演劇実験室◎天井桟敷の人々

奇人・変人・怪優・家出人・亡命者・・・1000人余の人々の今を追う

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次回は有馬ひろみです。

林檎童子


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                             林檎童子

昭和42年6月1日発行の天井桟敷新聞の片隅に
芸名決定!の見出しで次の名前が書かれています。

新宿新次・カイン支邦虎・紫乱四郎
林檎童子・荒野魔人・子守唄新八
母恋情次・六月紫陽花・小松菜緒子


天井桟敷新聞は公演チラシを兼ねていて、
ほぼ公演ごとに発行されています。
この号では天井桟敷第二回公演「大山デブ子の犯罪」
のチラシを兼ねていますが、
林檎童子はこの劇に出演する一方で
本号の編集人として横尾忠則と並んで記載されています。

新聞第5号では次のように紹介されています。

リンゴのような恋に熱中して劇団を休団していたが、この度復帰した。
果たしてふられたのかふったのか?
林檎ハ何ニモ言ハナイケレド


新聞7号には次のように紹介されています。

  上野末広亭の第一回実験劇場で、
タイガースの「モナリザの微笑」をバックに
瞼の母の一席を口演して好評!
モダンアートで「瞼の母における愛情研究」として改訂してアンコール。
6月29日・30日の両日には
安保版七〇年「八百屋お七」で熱血狂乱口演!

林檎童子の出演作品は下記になります。

大山デブ子の犯罪(1967)

千一夜物語新宿版(1968)

安保心中―新宿お七(1968)

伯爵令嬢小鷹狩鞠子の七つの大罪(1968)

書を捨てよ町へ出よう(1968)

※「瞼の母」「瞼の母における愛情研究」
(判読しづらいので、もしかしたら愛情→愛憎)
についてはわかりません。

退団後の足取りは不明ですが、
2014年に田中未知が企画した
『寺山修司を 歌う 読む 語る』というイベントにかつての
劇団員と共に参加されたとのことです。


 個人的な事情で長い間お休みさせていただきました。

あと73名ですが、年内完結を目標に頑張りますので、

引き続きご注目いただければ幸甚に存じます。

    夜空


前田 律子 その2


     前田 律子



前田律子は劇団には3年間在籍しました。


以下の作品に関与してたことがわかっていますが、
同時進行の中の作品以外はすべてに関与したと思われます。


 


『青森県のせむし男」制作(1967年)


「大山デブ子の犯罪」制作(1967年

「花札伝綺」小道具(1967年)



「新宿版千一夜物語」演出助手(1968年)


「怪談 青ひげ」演出(1968年)


「毛皮のマリー」舞台監督助手(1968年)


「星の王子さま」舞台監督(1968年)


「イエス」総合進行(1970年)


映画「書を捨て町へ出よう」演出助手(1971年)


 

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天井桟敷新聞に掲載された「怪談 青ひげ」の劇評を引用します。


 


・邦楽的歌唱解説つき、部分誇張的場面展開、怪奇趣味、エロチシズム
「サンデー毎日」


・ああ、ニッポンだなあ、天井桟敷だなあ。
「アサヒ芸能」


 


・一八才の前田律子の演出と、井上洋介の美術が天井桟敷では
めずらしく調和されていた。
 植草甚一氏


・現代日本人すべてに共通な郷愁と、すなわち(なきどころ)を
カタルシスしてくれるの が天井桟敷である。 
矢代秋雄氏


・不思議な 幻想の底を 流れる詩情と、見事な演出。 
富田英三氏


・琵琶が よかった、語りも よかった、蛇もよかった、 
ドナルド・リチィ氏


・大へんおもしろおかしく期待通りすばらしいものでした。
アンケート 幡谷順子氏


・花月さんが、とても良かった。もう一度聞きたい。
アンケート 浅沼桂氏


 


天井桟敷新聞7号 (1968年)には当時の近況が紹介されています。



好評の「青ひげ」の初演出のあと、すぐモダンアート公演の


「瞼の母における愛の研究」の演出。(1969年)


今まで劇団事務所に住んでいたのだが、本格的に演出勉強をするためと、


近くにアパートをみつけ独立することになった。


住所は目黒区上目黒4−36−19丸安荘。


 


個人情報について厳しくなかった当時としても、一人住まいの若き女性の


住所をこのような形で公開してしまうとは現代では信じられないことです。


 


 


前田は「居候としての寺山体験」を1998年に書き上げ、
同年に出版されていますが、


その執筆には多くの時間を必要としました。


仕事の合間を縫って書き進めていた1993年10月20日、突然の不幸が前田を襲います。クモ膜下出血でした。幸いに生命は取り留めたものの体には大きな後遺症が残りました。左半身不随。


ベッドから立ち上がるまで1年、杖を使って歩けるまでにそこから
2年を要したと言います。


その後も日常生活さえままならない日々が続いたであろうことは
容易に想像がすきます。


しかし、不屈の精神で懸命にリハビリに挑み、彼女は再びペンを執り
最後まで書き上げました。


 
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「寺山さんの元で学んだことで一番大きかったのは生き方そのものでした。何事にも屈しない頑強な精神力をたたき込まれ、寺山さんの一番嫌いな負け犬だけにはなるまいと、いつも肝に銘じてきたつもりです」
(同書あとがきより)


 


 彼女は周囲から様々な慰めの言葉をかけられたと言います。


そうした中で、寺山だったらどんな言葉で慰めてくれるか考えたそうです。


寺山だったらきっとこんな言葉で励ましてくれるに違いない。


身障者になったと思うな、
身障者の役を演じているのだと思え!


 
その役を楽しく演じることで、それからは苦しいリハビリも
楽になったそうです。


 


順序が逆になりましたが劇団退団、そしてその後について触れておきます。


退団の動機は自分の限界を知った、自分の力量を見極めたからと
語っています。


1970年の退団だとすれば、彼女の高校の先輩、そして彼女を天井桟敷に誘った東由多加の率いる東京キッドブラザーズが、ニューヨークで脚光を浴びていた時期とも重なっていて、誘いがあったのか、
誘いを断ったのかを知りたいところです。


 
前田は劇団在籍中に培った人脈を通じて
テレビ番組の構成台本を書き始めます。


修業中はアルバイトで組合事務所の事務員もしていたとのこと。
(その事務所で現在のご主人と知り合ったそうです。)


やがて構成作家として頭角を現し、11M、ウィークエンダー、など複数の


番組をかけもちする売れっ子作家となります。


27歳で結婚、二人の男の子に恵まれて、しばし育児休業。


その後、子供の成長に合わせて、仕事を少しずつ再開し、毎日新聞社の「決定版昭和史」(全20巻)の編集に3年間関わり、その後テレビ業界に本格的に復帰、仕事と家事・育児に追われる毎日となります。
そしてクモ膜下出血で倒れました。


 


萩原の「演劇実験室天井桟敷の人々」が2000年8月の出版であり、彼女の写真から推定するとインタビューは同年春先ではないかと思われます。


それから16年が経ちます。


近況をご存じの方は情報をお寄せください。




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