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			<title>無芸大食</title>
			<description>プログって何か分かっていません。ゲストブックの方は、少しイメージできます。
昔、HPを開いていたときに、ゲストブックで遊んでいました。遠い目～　今ではHPも閉じられて、漂流中です。
ここでは、とりあえず、つれづれに感じたことを書いていきます。ストックから拾うことも多いかも。
何か感じたことをお書きくだされば、嬉しいです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tekkou_mail</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>無芸大食</title>
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			<description>プログって何か分かっていません。ゲストブックの方は、少しイメージできます。
昔、HPを開いていたときに、ゲストブックで遊んでいました。遠い目～　今ではHPも閉じられて、漂流中です。
ここでは、とりあえず、つれづれに感じたことを書いていきます。ストックから拾うことも多いかも。
何か感じたことをお書きくだされば、嬉しいです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tekkou_mail</link>
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		<item>
			<title>「送られなかった手紙」に寄せて</title>
			<description>　ここに載せようとして、送られることも、ここに載せられることもなく、静かに消えていく文面があります。&lt;br /&gt;
　ここのタイトル「届けられなかったメッセージ」は、今回、「送られなかった手紙」と読み替えてみます。&lt;br /&gt;
　余りにも長くなるので、まだ未完なので、色々と理由はいつも後付けなんですが、魂というものがあるならば、そこに刻まれているので、それで十分といえば、そうかもしれませんが……&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そこには哀愁があって、それでもそこに横たう気持ちは犂脅姚瓩任靴腓Δ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今ある自分を考えてしまいます。今ある自分が何でできているかということを思うと、共にあるということはそうですし、感謝の念はそこからきます。&lt;br /&gt;
　さて、前置きはこれぐらいにして、先の「送られなかった手紙」に代えて、全く別のものを載せてしまいます。（タイトルからは反して、送られれた手紙になりますが）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
-----------------------------------------------------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　年末年始を迎えて、気づけば過ぎています。以前感じていた節目という意識がなくなり、襟を正すこともなく、一年３６５日のうちの一つとして、単調に重ねていくだけになりました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　お正月が平板なものになっていますが、ハレとケで考えれば、一日一日はモノを基準にすれば贅沢になり、ハレとケが混在するような日常生活になっています。また、一年の計は元旦にありと、将来への希望を持つことが、実生活では無意味なことに成り下がっているようにも感じます。&lt;br /&gt;
　もはや特別の日としての意識を持つことが難しいのですが、これは自身の内なるものだけではなく、周囲も同じようになっているということを感じます。&lt;br /&gt;
　自身よりも、周囲がそのように様変わりしてしまったこと、果たしてそれを自身が多大なる影響を受けていることに驚きを覚えますが、ハレとケの分け目のない生き方の中で、自身がどう矜恃をたもつか、節目を作るかが肝要になるように思います。日々の日常生活のなかで、それを自分自身が設けなければいけないように感じています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ディズニー映画『「トイストーリー』で、おもちゃのバズライトイヤーが格好つけて飛ぶシーンがありますが、実際は、おもちゃだから格好つけて落ちていくだけです。それでもバスライトイヤーは飛んでいると思っています。綺麗な誤解はそれはそれで生きる上で必要です。あるとき、それが実際は落ちていることを知るのですが、彼は、映画の中でも、凄く落ち込みます。何かしら、自分を支えているものが折れてしまうと、まさに心が折れてしまいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ところで、若いことが商品になることに嫌悪感が抱く方がいますが、少数でしょう。若いこと、美しいこと、力のあること、それが益々右方上がりになっていくことを信奉し、に価値を置いてしまうと、歳をとって、凋落していくことは耐えがたいことで、自身が価値のないものに感じてしまうのではないかと思ってしまいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　あるとき、バスライトイヤーは「格好つけて落ちていく」に納得（＝それにも価値があると）しますが、どう生きるかということと折り合いをつける必要はあります。若いこと、美しいこと、より力のあることに価値を置く価値観に縛られていますが、老いることはそこでは否定されていますが、それも人生です。生きるなかで、それをどう納得させるか、価値を見いだすかは、個人の内にあって難しいのだと思いますが……&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　Ｎさんは、「自己の想い、理想を、追求したいものです。」とお書きですが、歳を重ね、色々と失っていくものがあっても、「生を、命を燃焼させたいものです。」ことは重要なことかと思います。&lt;br /&gt;
　「少しでも、健康で長生きした者が勝者のような気がします。」とお書きですが、生きていることが大切です。狎犬ていること瓩鬚匹生きるかということになるのだとは思いますが、熱き思いや、希望の光は失いたくないものです。勿論、若いときの、右肩上がりのものではありませんが、落ちていくときには落ちていくことにも価値があるのだと、言葉で言うのは簡単ですが、飛ぶ鳥を落とす勢いのある美を前にして、そんな言葉は霧散してしまいそうです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　盛者必衰の理は、諸行無常という仏教観に支えられていますが、三島由紀夫を連想してしまいました。鬼才を放った天才ですが、ドナルド・キーン氏は深い親交があったそうです。かのキーン氏が絶賛する三島由起夫ですから、遙か雲の上の人ですね。とても感受性が鋭く、文章にあっても、読み手に気を回していることが窺い知れるところがあって、その辺りの気配りが氏独特だと思うのですが、閑話休題。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　滅びの美に酔うのはナルシズムで、自己に陶酔するのは、現実から離れてしまうので考えものですが、もし、そこに自分以外の多くのものを見つけることができれば、また、幅が広がってくるのではないかと思います。&lt;br /&gt;
　わたし自身、今ある自分は多くのものからできあがっていると思っています。それを感じて、共に歩いていくということ、その培われた自分が、次に何ができるかということで、新たな自分を発見というか、感謝の念を抱き、共に歩いていくことを実感するのが、残された人生の行き方のように思っています。残された人生も一つの新たな時代――自分のなかの最期の時も一つの人生で、それを生きることもまた一つの人生なのかなと思っています。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tekkou_mail/41547310.html</link>
			<pubDate>Sat, 07 Jan 2017 17:02:06 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>オークション（DCD-3300）</title>
			<description>　今、T-110というＬｕｘｍａｎのＦＭ専用チューナーを出品しています。一時期、大変、気にいったチューナーでしたので、気づけば３機も手元に集まりました。１機を残して手放そうと思います。&lt;br /&gt;
　これ以外にも、自走式のレコードクリーナーと、ＣＤプレーヤーのDCD-3300も手放すことにしました。DCD-3300は郡津で聴いていたのですが、ＣＤ認識に不都合が生じる頻度が高くなりました。アースが上手く取れていないような気もするのですが、香里園ではメインシステムは現在解体して、今後、DCD-3300の出番はないように思いました。以下のような商品説明を添えることにしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
◎DCD-3300&lt;br /&gt;
--------------------------------------------------------------------------&lt;br /&gt;
○商品の状態――&lt;br /&gt;
・出品にあたり、手持ちのＣＤの何枚かを再生してみました（以下をご参考願います）&lt;br /&gt;
・調子の良いときは、ＣＤを認識しますが、認識しないときがあります。&lt;br /&gt;
　※その際には、本機を傾けます（左側を上げます）と、ＣＤを認識します（以前は左手前を少し浮かせるだけでＣＤを認識しましたが、本機は重量がありますので持ち上げるにはかなり力が要ります）&lt;br /&gt;
　（一部ＣＤ－Ｒも読み込みましたが、このような状態ですから、全てのＣＤの読み込みは補償できません）&lt;br /&gt;
・経験則からですが、例えば、本機の上にオーディオ製品などを重ねて置きますと調子が悪くなるようです（ＣＤを認識しなくなります）&lt;br /&gt;
・移動などで底板を持つときに、端の方にべたつきがあります。他にＤＣＤ－３３００Ｇを保有しますが、同じ症状がでていますので、経年によるもののようです。性能には関係はありません。&lt;br /&gt;
（蛇足ながら、不思議ですが、所有するＤＣＤ－３３００Ｇと比べて、本機の方が音が良いような気がします。ＣＤ再生に問題がなければ言うことがないのですが……）&lt;br /&gt;
・このような状態ですから、ジャンク扱いで出品いたしますので、ノークレーム・ノーリターンでお願いいたします。&lt;br /&gt;
・また、リモコン等の付属品はありません。画像に写っています本体が全てです。&lt;br /&gt;
--------------------------------------------------------------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　出品に際して、ＣＤの認識の具合を再確認するために、マランツCD-44（後日、ここで記載する予定ですが）と入れ替えて試聴してみました。&lt;br /&gt;
　DCD-3300は、ＣＤの認識の不具合は思ったほど酷くなくて、一度、再生するとほぼ問題なく動作します。ＣＤ－Ｒもほぼ再生してくれます。持ち上げなくても、底板のビスに手を添える程度で認識してくれます。アースが上手く働いていないのでしょうか？　この辺りは良くわかりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ラックス好きのわたしとしては、LUXMAN D-500というＣＤプレーヤーがお気に入りなのですが、またメインシステムには両機とDCD-3500を据えていましたが、もっぱら聴くのはDCD-3300でした。これも機器やわたしとの相性かもしれませんが、音の粒立ちと余韻が素晴らしくて、ピアノや弦の再現性にかけては、太刀打ちできない感がありました。もちろん、D-500もDCD-3500も素晴らしいＣＤプレーヤーですが……　音というより聴いていたいという気持ちにさせるか否かということでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さて、そういう訳で、マランツCD-44と入れ替えて聴いたところ（再生装置は大したことがなくて、EL34のシングルアンプにスピーカーはDENON SC-410；これもそのうちここに記載する予定です。順番待ちというところでしょうか。エッジが朽ちてしまって、布エッジにしたのですが、音のバランスが取れず苦労しました）、ピアノの音が素晴らしくて、また、マランツCD-44は弦楽器の再生が素晴らしいのですが、ボーカルが少し弱い。DCD-3300はボーカルの再現性も素晴らしい。&lt;br /&gt;
　郡津では、同じようなシステムで聴いていたのですが、DCD-3300の良さがそれほど分からなかった（自覚できなかった）ようです。スピーカーは	DENON SC-104を据えていましたが、もしかすると良い音で聴いていたのかもしれません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そういうわけで、昨日から、モーツァルトの170 CD BOXを聴いています。再生するのに少し難しいシリーズですが、CD-44とSC-410のセットでは、無難にアナログ的に鳴らしてくれていましたが、DCD-3300では、音の場の再現性が大変素晴らしく、音を忘れさせてくれます。&lt;br /&gt;
　そういうわけでマランツCD-44の出番はなくなってしまいました。&lt;br /&gt;
　思えば、DCD-3300とは長い付き合いになりますが、少々、扱いにくいところもありますが、一つの癖、個性として、悪いところも含めて、この機器の良さを自分が一番知っているわけですから、やはり長く付き合っていくことにしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　SC-410、この小さなスピーカーが心地よく音楽を奏でています。至福のときは、このとき以外にはないのでしょう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tekkou_mail/40150151.html</link>
			<pubDate>Sat, 13 Sep 2014 12:38:45 +0900</pubDate>
			<category>その他趣味</category>
		</item>
		<item>
			<title>不要不急にして</title>
			<description>　書きかけの記事が残っていました。吝嗇なわけではないのですが、いえ、そうかもしれません。&lt;br /&gt;
　実は、スピーカー編を載せようｔしたのですが、時間軸（順番）が後先になってしまいますので、こちらを先に載せてしまいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　Luxman MQ-80を手放しました。虎の子のＲＣＡの６３３６Ａも手放しました。また、MQ-70も手放しました。大変綺麗な状態でしたので、手元に置いておいても良かったのですが、シングルアンプの方が素直で聞きやすくて、それにMQ-60やMQ-68Cの方が、軽くて小さいのですが、ラックスらしいです。どこかで愛聴されることを願うばかりです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今、グールドによるバッハの平均律集を聴いていますが、音楽がそこにあればそれで十分かなと思います。ほんと、こういうのを（演奏を）聴いていると、これで十分だと思います。何も要りません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ところで、Scandyna A-35を次に手放そうと考えています（これを書いているときには、まだ手放す前だったのですね。大変上品な音を出すスピーカーです。あちらでは貴婦人と評されていたと聞いたことがあります。単身赴任のときにこのスピーカーで聴いていました。LuxmanのC-1010とM150の組み合わせでしたが、C-1010はLuxmanの中でも色づけの箇所がユニークです。これまでのものと一線を画して、フラットアンプ部に色づけを感じます。音がまろやか、柔らかで、真空管アンプとはまた異なった色づけがされていました。Scandyna A-35はこの組み合わせが一番でした）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さて、アナログプレーヤーについては、こんなにも要らないでしょう、と言われて、確かに……&lt;br /&gt;
　DP-3000は、これぞDenonのプレーヤーと、一見して分かりますし、デザインがシンプルなので大変気にいっています。ただ、何を残すかとなると、DP-6000の方かと思いますので、メインシステムに３機据えていましたが、取りあえずDP-6000に替えました。ターンテーブルの重量がかなり異なりますので、同じアームを使っても音に重厚感があるような気がします。&lt;br /&gt;
　信憑性はわかりませんが、自分の中では、DP-3000は音が軽いと思っています。が、軽いから悪いわけではありません。軽やかに通じますので。DP-3000はストック品もかなりあったので、それらをまず手放しました。DP-2700も２機ありますが、これも手放す方向で考えています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　整理していて思います。整理整頓ができないわたしは、きちんと片付けることができませんので、あまりものに囲まれていると、引きはがすのが大変です。いつの間にか、色んなものがくっついていますので、引きはがすのが至難のわざです。何が必要で、何が不要なのかは難しくて、別に、何も要らないのではないかと思えるほどです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そうこうしている間に（知らぬ間に）レコードは地下に入れられてしまいました。ＣＤかレコードかと言われていたように……　レーザーディスクは難を免れましたが、レコードはそのうちカビがはえてしまうことでしょう。除湿機を設置していますが、レコードの保管のためだけに、常時稼働させているわけにもいきません。レコードのために電気代をかけてまでという酔狂さは持ち合わせていません。ここは潔く朽ちるのに任せてというところでしょうか。&lt;br /&gt;
　ちなみに、レコードを置いておいた部屋は、猫部屋になっています。猫が走り回っています。まぁ、それでいいのでしょう。そのうち、わたしもどこかで自由に走り回ることを夢見ています。でも、そんな元気がいつまで残っているのでしょうか？　振り返れば、身体がしんどいなぁ～と、そればかりが記憶に残っています。最近は特に身体がしんどくて、精神も身体も疲れているのかもしれません。楽しみもなくなってしまって……と書いてもこれは誰にも分からないかもしれません。&lt;br /&gt;
　ちょっとしんみり、愚痴っぽくなりそうなので、この辺でやめておきます。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tekkou_mail/40073196.html</link>
			<pubDate>Sat, 02 Aug 2014 23:24:18 +0900</pubDate>
			<category>その他趣味</category>
		</item>
		<item>
			<title>続き―その２</title>
			<description>　女性が強くなっていくとはもうしません。一方で、歳を重ねるごとに男性は弱くなるのでしょうか？　この辺りも良くわかりません。女性が嫋やかさより、真っ直ぐな潔さへとシフトするからでしょうか。&lt;br /&gt;
　女性は、社会が決めた女性像に従いつつも、時を経て、社会の縛りから、より自由になっていくような気がしてなりません。&lt;br /&gt;
　男性も仕組みそのものは同じかもしれませんが、少し不自由にできていて、社会の縛りから自由になれないため、生まれ変わることができなくて、同じところをぐるぐると回ってしまうのでしょう。ただ傍からみて、未練がましくていけません。と、自分を基準に考える悪い癖？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　最近では、女性の管理職を増やそうという動きがありますが、これについては、コメントはいたしません。外形だけ取り繕っていく内に、その内にしっくりくることを祈るばかりです。（反対しているわけでは決してありません。文化のあり方、家族の関係等々、共通的な規範を失っていく状況にあって、家族のあり方が難しくなるような気がするだけです）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　話が脇道に逸れてしまいましたが、香里宅のわたしのゴミが一向に片付かないので、揚げ句の果てには、４月末から、お片付けと称されて、一人で住まわされて、半月以上（これを書いているときは半月だったのですが、今では１月）が経ちました。&lt;br /&gt;
　以前、単身赴任を３年間したことがありますが、それとはまた勝手が異なり、苦手な、お片付けが待っていると思うと――実際にお片付けをするかどうかは別として、精神的な頸木はことのほか精神を蝕んでいるようで、お陰で大変疲れやすくなっていて、いつも眠気に襲われているのはこのせいなのですね。&lt;br /&gt;
　溜め込むのではなくて、掃き出すとなると、真逆なことを――生き方を変えると言えば大層なのですが、コペルニクス的転回を要求されているようなもので、&lt;br /&gt;
　あまり勢いよく反転させようとすると、けっちんを食らって、ぐるっと３６０度回転しそうです。&lt;br /&gt;
　ここ一年でいろいろな事があって、子細は省きますが、乏しい想像力を絞って、種々考えてみてはいるのですが、なにも見通すことができません。&lt;br /&gt;
　これまでの人生のなかで、どう生きるべきかということが強く問われているようにも思うのですが――一種強迫観念的に？――これまでの生き方と、これからどう生きるのかということとがせめぎ合って、わたしの軟弱な精神では、対処が難しいようです。こういう生活が長くなると離人症を発症しそうで、何か一つ大切なものを見つけて、後生大事にしようと殊勝なことを思ったりもしますが、諸々の欲から離れてみる方がよほど大切なのかもしれません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そういうこともともかくとして、オーディオに立ち返りますが、オーディオ製品の処分を行っています。まぁ、大したものは持っていないので、書くようなことはないのですが……　こちらは次回に回します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　その前に、先日、ピアノを処分しました。６０年代後半製造の旧いものでしたが、一度、弦の張り替えや、アクションの大がかりな修正を行っていますので、状態としては、調律はともかくとして、大変良い状態でした。響きや音も大変良くて、元々が良いものでしたので、いつかは、ピアノをと思っていたわたしとしては、手放したくはなかったのですが、これも断捨離でしょうか。&lt;br /&gt;
　ただ、思うのですが、わたしはどうも手放すことができない性質のようです。バランス感覚が悪いというのでしょうか。未練がましい？　その辺りはよくわかりませんが、まだまだ使えると思ってしまうのでしょうか。吝嗇というわけではないのですが、所謂「もったいない」という気持ちのようです。&lt;br /&gt;
　でも、オーディオ製品にしても、メインのアンプは７０年代のものですから、ピアノとそれほど変わらないわけです。&lt;br /&gt;
　新しいものが良いとも思えないのですが、切り替えて、生活を一新するというのも必要なのかなと思います。自分だけで生きているわけではないので、どこに立脚するかは大事なことかなと思います。ただ、もったいないという気持ちとどうつきあうかも大切になります。（経済成長のためには消費は必要なんでしょうけど、それは、他の方々にお任せして慎ましやかな生活を送りたいと思っています）</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tekkou_mail/39972955.html</link>
			<pubDate>Wed, 11 Jun 2014 18:10:04 +0900</pubDate>
			<category>その他趣味</category>
		</item>
		<item>
			<title>続き―その１</title>
			<description>　オーディオも、驚きを狙っていたのでは、疲れて仕方がないでしょう。かといって、いつもの音ばかりが鳴っていたのでは飽きてしまいます。&lt;br /&gt;
　身勝手なものですが、そういうことがなくなってしまったら、生きているとは言えないのかもしれません。&lt;br /&gt;
　音を聞いているわけではないと思いつつ、そこにプラスαがないと面白みがないというのは人生も同じなのでしょう。それでも、あまりに、アップダウンがあれば息が上がって、やってられないので、程ほどのところで、事大主義的に針小棒大に構えているのが精神衛生上はよいのかもしれません。趣味としてのオーディオは小さな差異を取り上げてああでもない、こうでもないと言っている内が華なのかもしれません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さて、今年に入ってから、香里園宅を片付けに入っていますが、１０年近く、ほったらかしの状態なので、自然とゴミの山になってしまっています。&lt;br /&gt;
　ここ数週間、わたしは香里園宅に住み着いて、１０年どころか、それ以上、大凡２０年近く前に封印されたものを思い切ってゴミとして処分しているところです。&lt;br /&gt;
　断捨離という言葉はわたしの辞書にはなくて、捨離を断つのならば、捨てられないのではないかと思うぐらいですから、前途多難です。&lt;br /&gt;
　当時は必要として取っておいたものだけに、思い出の品々は、忘れていた記憶やそのときの感情がその一瞬に解き放たれる思いがして、物には思いが封じ込まれているということを痛感する一方で、モノが云々というより、後悔しきりで、自分はその思いをどれだけ大切にしてきたのだろうかと自省を強いられます。&lt;br /&gt;
　本当にしなければならなかったことをおざなりにしてきたのではないだろうかと、一種、今の自分の在り方が強く問われることになります。&lt;br /&gt;
　一生かかってもやることはやる――詭弁なのでしょう。これを隠れ蓑にして怠惰に流されてしまいましたが、果たして無為に過ごしてきたようです。言葉なんてどうでも言えることで、言葉には何の価値もないことを否応なしに痛感します。&lt;br /&gt;
　ただ、時がまだだったのでしょうか？　これは良く分かりません。２０年近く、何の進歩も進化もなかったのですが、ただ、振り返って、今こうして当時のものに触れてみると、２０年近く経ったことの意味もあるのかもしれないと漠然と思ってしまいます。&lt;br /&gt;
　過ぎた時を悔やんでも仕方ないので、今、自分が何をできるのか、それを行動に移すことで、また新たな道が拓けるのではないかと、（自分自身を）信じることにします。と、今回はこれぐらいにしておきます。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tekkou_mail/39921892.html</link>
			<pubDate>Tue, 20 May 2014 23:20:30 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>少しリレー形式で。。。。（アップしたら、お風呂に入って寝ることにします。少し冷えてきましたから）</title>
			<description>　最近、キッチン（香里園宅）で――夜な夜なアルコールを浸るのではなくて、音楽を聴いています。わたしは自宅ではアルコールは飲まなくて、かといって、外で酒を飲む機会があるかと言えばこれまた全くと言っていいほど機会はないので、飲みませんが……&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　では、何を楽しみに生きているのかと問われると、自分でも分からない？　今は、家の片付けが趣味ですと、嘯いておきます。&lt;br /&gt;
　そうは言うものの、根っからの片付け下手のわたしは、片付けが一向にはかどりません。まるで賽の河原で石を積み上げては崩れ、また積み上げては崩れるというのを繰り返しているようなものです。&lt;br /&gt;
　鬼がきているかどうかはわたしには分かりませんが、こうもゴミが次ぎから次へと出てくることを思うと、やはり鬼はどこかにいるのだと思ってしまいます。では、鬼はどこに？　どこかに隠れているのでしょう。そっと、心にでも聞いてみましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今（5/10土曜日の午前３時過ぎ）、片付けもせずに、シングルアンプに火を入れて、バッハの平均律を聴いています。&lt;br /&gt;
　スピーカーはBoston AcousticsのT830を置いていますが、響きがこの部屋に合っているのでしょうか。T830は、３ｗａｙのトールボーイ型で、ウーファーは20cmなのに、驚くほど豊かな音を奏でています。独特の音場を再現していて、このスピーカーの素性の良さが存分と発揮されています。&lt;br /&gt;
　T830はわたしの持っている中では新しい部類のスピーカーになりますが、先に記したA400の次世代になるのでしょうか。オーディオが流行っていた往事よりは、少し洗練された今風の感じがしますが、素直で真面目な音作りのBoston acousticsの音の流れを継承しつつ、定位（楽器）よりは、音場（空間）を意識した作り込みになっているようです。&lt;br /&gt;
　その音作りが、ここ（キッチン）では上手く表現されていて、最初に音を出したときには、その音の拡がりに驚きを覚えましたが――ただ、こういうのも直ぐに慣れで、ああこれはこういうものだと知らず納得しています。却って、慣れとは怖いものだということを知らされます。大層に考えると、生活もそのようなもので、驚きも一時で、ああこれはこういうものだと、知らず生活の一部になってしまいます。そう、いちいち感動を新たにして驚いてばかいいたのでは生活が成り立ちません（疲弊してしまいます）　人は省エネにできているものだと驚くばかりです。閑話休題。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tekkou_mail/39885479.html</link>
			<pubDate>Sat, 10 May 2014 03:28:05 +0900</pubDate>
			<category>その他趣味</category>
		</item>
		<item>
			<title>Boston Acoustics A400</title>
			<description>Boston Acoustics A400&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　Boston Acoustics A400をオークションに出しました。あまりにもマイナースピーカーなので、オークションにならないと思って、開始価格をペアで１０万円と高めに設定しました。この金額で落ちるか、落札者がいないのかのどちらかだと思いますが、多分、後者の可能性が高いでしょう。&lt;br /&gt;
　A400は、８０年代の製品で、アメリカでは大変リーズナブルな価格で売り出されていましたが、日本での輸入販売はエレクトリ（マッキントッシュなどを扱っていたところ）が扱っていて、当時の販売価格は３１８,０００円（ペア）だということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　Boston Acousticsと言えば、日本のオーディオ界では知る人ぞ知るというか、日本では大変マイナーな存在となっています。アメリカは東海岸が拠点のようで、地理的な要因もあって日本ではそれほど知られていなかったのかもしれません。現在、天井埋め込みや壁埋め込みのスピーカーを作っていますが、それでも、車の世界では、高級カーオーディオメーカーで少しは知られていると思います。このような状況ですから、Boston Acousticsは、一般のオーディオ界から身を引いてしまったように思えます。これまで良心的な製品作りをしていましたので、大変残念です。どのスピーカーを聞いても音作りが大変素晴らしいです。ただ、A400以降、どのスピーカーメーカーにもいえるかもしれませんが、音に個性がなくなっていきます。ええ、音は綺麗になっていくんですが、優等生で、しかもキチンと鳴っていますよと主張はするんですが、面白くないんです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　A400は、あちらで、Luxmanの真空管アンプでオペラを聴いていた方がいらして驚いたことがありますが（どのように聴くかは個人の自由ですが）、東海岸サウンドを奏でる正当派の最後のスピーカーのように（勝手に）思っています。ＡＲ（AR-3a）のように低音は重くなく、高域まで素直に綺麗に伸びて、実に透明感のあるサウンドを奏でます。なのに、陰影を深く刻むように感じます。バーンスタインが率いるニューヨークフィルのサウンド、まさにラプソディ・イン・ブルーを彷彿とさせます。わたしにとって、これぞ東海岸のサウンドと思い入れが深いのですが、ちょっと聴いていてしんどいなぁ、と思うのは年のせいでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ところで、つい最近、以下のスピーカー達を手放しました。どれも素晴らしいスピーカーでしたが、特にSCANDYNA A403は、音楽とは、を考えさせてくれました。どこかで書いたかもしれませんが。&lt;br /&gt;
　Acoustic Research AR-2ax&lt;br /&gt;
　Wharfedale DOVEDALE3&lt;br /&gt;
　SCANDYNA A403&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また、真空管アンプのLuxman MQ-80を手放しました。これは6336Aを使った力強いアンプでしたが、わたし的には、オーソドックスのMQ-60の方が合っているように思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　オーディオを整理していますが、一つは、香里園宅にそのうち帰ってくることにしたからです。春先には帰ってきます。&lt;br /&gt;
　実は、今、香里宅にいます。そして、お気に入りのDenonのSC-107（全てピアレスのユニット）でルクプルを聴いています。こんなことって殆どありませんが……　。大変素直な音で、少々ひねくれているルクプルが優しく聞こえるが不思議です。ドライブしているアンプはPioneerのA-UK1。２０数年前にオーディオ南海で２万円ぐらいで叩き売っていたものを買ったのですが、SCANDYNA A403と同様に、音楽とは、ということを考えさせてくれた名品中の名品だと思っています。ほんと、このアンプで十分です。&lt;br /&gt;
　オーディオって不自由ですね。比べてなんぼの世界にはまってしまいます。でも、音楽は自分が聴いているんですから、比べてなんて、本当は必要ないんですね。比べると、音楽から離れて、細分化されて音の違いに入っていきますから。そんなのはもう音楽じゃないのでしょう。それが良いというのならば、それは趣味ですから、いいのだと思います。ただ、最近つくづく思います。ｌ自分があって、音楽があって、そこに人生があるのですから。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tekkou_mail/39572061.html</link>
			<pubDate>Mon, 23 Dec 2013 15:13:56 +0900</pubDate>
			<category>その他趣味</category>
		</item>
		<item>
			<title>２００Ｖのダウントランス――昔昔が蘇りました。</title>
			<description>○○○○　様&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ご連絡が遅くなりました。&lt;br /&gt;
　購入させて戴きましたのは１２月でしたが、設置できたのは、先月です。&lt;br /&gt;
　その後、１５００Ｗのダウン＆アイソレーションタイプが販売されたのでしょうか。見落としていたかもしれません。&lt;br /&gt;
　結果ですが、流石ですね。それにうなりは全くと言っていいほど感じません。アンプのトランスのうなりの方がよく聞こえてきます。あれっ、こんなにうなっていたかなと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ところで、昼間よりも、やはり夜間の方が静寂性を感じます。これは、視覚と、心、身体の状態が影響しているのだと思っています。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　ただ一つ、気になるのは、昼間は太陽光発電のパワーコンディショナーが近くにあるので、これが以外と、悪さをしているような気もします。が、これも軽微だと思っています。オーディオ用の電源は２００Ｖ回線で、太陽光発電は１００Ｖ回線ですから、電源からではなくて、直接、悪さをしているような気もします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さて、以前にも少しご連絡したことがありますが、昔、昔、十数年前、無停電装置を導入したのですが、バッテリーからＤＣ－ＡＣインバーターを通して、正弦波の交流１００Ｖを出すというものでした。大変重く、これは別にいいのですが、作動時に冷却ファンの音が五月蠅くて、ピアニッシモのときには少し気になります。&lt;br /&gt;
　最初の導入だったので印象が強かったのかもしれませんが――&lt;br /&gt;
　DL-103がうまく慣らせなかったのですが、ええっ！　こんなに低音がでるのかと驚きでした。これまで埋もれていたところの音が出るというような感じでしたが、でも、そんなことより、音楽性が素晴らしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　１０年近く前に、この機器から別のものに替えたのですが、なんか違っていました。同じようなものでも違うのでしょうね。&lt;br /&gt;
　それでも、不思議なもので、音って、一旦聞こえ出すと、やはりちゃんと聞こえるんですね。慣性、惰性のようなものがあるのでしょうか。暫くは、前の装置から替わっても平気だったのですが、でも、考えると、そこから、また放浪が始まったのかもしれません。&lt;br /&gt;
　数年前、こちらの機器もお釈迦になって、代替機の効果の程も疑問でしたので、電源のパルス除去などの装置を導入しました。確かに、これはこれで少し効果はありましたが、気づくと、機器による音の差とか、そういうものを探し求めだしていました。でも、これは音楽には関係ないんですね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今回、導入・設置させていただいて、古のことが蘇ると共に、しかと新たにしました。&lt;br /&gt;
　音なんてどうでもいいんです。それに、音だけではなくて、機器がどうのこうのとか、そんなことも、もうどうでもいいんです。ほんと、音も、機器も、関係なくなります。&lt;br /&gt;
　たとえば、女性がいて、単に（ぶすっと）立っているだけなのか、微笑みながら話しかけてくれるのかぐらいの違いがあります。&lt;br /&gt;
　ですので、音とか、単体の機器がどうのこうのとか、静的なことは関係なくなるのでしょうね。ほんとに、それぐらいの差がありました。&lt;br /&gt;
　ほんと、音も機器もどうでもいいんです。音楽がそこにあります。微笑みかけてくれるものがあります。&lt;br /&gt;
　次元が異なるのでしょうね。繋がりや一体感がそこに出来て、そうしたら、別に機器はなんて、何だっていいんだと思います。&lt;br /&gt;
　あとは心地よく音楽を聴くだけです。いつもそうなんですが、音楽を聴きながら、寝ています。でも、心はちゃんときこえているんですね。不思議なものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　少し残念なことは、設置場所が実家で、今、あまりそこに行けないことです。聴けないということが残念です。&lt;br /&gt;
　でも、不思議なことに、今、別のところにいますが、普通の電源――パルス除去はしていますが――のシステムでも、より深く聞こえるんですね。これはいつも思うことですが、一旦聞こえだした音は聞こえる？　不思議なことです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　最後にご質問ですが、トランスの漏電ブレーカーのスイッチを、電源スイッチの代わりに使っても大丈夫でしょうか？　よろしくお願いいたします。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tekkou_mail/39224971.html</link>
			<pubDate>Sat, 13 Jul 2013 21:20:57 +0900</pubDate>
			<category>その他趣味</category>
		</item>
		<item>
			<title>『ニュー・シネマ・パラダイス』＃１／３</title>
			<description>『ニュー・シネマ・パラダイス』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＃１／３&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ブログに記事を載せるのも久しぶりです。きっと、これを最後にまた暫く音無の構えになるのでしょうね。&lt;br /&gt;
　ところで、映画を観ないわたしが何を言うのでしょう？　『ニュー・シネマ・パラダイス』――ＬＤを二枚購入しました。一枚は、完全版で、「トトが忘れられなかったもう一つの物語」と記載されています。&lt;br /&gt;
　さて、それぞれの人生を（他人が）論じるというのは、適切ではなく、人それぞれが（その個人が）どう感じるかということ――を痛感しています。&lt;br /&gt;
　ちょっと脇道へ入りますが、最近、つくづく嫌気がさしています。嗚呼くだらない～と思いながら、このくだらないことが自分の人生なんだと思っています。もちろん、実生活（プライベート）だけではなくて？　仕事上のこともあります。いえ、それが生業ですから、文句言わずに、粛々と自分の与えられた道を進んでいます、というのは良く言い過ぎていますけど、走れるだけ走って倒れたら、そのときに考えようと思っています。でも、阿呆らしい～　休み休みがんばります。身体が一番大事ですから。閑話休題。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　映画の筋を含めて、全うなことを書くのはわたしにはできないので、感じたところを書いています。３分割して逆順で載せていますが、竜頭蛇尾になっています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さて、映画では、少年、また青年の頃のサルヴァトーレを「トト」と呼んでいましたが、ここでも、少年、青年のサルヴァトーレをトトと呼ぶこととします。少年の頃のトトと、青年の頃のトトとでは、懸隔がありますから、同じトトと呼ぶには相応しくないかもしれません。&lt;br /&gt;
　特に、青年期のトトにとって、青い瞳のエレナは、とても美しい人で、彼の心を惑わすかのようにして、彼は恋の虜になります。&lt;br /&gt;
　少年の頃のトトは、映画館「シネマ・バラダイス」の映写室が、彼の夢の世界でしたから、映写室が彼の憧れだったのでしょう。&lt;br /&gt;
　少年、青年、壮年と、それぞれのトト（サルヴァトーレ）がいるわけですが、それぞれの個性があって、まるで別人のように生きています。この辺りが明確に区別できる方と、そうではない方とがいますが、まぁ、これはそれぞれの発達過程ということになるのかもしれません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　映画『ニュー・シネマ・パラダイス』は、子供のときの思い出と、トト（サルヴァトーレ）がエレナに抱いた恋心とが、思い出として沈められます。そう、わたしたちの思い出と同じようにです。&lt;br /&gt;
　誰もが経験したことのある片思いの恋と……ということになりますが、それらは心の奥底に沈められて、人はまた歩き始めるのでしょう。&lt;br /&gt;
　そうして何時しか、歳月は流れ、真実は、光り始めるときを待っていたかのように、纏っていたものから解き放たれます。それがどのような形で生じるかは、これまた人それぞれでしょう。呪縛から無理矢理引きはがすというものではなく、自然と解き放たれるときを待つというものでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　映画では、そこに仕掛けのようなものを設けていますが、特にノーカット版では濃厚です。サルヴァトーレの現実との接点を強く意識していますが、まぁ、これは言わずもがなというものでしょうか。&lt;br /&gt;
　トト（サルヴァトーレ）にはアルフレードが絡んできます。アルフレードの「生きる」ということに、トト（サルヴァトーレ）が絡んでいたという方がいいのかもしれません。アルフレードは、何時もトト（サルヴァトーレ）に語りかけていたのでしょう。自分自身の心に問うていたのかもしれません。&lt;br /&gt;
　その声が何時、サルヴァトーレに届くのか。距離、時間は、関係ないのでしょう。すべては懸隔として表していいのかもしれません。&lt;br /&gt;
　懸隔は、必要なものです。運命の輪が交差するには――再び巡り合わされる、その時が必要なのですから。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　サルヴァトーレにとって、エレナは、気づくか気づかないかは別として、心の中に何時も生き続けていました。これもわたしたちの心の中に生き続ける女性と同じです。と、ちょっと乱暴な言い方をしていますが。&lt;br /&gt;
　ところで、恋心は、心を惑わすものでしょうか。心が惑われると真実の窓が曇るのかもしれません。どの窓が曇るのか？　それは、さて、人によりけりということでしょう。わたしの場合は、愛すること、愛していること――この窓が完全に曇ってしまいました。でも、それはそれで良かったのかもしれません（良いとか悪いとかではなくて、そういうものなのでしょう）&lt;br /&gt;
　時を経て、色々なことが分かります。少し時を経て、分かったこと、そしてまた、長く時を経て、知ったこと――今、わたしがあることは、すべて、そのお陰なのだと思います。&lt;br /&gt;
　そうして、静かに祈ることは、その方の幸せ――とかいうと、何言っているの？！　まだ、心が曇っている証拠だわ！と、陰の声がしますが、まぁ、それはそれとして、わたしが何を感じるかは、あくまでもわたしのものなんですから……&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　サルヴァトーレは、アルフレードが彼（トト）に託した言葉のとおりに、生まれ故郷のシチリアの村（ジャンカルド）には帰って来ませんでした。そこには、３０年という歳月が流れていました。&lt;br /&gt;
　でも、誰しもが同じなのでしょう。理由はともあれ、誰しもが、故郷に置き忘れたものがあって、それを確かめる術がないのかもしれませんが、確かめようとはしません。&lt;br /&gt;
　忘れていた？　乗り越えた？　どのように表現するかはともかくとして、生きるという二の足はそこにはなかった？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　サルヴァトーレの場合は、アルフレードが呼び寄せたのでしょうか。アルフレードが、サルヴァトーレに微笑みかけているようです。&lt;br /&gt;
　ジャンカルド村に帰ったサルヴァトーレの、時は遡り、古の記憶が蘇り、人は再び魔術に陥るのでしょうか。この辺りのことは、ノーカット版が赤裸々に苦悶を表現しますが、こういうのは言わずもがなかもしれません。通常版では一切触れられていません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ともあれ、サルヴァトーレが今あることは、このシチリアのジャンカルド村で生まれ育ったが故です。&lt;br /&gt;
　そして、エレナを愛していたこと――わたしも……　嗚呼、奇しくも３０年近い歳月が流れていますが（というと余りにも大袈裟過ぎますが）置き忘れたもの、心の奥にしまい込んだものがありますが、これは誰しもがあることです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　アルフレードは、視力を失って、その代わりに何かを――感じる力を得たのでしょう。映画館は、「ニュー・シネマ・パラダイス」として生まれ変わります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ところで、アルフレードがトトに話したお伽噺――王女と兵士の話は、わたしには、なぜ、兵士が立ち去ったのか、良く分かりませんが、それは、その兵士が思うこと、感じることだと思っています。&lt;br /&gt;
　きっと、誰しもが同じような経験をもっていて、それぞれの思いで立ち去っていったのでしょうから、兵士がどう思って立ち去っていったのかは、それは兵士の思いで良いのだと思っています。&lt;br /&gt;
　最近、つくづく思うのですが、周りの評論はどうでもいいんです。結局は、それをやっている本人がどう感じるかなのかだと思います。実際、周囲を見ると、ほんと、評論家ばかりが多くて、ほんとに馬鹿馬鹿しく、苦々しく思います。これでは、船頭多くして船山に上る、ということになります。いえ、実際に、船を漕ぐ人がいなくなりますから、潮目を彷徨うだけでしょう。そうして、また、あれやこれやと評論ばかりすればいいんです。辟易とします。実際、船はどこにもいきませんが、いえ、その中には一生懸命漕いでいる人もいるんです。評論家は生きてはいませんが、漕ぎ手だけが今を生きている、ということを思い知ります。評論家はいつも評論ばかりしているだけですから、振り返ることもなければ、サルヴァトーレの母の言うところのまぼろしも持たないのでしょう。閑話休題。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『ニュー・シネマ・パラダイス』は、最初、ノーカット版（オリジナル版）を、今では忘れ去られてしまったレーザーディスクで観ました。３時間はありました。結構長かったです。&lt;br /&gt;
　オリジナル版のジャケットには「トトの忘れられなかったもう一つの物語」というコメントが付してありますが、それは本来サルヴァトーレの心の中にしまわれるものだと思っています。つまりは観るものには必要ないもののように思っています。却って、余計な現実に巻き込まれて、サルヴァトーレの生々しい心の動きと行動とを見せつけられて、観る側の気持ちが濁ってしまいます。が、こういうのが評論なのでしょうね。当事者の思いや行動が大切なのであって、周囲がとやかく言ってもなんの意味ももたないことです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ところで、通常版では、何カ所かカットされているのですが、これ（カットされている箇所）が大変分かりやすいように思いました。先ず、初めに感じるのが、エレナが足早に通り過ぎていくシーンです。オリジナル版では、幾分、誇張されていて、違和感を覚える場面ですが、エレナを追うサルヴァトーレは、彼女に追いつくことがなかなかできなくて、それがエレナとサルヴァトーレの関係を象徴しているかのようで、そういう意味でオリジナル版は面白いですが、単にそれだけです。&lt;br /&gt;
　あと、何カ所かカットされているところが分かりますが、まぁ、それはそれとして、最後の箇所は、後段に譲ります。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tekkou_mail/38278929.html</link>
			<pubDate>Sun, 22 Jul 2012 13:42:49 +0900</pubDate>
			<category>映画祭</category>
		</item>
		<item>
			<title>『ニュー・シネマ・パラダイス』 ＃２／３</title>
			<description>＃２／３&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　子供の頃のトト――わたしの遊び友達にそっくりな子がいました。後年にも、何人か、挙げることができます。&lt;br /&gt;
　青年の頃のトト――身近に彼そっくりな奴がいました。&lt;br /&gt;
　これは、誰しもが感じることなのだろうと思います。『ニュー・シネマ・パラダイス』は実に身近なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　エレナが告解に現れたとき、牧師と入れ替わったトトは、自分であることを告げますが、そのときにエレナから宣告を受けます。あなたを愛していないのと。&lt;br /&gt;
　つらい宣告ですが、トトは、エレナが愛すまで待つと彼女に宣言します。トトはエレナの家の、彼女の窓の下で彼女が窓を開けるまで、毎晩待ち続けます。わたしは、映画の中でアルフレードが話をした「王女と兵士の話」を思い出すのですが、同じように、トトは、エレナの家の下で彼女が心を開くのを待ちます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　トトが、１００日を待つ兵士の気持ちをどのように反芻していたかは知る由もありませんが、トトはトトのやり方でエレナ心が開かれるのを待ちます。&lt;br /&gt;
　ただ、トトは、エレナな心を知りません。窓の下で待っていたときも、窓は少し開かれていて、開かれるのを待っていたのかもしれませんが、新年を迎えて、その窓は、ある決意のもとに、閉ざされてしまいます。&lt;br /&gt;
　トトの場合は、今回は、その後直ぐに、エレナの心を知りますが、恋の真実、いえ、相手の真実というのは、相手にはなかなか分からないものかもしれません。&lt;br /&gt;
　でも、そのときに真実が分からないから、人生は面白いのかもしれません。ゆっくりと真実が分かるのが人生なのでしょう。人生は複雑で、多くの縁のようなものが絡み合っています。その糸がほどけていくのには時間がかかるものなのでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　運命というものを信じながら、そしてまた運命を確信しながらも、ふと、その運命の輪が、既に遠ざかっていることを知るときがあります。それが真実なのかどうか分かりませんが、そのときの運命は残酷に思います。&lt;br /&gt;
　でも、それは、二度と巡り合わないということではないのかもしれません。そう、二度と巡り合わないことはない、ということを信じながらも、時は過ぎていきます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　アルフレードは、トトの進むべき道を感じていたのでしょうか。エレナと共には、幸せにはなれない、と確信します。そうしてまた、彼はトトの可能性を信じていたのでしょう。なにか、そこに感じるものがあったのでしょう。&lt;br /&gt;
　アルフレードはトトに、ジャンカルド村のすべてを忘れて、振り返ることなく、自分の信じた道を進めと忠告します。見送った駅のホームでは、二度と帰ってくるな、家には入れないと、別れの言葉を告げます。&lt;br /&gt;
　アルフレードは、感じたことに忠実だったのでしょう。それだけ、トトを信じていたとも言えます。&lt;br /&gt;
　映画では、映写室から火事があって、アルフレードは視力を失ってしまいます。それを助けたのはトトですが、アルフレードは瞳の光を失って、心の目を開いたという設定になっています。&lt;br /&gt;
　わたし達は見えるものに頼りがちですが、アルフレードは心の声が聞こえていたようです。そうして、その声に忠実に生きようとしました。超越的な設定と言えばそうなのですが、心の声に従うことは、一方で、その人を信じる、その可能性に託してみることに絶大な信頼を寄せるということですから、（超越的なものを信じなくても）潔さがそこにはあります。アルフレードの愛がそこにあります。結果、トトとエレナは別れることになりますが、アルフレードがそうさせたのか、そういう運命だったのか、わたしには分かりません。ただ、二人の運命の輪は、それぞれの軌道を回ることになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　３０年という時が経って、今は亡きアルフレードですが、その彼がサルヴァトーレをジャンカルド村に招きます。アルフレードの葬儀に参列するために、サルヴァトーレは故郷のジャンカルド村に帰ってきます。&lt;br /&gt;
　アルヴァトーレにとって３０年振りに訪れた故郷ですが、なにも変わってはいないと言います。サルヴァトーレにとって不思議な感覚でした。そう、なにも変わってはいないのです。&lt;br /&gt;
　サルヴァトーレの母は、あなたの生活はあちらで、こちらの生活はまぼろしだと言います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そこから映画は一気にラストシーンへと向かいますが、アルフレードが残したフィルム――それぞれの解釈があるかもしれませんが、これはアルフレードがサルヴァトーレに残したものですから、サルヴァトーレが感じることなので、わたしの思いはどうでも良いのでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　それぞれの愛があって、&lt;br /&gt;
　それぞれの愛し方があり、&lt;br /&gt;
　それぞれのそのときがあって、&lt;br /&gt;
　それぞれの人生がそこにある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　サルヴァトーレにとって、ジャンカルド村は、一つの歴史でもあって、映画館「ニュー・シネマ・パラダイス」はその象徴なのですが、映画の中で、「ニュー・シネマ・パラダイス」は、一つの幕を閉じて、爆破されることになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「ニュー・シネマ・パラダイス」は、ジャンカルド村の人々にとって唯一の娯楽であり、社交場であり、人生でもあったのですが、時は移ろい、映画館は瓦礫と化してしまいます。時の流れは、そういうものかもしれません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　人々の心の中に去来するものはそれぞれなのでしょう。心には思い出がありますが、「ニュー・シネマ・パラダイス」が瓦解しても、それは一つのピリオドかもしれませんが、心に刻まれたものはしかとあって、それを噛みしめる瞬間でもありました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　オリジナル版には、その前後に、サルヴァトーレとエレナとの物語があります。それは悲しく切ない物語ですが、サルヴァトーレは、失ったものを取り戻そうとするかのように、まぼろしを求めるかのように足掻きます。でも、果たして、過ぎた時を取り戻すことはできません。&lt;br /&gt;
　そうして、サルヴァトーレは知ります、そこにアルフレードが絡んでいることを。通常版では、その部分が、すべてカットされています。&lt;br /&gt;
　確かに、ええっ？！というほどのカットがされているのですが、オリジナル版で明かされる物語はサルヴァトーレの心に秘めておいた方が良いものです。&lt;br /&gt;
　そこでは、二人の運命の輪が再び接近することになるのですが、これはもう言わずもがなということでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　秘密としての真実は、その人のものなのでしょう。その人の心の中で、感じることはあるのだと思いますが、映画の中であったとしても、真実として曝くことは必要としない――良しとしないものかもしれません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　サルヴァトーレとエレナとの間に、果たしてアルフレードが絡んでくるのですが、あのときの真実が明らかになったところで、何が変わるというのでしょう。特に映画ですから、美しいものを美しいものとしてそっとしておくことも必要なのでしょう。カットは時間的な都合としても、良しとしておく方が良いようです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tekkou_mail/38274111.html</link>
			<pubDate>Fri, 20 Jul 2012 18:44:36 +0900</pubDate>
			<category>映画レビュー</category>
		</item>
		</channel>
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