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道徳教育不要論・護憲派の非武装論の誤り―現代政治と本覚思想④

 先に本覚思想について、その深い哲理を経ずに、「人間には本来、覚・仏性が備わっているのであるから、我々はすでに仏である」という主張となり、さらに修行不要論という極端な主張さえ生じてきたということをお話しました。
 
私は、この極端な本覚思想と、道徳教育不要論や非武装中立論が重なり合うように思えてならないのです。
 
天台の本覚思想は『大乗起信論』から発しています。そこには、「覚・不覚を超えたところ(不二)に真の覚りがある」という意味のことが記されています。

「凡夫と仏」のように、相反する「二」を超えたところに―すなわち、凡仏の「不二一体」のなかに真の仏(覚り)があるというのです。
 
例えば、馬術において「鞍上に人なく、鞍下に馬なし」という言葉があります。現実には人と馬の両者がいます。

しかし、「人と馬」という現実をこえて「人馬一体」となったところに真実、すなわち、馬術の名人芸があるというのが、「鞍上に人なく、鞍下に馬なし」という言葉の意味です。
 
これこそ「不二一体」の分かり易い事例ではないでしょうか。「娑婆即浄土」「煩悩即菩提」「生即死」なども同じです。
 
馬術でいう「鞍上に人なく、鞍下に馬なし」という状態は、まさに名人芸でしょう。

しかし、いうまでもないことですが、この境地には簡単に行き着けるものではありません。血のにじむような練習を繰り返した結果、やがて得られる境地でしょう。
 
同様に、政府が道徳教育の必要性を訴えた時、反対論者は、「道徳は教えるものではない。自然に身につくものだ」という論を展開しました。
 
それに賛同した国民は、日本人の伝統的な「人間は本来、善なるものをもっている」という思いがあったのでしょう。
 
しかし、それは家庭や学校や社会の繰り返しなされる教育の上に現れるものであるということを忘れた議論であったと言えるのではないでしょうか。
 
護憲派の非武装中立論の憲法九条があれば平和であるという考えも同じです。
「人間は本来、善なるもの」であるでしょう。しかし、現実には、世界中、いたるところで喧嘩があり、戦争があるのも事実です。まったく悪意を持たない子供や、抵抗手段を持たない高齢者が殺されることも稀ではありません。
 
突出した武力をもつ中国が、現にフィリピンやベトナムが領有権を主張している南シナ海のサンゴ礁を埋め立てて軍事基地化しています。
 
東日本大震災のとき、自衛隊が被災地に重点的に配備されましたが、この間隙を突いて中国軍が南西諸島への侵攻の態勢をとろうとしました。
 
もし、このとき米軍が牽制しなければ、尖閣諸島や沖縄は中国の実効支配する状態になっていたでしょう。
 
このような現実に対処するために警察があり、軍隊があり、外交交渉がなされるのです。何もしなければ平和であるのではなく、平和を守り領土を護る日々の努力の上に平和な日々が存在するというのりが現実です。
 
「人間は本来、善なるもの」であるでしょう。しかし、それはさまざまな努力の結果として発現されるものなのです。

それが教育であり、修行であり、政治や外交努力であるのです。この現実を的確に見つめなければ、生きた議論にはならないでしょう。

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