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一昨日8月6日に倉敷チボリ公園を運営するチボリジャパン社の解散と
本年末でのチボリ公園の閉園が正式に決定した。
私が学生の頃、岡山市制100周年事業として操車場跡地にチボリ公園
を作る話が出てきて、その後、運営会社の不透明な経理などが問題にな
り、政治的にも社会的にも大問題になった。
結果、市長が辞職して選挙になって、推進派が破れ、安宅さんが当選し
て、岡山市は事業から撤退した。
チボリの件については、あの時点1991年に、岡山市民は賢明な選択を
することができたと今更ながら思う。
(その後の操車場跡地の開発計画の迷走は別として)
このチボリ撤退の意思表明になった選挙は、私にとっては別の争点でも思
い出深い選挙だった。
私は、その当時、百間川周辺で、岡山の自然を守る会わんぱく教室で子ど
もたちの遊び派を通じた自然体験活動の企画運営をしていた。時はリゾー
ト・バブルの時代。そのフィールドに突如、ゴルフ場建設の計画がおこり
私は、いてもたってもいられなくて、新聞への当初をしたことをきっかけ
に、ゴルフ場建設反対運動に身をおくことになった。
(この時の経験は、とてもとても大変だったし、何故?という理不尽なこと
の多さに打ちひしがれる毎日だったが、この経験のために市役所を受験しよ
うと決断して、今につながっているので、貴重な体験だったと思う。)
チボリ選挙では、この百間川ゴルフ場建設の是非も争点になった。このゴル
フ場建設の主体も岡山県が主に出資し、岡山市も拠出する第三セクターだっ
たので、県議会でも取り上げられ、当時の長野士郎知事は、「百間川は江戸
時代に作った放水路であるから自然ではない。(だから自然保護を論議する
必要はない。)」という発言も飛び出てきて唖然としたことを鮮明に覚えて
いる。
結果、安宅さんは、百間川ゴルフ場建設についても反対派だったため、この
事業からも撤退。ゴルフ場建設は止まった。これも、長野知事の逆鱗に触れ
て、反対したものへの風当たりは強かった。
しかし、その後のことを考えたら、この時、河川敷をゴルフ場にしなかった
ことが、今日的な意味を百間川に与えることにつながったと思う。(県は
その後ほんとど何もしなかったけれども・・・)
その後、私たちは、当時、ゴルフ場反対の理由で挙げていた「川は一部の人
ではなく、みんなのもの」という主張を自分たちなりに具体化するべく、ふ
れあい行事を行ったり、全国水環境交流会に参加して河川法改正の動きにも
参画することになり、1997年には河川行政が転換し、市民参加や環境保
全が河川(特に百間川などの国管理河川)で主張しやすくなり、河川事務所
と市民団体のパートナーシップ形成やから旭川流域ネットワークへ、百間川
などでの自然再生実験の実施という、ゴルフ場反対運動をしていた当時、こ
うなったらいいなと思った方向に転換していくことになった。
ここに来て、チボリ公園も1991年の時点で、長野知事やその取り巻きが
我をはらずに、本来趣旨と併せて政策転換していればよかったのにと思う。
当時、チボリに反対は、概ね百間川ゴルフ場も反対だった。私たちは、河川
行政がいずれ環境配慮を目的化すると思っていたし、第三セクターのリゾート
開発が構造的に破綻を内在していると思っていた。
どちらもその通りになった。
百間川は、あの時点で引いたことが、次世代へ300年前津田永忠から続く
遺産を次世代に伝えることにつながった。
チボリは、あの時点で引かなかったことで、資産を食いつぶすと同時に、次世
代への負の遺産を作った。
チボリは、開園バブル後の経営判断ではなく、1991年当時に政策転換の判
断をすべきだった。チボリ公園というレジャー施設建設に固執するのではなく、
本場コペンハーゲンのチボリ公園が創出しているコペンハーゲン市の発するコ
ンセプト「高齢者から子どもまでが安心して文化的に暮らせる都心空間の形成」
そのためのソフト提供拠点整備というところを岡山圏域で真の意味で創出する
ことにつなげていけば、現在、どれだけ今日的な発信力があっただろう。
県やそれを支えた経済界や政界等の責任は厳しく問われることは当然だが、
でも、コペンハーゲンにあるチボリの持つ価値の都市計画への再導入は、ここ
に至って遅きに失したが、せめてチボリの遺産として活かしていかなければい
けないのではないか。
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