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小椋 佳
1966年、東大法学部在学中に寺山がディスクジョッキーを担当する
ラジオ番組に応募して自作の曲を披露し、その才能を認められ、
当時、世田谷区下馬2−5−7の寺山の自宅兼サロンに
出入りするようになった。
その後1970年に天井桟敷レーベルで自主制作したアルバム
「初恋地獄篇」に以下の3曲を提供しています。
(その時は第一勧業銀行=現在のみずほ銀行の行員)
「ラブレター」
「僕は恋してる」
「逢いたい」
(ジャケット撮影は篠山紀信)
このアルバムは2004年にデジタル・リマスタリングされて発売されていますので聞ける機会があるかと思います。
小椋と天井桟敷との接点はこのアルバムだけですが、
小椋が寺山から受けた影響を感じさせる曲があります。
1972年に発売された「彷徨」に収録された
「木戸をあけて家出する少年がその母親に捧げる歌」です。
歌詞がわからないうえ、他の曲との関連もわからないので
あくまで憶測です。
例のラジオ番組を聞いたレコード会社のプロデューサーが
小椋と面会し、デビューが決まったといいます。
・・・とここまで書いて新たな事実が!
よそのブログから興味深い文章をお借りしました。
昨日のラジオ深夜便を聴いた人も多いと思うが、小椋佳のデビュー事情を初めて知った。どうして銀行員シンガーソングライターが誕生したのか長い間の謎がようやく解けた。その始まりは宝くじに当たった青年がいたということ。その青年は宝くじの賞金を寺山修司に提供して寺山修司が3日間自作のミュージカルを上演した。それを学生だった小椋佳がたまたま見た。幕が下りたときに小椋佳は非常な寂しさに襲われた。「自分は永久に見る側でしかないのか」小椋佳は寺山修司が何者かということをまるで知らなかった。そこで電話ボックスに飛び込んで電話帳を繰った。寺山修司の名が載っていた。電話をかけた。「僕と一緒に仕事をしませんか?」やんわりと断られた。それが最初の出会いとも言えない出会いである。
それからどのくらい時が経ったか知らない。谷川俊太郎がラジオの番組をやっていた。しかし谷川が長期アメリカにいくというので寺山修司がピンチヒッターとなった。寺山は呼びかけてラジオに出たいと思う若者を集めた。それを知って小椋佳はギターを抱えて放送局に出かけて行った。放送の前に歌った。「今日は君でいくから」と寺山が言った。それが2度目の本当の出会いである。 それから寺山は小椋佳を引き回した。小椋に歌わせたり小椋の歌を他の歌手に歌わせたりした。小椋は大学の卒業試験は寺山の家に泊まってそこから出かけた。そして寺山自身のアルバムの中で小椋を歌わせた。その歌声をある音楽プロデゥーサーが聴きつけて、美少年に違いないその声の持ち主に会いにきた。そこには一人の生真面目そうな銀行員がいた。(原文ママ) この続きは「小椋佳」wikiの中の「デビューの経緯」欄に詳細に
記されています。面白いです。
それにしても宝くじの賞金で作られた3日間のミュージカルって何でしょう?
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こちらを見ると、「てのひらの上の瓶詰」という作品のようです ryo-jin.at.webry.info/201411/article_12.html
2018/5/1(火) 午後 11:12 [ haze ]