれません。通常版では一切触れられていません。

 ともあれ、サルヴァトーレが今あることは、このシチリアのジャンカルド村で生まれ育ったが故です。
 そして、エレナを愛していたこと――わたしも…… 嗚呼、奇しくも30年近い歳月が流れていますが(というと余りにも大袈裟過ぎますが)置き忘れたもの、心の奥にしまい込んだものがありますが、これは誰しもがあることです。

 アルフレードは、視力を失って、その代わりに何かを――感じる力を得たのでしょう。映画館は、「ニュー・シネマ・パラダイス」として生まれ変わります。

 ところで、アルフレードがトトに話したお伽噺――王女と兵士の話は、わたしには、なぜ、兵士が立ち去ったのか、良く分かりませんが、それは、その兵士が思うこと、感じることだと思っています。
 きっと、誰しもが同じような経験をもっていて、それぞれの思いで立ち去っていったのでしょうから、兵士がどう思って立ち去っていったのかは、それは兵士の思いで良いのだと思っています。
 最近、つくづく思うのですが、周りの評論はどうでもいいんです。結局は、それをやっている本人がどう感じるかなのかだと思います。実際、周囲を見ると、ほんと、評論家ばかりが多くて、ほんとに馬鹿馬鹿しく、苦々しく思います。これでは、船頭多くして船山に上る、ということになります。いえ、実際に、船を漕ぐ人がいなくなりますから、潮目を彷徨うだけでしょう。そうして、また、あれやこれやと評論ばかりすればいいんです。辟易とします。実際、船はどこにもいきませんが、いえ、その中には一生懸命漕いでいる人もいるんです。評論家は生きてはいませんが、漕ぎ手だけが今を生きている、ということを思い知ります。評論家はいつも評論ばかりしているだけですから、振り返ることもなければ、サルヴァトーレの母の言うところのまぼろしも持たないのでしょう。閑話休題。

 『ニュー・シネマ・パラダイス』は、最初、ノーカット版(オリジナル版)を、今では忘れ去られてしまったレーザーディスクで観ました。3時間はありました。結構長かったです。
 オリジナル版のジャケットには「トトの忘れられなかったもう一つの物語」というコメントが付してありますが、それは本来サルヴァトーレの心の中にしまわれるものだと思っています。つまりは観るものには必要ないもののように思っています。却って、余計な現実に巻き込まれて、サルヴァトーレの生々しい心の動きと行動とを見せつけられて、観る側の気持ちが濁ってしまいます。が、こういうのが評論なのでしょうね。当事者の思いや行動が大切なのであって、周囲がとやかく言ってもなんの意味ももたないことです。

 ところで、通常版では、何カ所かカットされているのですが、これ(カットされている箇所)が大変分かりやすいように思いました。先ず、初めに感じるのが、エレナが足早に通り過ぎていくシーンです。オリジナル版では、幾分、誇張されていて、違和感を覚える場面ですが、エレナを追うサルヴァトーレは、彼女に追いつくことがなかなかできなくて、それがエレナとサルヴァトーレの関係を象徴しているかのようで、そういう意味でオリジナル版は面白いですが、単にそれだけです。
 あと、何カ所かカットされているところが分かりますが、まぁ、それはそれとして、最後の箇所は、後段に譲ります。

#2/3

 子供の頃のトト――わたしの遊び友達にそっくりな子がいました。後年にも、何人か、挙げることができます。
 青年の頃のトト――身近に彼そっくりな奴がいました。
 これは、誰しもが感じることなのだろうと思います。『ニュー・シネマ・パラダイス』は実に身近なのです。

 エレナが告解に現れたとき、牧師と入れ替わったトトは、自分であることを告げますが、そのときにエレナから宣告を受けます。あなたを愛していないのと。
 つらい宣告ですが、トトは、エレナが愛すまで待つと彼女に宣言します。トトはエレナの家の、彼女の窓の下で彼女が窓を開けるまで、毎晩待ち続けます。わたしは、映画の中でアルフレードが話をした「王女と兵士の話」を思い出すのですが、同じように、トトは、エレナの家の下で彼女が心を開くのを待ちます。

 トトが、100日を待つ兵士の気持ちをどのように反芻していたかは知る由もありませんが、トトはトトのやり方でエレナ心が開かれるのを待ちます。
 ただ、トトは、エレナな心を知りません。窓の下で待っていたときも、窓は少し開かれていて、開かれるのを待っていたのかもしれませんが、新年を迎えて、その窓は、ある決意のもとに、閉ざされてしまいます。
 トトの場合は、今回は、その後直ぐに、エレナの心を知りますが、恋の真実、いえ、相手の真実というのは、相手にはなかなか分からないものかもしれません。
 でも、そのときに真実が分からないから、人生は面白いのかもしれません。ゆっくりと真実が分かるのが人生なのでしょう。人生は複雑で、多くの縁のようなものが絡み合っています。その糸がほどけていくのには時間がかかるものなのでしょう。

 運命というものを信じながら、そしてまた運命を確信しながらも、ふと、その運命の輪が、既に遠ざかっていることを知るときがあります。それが真実なのかどうか分かりませんが、そのときの運命は残酷に思います。
 でも、それは、二度と巡り合わないということではないのかもしれません。そう、二度と巡り合わないことはない、ということを信じながらも、時は過ぎていきます。

 アルフレードは、トトの進むべき道を感じていたのでしょうか。エレナと共には、幸せにはなれない、と確信します。そうしてまた、彼はトトの可能性を信じていたのでしょう。なにか、そこに感じるものがあったのでしょう。
 アルフレードはトトに、ジャンカルド村のすべてを忘れて、振り返ることなく、自分の信じた道を進めと忠告します。見送った駅のホームでは、二度と帰ってくるな、家には入れないと、別れの言葉を告げます。
 アルフレードは、感じたことに忠実だったのでしょう。それだけ、トトを信じていたとも言えます。
 映画では、映写室から火事があって、アルフレードは視力を失ってしまいます。それを助けたのはトトですが、アルフレードは瞳の光を失って、心の目を開いたという設定になっています。
 わたし達は見えるものに頼りがちですが、アルフレードは心の声が聞こえていたようです。そうして、その声に忠実に生きようとしました。超越的な設定と言えばそうなのですが、心の声に従うことは、一方で、その人を信じる、その可能性に託してみることに絶大な信頼を寄せるということですから、(超越的なものを信じなくても)潔さがそこにはあります。アルフレードの愛がそこにあります。結果、トトとエレナは別れることになりますが、アルフレードがそうさせたのか、そういう運命だったのか、わたしには分かりません。ただ、二人の運命の輪は、それぞれの軌道を回ることになります。

 30年という時が経って、今は亡きアルフレードですが、その彼がサルヴァトーレをジャンカルド村に招きます。アルフレードの葬儀に参列するために、サルヴァトーレは故郷のジャンカルド村に帰ってきます。
 アルヴァトーレにとって30年振りに訪れた故郷ですが、なにも変わってはいないと言います。サルヴァトーレにとって不思議な感覚でした。そう、なにも変わってはいないのです。
 サルヴァトーレの母は、あなたの生活はあちらで、こちらの生活はまぼろしだと言います。

 そこから映画は一気にラストシーンへと向かいますが、アルフレードが残したフィルム――それぞれの解釈があるかもしれませんが、これはアルフレードがサルヴァトーレに残したものですから、サルヴァトーレが感じることなので、わたしの思いはどうでも良いのでしょう。

 それぞれの愛があって、
 それぞれの愛し方があり、
 それぞれのそのときがあって、
 それぞれの人生がそこにある。

 サルヴァトーレにとって、ジャンカルド村は、一つの歴史でもあって、映画館「ニュー・シネマ・パラダイス」はその象徴なのですが、映画の中で、「ニュー・シネマ・パラダイス」は、一つの幕を閉じて、爆破されることになります。

 「ニュー・シネマ・パラダイス」は、ジャンカルド村の人々にとって唯一の娯楽であり、社交場であり、人生でもあったのですが、時は移ろい、映画館は瓦礫と化してしまいます。時の流れは、そういうものかもしれません。

 人々の心の中に去来するものはそれぞれなのでしょう。心には思い出がありますが、「ニュー・シネマ・パラダイス」が瓦解しても、それは一つのピリオドかもしれませんが、心に刻まれたものはしかとあって、それを噛みしめる瞬間でもありました。

 オリジナル版には、その前後に、サルヴァトーレとエレナとの物語があります。それは悲しく切ない物語ですが、サルヴァトーレは、失ったものを取り戻そうとするかのように、まぼろしを求めるかのように足掻きます。でも、果たして、過ぎた時を取り戻すことはできません。
 そうして、サルヴァトーレは知ります、そこにアルフレードが絡んでいることを。通常版では、その部分が、すべてカットされています。
 確かに、ええっ?!というほどのカットがされているのですが、オリジナル版で明かされる物語はサルヴァトーレの心に秘めておいた方が良いものです。
 そこでは、二人の運命の輪が再び接近することになるのですが、これはもう言わずもがなということでしょう。

 秘密としての真実は、その人のものなのでしょう。その人の心の中で、感じることはあるのだと思いますが、映画の中であったとしても、真実として曝くことは必要としない――良しとしないものかもしれません。

 サルヴァトーレとエレナとの間に、果たしてアルフレードが絡んでくるのですが、あのときの真実が明らかになったところで、何が変わるというのでしょう。特に映画ですから、美しいものを美しいものとしてそっとしておくことも必要なのでしょう。カットは時間的な都合としても、良しとしておく方が良いようです。

#3/3
 映画の最後のシーンで、サルヴァトーレの母は、あなたにとってジャンカルド村での生活はまぼろしだと言います。
 夢もまた真実なのでしょうけれど、夢の中では、人は、永遠に生きることはできないのでしょう。
 そういう意味ではまぼろしの中では、真実を感じることはできても、生きることはできない。映画のように、垣間見ることはできても、その中で生活はできない。

 サルヴァトーレの母は、あなたの生きるところは別にあると諭し、まるで、在りし日のアルフレードのように、サルヴァトーレを元の生活に戻します。
 そうして、あなたを愛す人がいればという願いを託しますが、その願いはおいそれとは見つからないのしょうけれど…… ただ、アルフレードもサルヴァトーレの母も同じで、トトに、サルヴァトーレに、その生きる道を託しているのです。

 それぞれの愛があって、
 それぞれの愛し方があり、
 それぞれのそのときがあって、
 それぞれの人生がそこにある。

 映画を観ていて、「ふるさとは遠きにありて思うもの」という言葉を思い出したのですが、これには悲しい響きがあるのですが、サルヴァトーレは、30年振りに帰ってきたジャンカルド村で、何かを見つけました。
 故郷は、あるときには辛く、そうして、時を経て、また何かを教えてくれるものなのでしょう。ただ、距離や時間の問題ではなく、自身の心の中にそれはあるのだとは思います。

 『ニュー・シネマ・パラダイス』の通常版では、一気に最後のシーンにいきますが、古の、検閲でカットされたフィルム――アルフレードがサルヴァトーレに残したもの――をサルヴァトーレが観ることで終わります。

 検閲でカットされていたシーンは、少年の頃のトトに、アルフレードが、映写室から追い出すために、取引をしよう! これはお前にやる、だが、管理は俺がやる。だから、お前はここ(映写室)から出ていけ!と命じます。トトは、素早く戻ってきて、自分ものをあんたが管理しているのはおかしいと理屈をこねます。
 アルフレッドが観ていたシーンは、その頃の、キスシーンを繋ぎ合わせたものですが、アルフレードの心には去来するものがあったのだと思います。果たして、わたしには、よく分からないのですが――

 それぞれの愛があって、
 それぞれの愛し方があり、
 それぞれのそのときがあって、
 それぞれの人生がそこにある。

 映画の中のワンシーンのように、心の中の思い出として、そこに封じ込められているものがある、とでも言っているように思えます。

 そのシーンの前に、サルヴァトーレは、ジャンカルド村の自分の部屋で、若き日の自分自身(トト)が写した、エレナのフィルムを観ます。
 懐かしい思い出が蘇ります。サルヴァトーレは、これまで強さで封じ込めていたと言いますが、思い出はまるで昨日のことのように蘇ってきます。
 そのことを、サルヴァトーレは痛感するのですが、通常版では甘酸っぱい思い出としてのみで終わります。この終わり方が良いのだと思います。あとは、サルヴァトーレの心の中に託せば良いのですから。

 トトが、ジャンカルド村で過ごしたときは、既に過ぎたものですが、それも確かに一つの人生なのでしょう。そうして、それが一つの人生であっても、別の道――トトが歩んだ道が、サルヴァトーレの人生なのですから、その歩んだ道を進むしかないのでしょう。
 振り返って見て、そこに、今あることを痛切に感じたとしても、それぞれが自分の人生を歩んできたように、また、それぞれの人生を歩むのでしょう。サルヴァトーレは、エレナと過ごした日々を心の奥底に秘めて、また、それは、ゆっくりと泡のようにわき上がってくるときを待つのでしょうけれど、夢は夢として現実を生きるのでしょう。

 それが人生なのだと思います。ただ、夢の中では、生き続けられない。でも、夢がないと、現実だけでは生き続けられないのもそうだと思います。

 そうそう、言わずもがなを一つだけ。
 人は、それぞれの方法で、いつも夢に触れることができるのも、そう、それが人生ですから、と嘯いておきます

 映画コーナーでは、『タイタニック』のことは一度も触れていないんですね〜
 でも、どこかで書いた筈なんですけど、、、、ああ、もう、、、痴呆が、、、あっ、これはダメなんですね、、、認知症の始まり? 物事には、全て始まりがある?

 ちょっと、引用したかったので、
 えっ、やっていることが良く分からない?
 そうですよね……
 うーん、、、昔は良く言われたんですけど、最近はそうでもない?
 みなさん、遠慮なさっているんでしょうか〜
 一人遊びが好きなのは、今も昔も変わらないようです。


平成21年6月16日(火)
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 以前、映画『タイタニック』(どのタイタニックだと言われるかもしれませんが)のことについて、記したことがありました。
 どこで?と聞かれると、ちょっともう覚えていませんので、コメントで記したのだと思います。
 重複しますが、以下に抜粋してみます。

 「お婆さんとなったローズが出てきて、回想しながら物語が進むなんて、ほんと良くできている。ローズの生き様というか、そういうものにまで思いを寄せることができるから。」

 「でも、ローズはいいわね。子どもを作って、夢を叶えて、温かい布団で死ぬんだよという、ジャックの言葉どおりに生きて、死んでいけるのよね。」

 確かに……

 ローズの心の中にジャックがいて、ジャックと共に生きたのでしょう。でも、一方でローズは、家庭をもって幸せな家庭を築いています。これはそういうものだと思います。
 心の内なるものと、人生をどう生きるかということは繋がっているのですが、ジャックはローズなのですから。(恋愛とかと混同してはいけません。まぁ、そうして失敗していくのでしょうけど……)

 「ローズはジャックとの約束を果たしたんでしょうけど、でも、ローズの旦那さんはどうなるの? 旦那ははなにもしらずに……」

 とぼけて、ちょっと別のところに飛んでしまいましたが、そこは割愛して、次の書いたところから引用します。

 「じゃなくて、ローズの心の中に、ジャックとの言葉があって、彼女はその通りに生きるんですね。ジャックの最期にのこした言葉は、ローズの生きるということに強く繋がっているんですね。
 ローズのご主人は…… 確かに、わたしもそう思います。
 わたしは、いまだ、どうすればいいのか分からないのですが、ただ、一つ、ローズはご主人に対して誠心誠意尽くしたということ。多分ですが、ジャックの言葉を生きるということはそういうことなんだろうと思います。

 (中略)

 でも、わたしは、分かりません。色々と分からないことが多いんですけど、今を一生懸命生きるしかないようです。

 分かりませんというのは、心の中にはローズにとってのジャックのような存在があります。ここはそれぐらいで留めておきます。

 (後略)

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「ターミネーター サラ コナー クロニクルズ シーズン2」――キャメロンについて

(こっちに飛んできて書いています。純粋なネタばれではありませんが、Vol.4まで見たわたしが、今後の展開を想像しています。続きを観るにあたって、今後の展開が、自分の頭の中で想像していることがどの程度入り込むのかどうかについては楽しみの部分でもあります。自身が想定していることを書いていますので、まだ見られていない方にとっては、先入見になるかもしれませんから、ご注意ください)

 「ターミネーター サラ コナー クロニクルズ シーズン2」のVOL.4まで見ましたが、シーズン2になって、当初は同じような路線で進んでいたのですが…… と書きながら、えっ、シーズン1って見たっけ? 記憶が…… 爆発シーンを見たでしょう!? ちゃんと整合性がとれてたじゃないの!と陰の声がします。そう言われて見れば、シーズンはVOL.5まで見たような気がしないでもない、と実にあやふやだったところ、それで、VOL6を借りてきたら、シーズン2のだった、ということを思い出しました。ああ、確かに整合性がとれている…… でも、わたしが悪いんじゃなくて、話が登場人物にスポットが当たったりしだしたので、違和感を覚えたもののはまってしまって、元のストーリーを忘れてしまったのかもしれません。と、言い訳しきり?


 登場人物にスポットを当てることは、ストーリー的にはどうでもいい、というわけではなくて、方向転換をするよという事前予告のような気もします。が、本流から一気に傍流の方に流れてしまって、一見すると、本流がどうたったのかさえ記憶が危なくなります。えっ、わたしだけ?

 映画『ターミネーター』との棲み分けが必要ですから、必要な方向転換なのだとは、勝手に想像いたしますが、映画通の方ならば別なのでしょうけど、わたしのプアーな記憶力では、えーっと、以前の話はなんだっけ?になります。


 さて、キャメロンですが、彼女に与えられた役割が、このシーズン2ではキーになるのではないかと想像しています。
 キャメロンは、ジョン・コナーを抹殺するために反乱軍によって作られたターミネーターですが、過去のジョン・コナーの元に現れたときには、未来のジョンが反乱軍から自身を守るためにリプログラミングしたものとなっています。

 反乱軍も手ぬるくて、ジョンを抹殺するならば、もっと、効果的な方法もあるように思えます。すると、まぁ、ジョンの重要性はそれほどでもないというところでしょうか。
 確かに、あまり大々的に仕掛けてしまうと、はちゃめちゃになってしまいますけど、生身の人間が圧倒的な火器をもった刺客に狙われても無事でいるということはないのでしょう。この辺りは、長く平穏な生活を繰り広げているさまを見せつけられると、余計にそう思います。反乱軍も生ぬるいと感じてしまうのは仕方ないところでしょうか。

 キャメロンに戻ります。まだ、シーズン2のVol.4までしか見ていないので、肝心なところは――また今後の展開における実際はどうなのかは分かりませんが、キャメロンは元のプログラムから上書き(修正)されているものの、ベースとなる記憶のインプットが重要性を帯びてくるように思えます。まるで人めいていて、キャメロンがキャメロンであるところの記憶(インプット)は深いところにあるようです。

 その記憶(人間キャメロンの記憶)がどのようにキャメロンの行動を律していくのかは、今後の展開を待たなければなりませんが、実在の人物から記憶がインプットされているようですから、ターミネーターキャメロンの記憶は人間キャメロンの記憶でもありますから、何らかの仕掛け(機能低下?)によって、ターミネーターと人間キャメロンとの敷居が低くなるということでしょうか。

 この記憶部分が紆余曲折を経て、キャメロンの謂わば本能のように――行動を司るように想像されます。ターミネーターが生身の人間のようになるんですね。(あくまでも自己勝手な想像です)

 きっと、この記憶の部分が、人でいうと大脳辺縁系辺りになるのかもしれません。記憶としてインプットされたものが、プログラミング及びリプログラミングの不安定さから、新たに人格として構成され、プログラミングから主導権を奪うのかもしれません。
 それがキャメロンをどう変化させ、ストーリーにどのように反映されるかは見てのお楽しみになるのかと思いますが、わたしの予測が全く当たらないということは十二分に考えられます。たとえ、実際の展開がどのようになろうと、それはもうどうでもいいかもしれません。自身の楽しみは別のところにありましたから。

 キャメロンの記憶は、当初はメモリーにしか過ぎないのですが、記憶と人間キャメロンの感情部分とが統合、構築されて、プログラミングされていくというのはかなりの進化形ということになります。

 記憶が単なる記憶に留まらず、生身の人間の感情と統合・構築して、人格にまでいたるととすると、同じ(記憶を有する)キャメロンでも、もっともっと進化していくと、別のキャメロンになってしまうのでしょう。そう、人間キャメロンは、既に、進化はとまっている(死んでいる? 少なくとも「ターミネーター サラ コナー クロニクルズ シーズン2」時間はとまっています)

 ターミネーターキャメロンは一個の人格をもったものとして生き続けます。その後、生きていく上での様々な経験を通して、行動様式を変えていくかもしれません。でも、ベースには、人間キャメロンの(悲しい)記憶があるのですね。
 「ターミネーター サラ コナー クロニクルズ シーズン2」では、キャメロンを中心んして、ジョン・コナーとの出会いとか、別れとかが、さらりと流されるかもしれません。
 さて、実際の「ターミネーター サラ コナー クロニクルズ シーズン2」はどのように進んでいくのでしょうか? 楽しみです。

 最後に、キャメロンは、触覚なども備えているようで、その知覚が記憶とリンクするのかもしれません。すると、学習によって、人間の知覚を理解するようになるかもしれません。
 人間とは一体なんでしょう? キャメロンはまるで人間のような知覚と行動を持つことになりますが、いろいろと考えさせてくれそうです。
 『AI』では、人工知能は人間の子になろうと、フェアリーに祈りを捧げますが、それはお母さんの愛情を受けることでした。本来受けることのできる愛情からネグレクトされてしまうことは、人工知能にとっても一番辛いことだったのですね。
 キャメロンはさて、ジョン・コナーの愛情を受けることができるのでしょうか?
 本流から離れて、一向に進まない「ターミネーター サラ コナー クロニクルズ シーズン2」ですが、伏線が張っていましたので、想像(妄想?)を膨らませて、キャメロンを取り巻く新たな展開があるものと期待しています。

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