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前田 律子 前田は、劇団創立よりやや遅れて長崎県立西高校演劇部先輩の東由多加に
誘われて参加しました。家出したその足で、当時、東が居候していた世田谷区下馬2−5−8(俳優「下馬二五七」の芸名の由来となった番地)の
寺山・九條が住むマンションの居候となります。
皇居・二重橋を背にした創立記念写真には収まっていませんが
天井桟敷新聞には劇団創立に参加と記述されています。
(記念写真に写った創立メンバー16名説が揺らぎます)
彼女自身は創立メンバーの東とは違うという表現をしていますので
冒頭に書いたようにやはりやや遅れて参加のようです。
それはそれ、たいした問題ではないでしょう。
寺山宅兼事務所、そこでの寺山・九條・東・前田の四人による疑似家族生活は前田の本「居候としての寺山体験」(1998年 深夜叢書社)に
詳しく書かれています。
いわゆる元劇団員が書いたいわゆるテラヤマ本は作品の批評・分析・演劇論について書かれたものは少なく、ほとんどが「人間 寺山修司」に焦点を絞って、エピソードを散りばめ、著者の劇団内での活動、私生活など個人的な記憶で全体を包み込む構成のように私には思われます。編集者の思惑は誰も同じだったのかもしれません。
冷静に寺山を観察する視点、「家政婦は見た」的な視線、「そこまで書くか」とも思える暴露・・・幾つもの視点から、生々しい寺山像が浮かび上がってきます。そこには知りたくなかったこともあれば、
新発見のようなこともあります。
功罪相半ばといったところかもしれませんが、寺山個人はミステリアスな 存在でよかったと思うファンも少なくないように思います。
前田の本には、劇団創成期の貴重な情報が多く含まれていて、
とても興味深く読ませていただきました。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」
高校卒業後も演劇を続けたかった前田。
その相談相手でもあった東からタイミングよく誘われたものの、
両親に反対され逡巡を重ねていた前田。
彼女のもとに、そう書かれた寺山からの手紙が届き、
前田は家出を決行したと言います。
同書にはその言葉の真意についても書かれています。
つまり、海外での仕事などで寺山の留守が多いため、九條の助手として劇団の雑務や寺山家の家事を補助する身内スタッフとして
白羽の矢を立てられたのだと。
寺山夫妻、東、前田、この4人は同じ屋根の下で
疑似家族として生活することになります。
とはいえ年齢差は寺山⇔東が10歳差、寺山⇔前田14歳差ですから両親とその子供ということにはなりません。戦前は子沢山の家が多く、長兄と末弟の年齢差が10数歳違うことも珍しくなかったといいます。寺山にとって東・前田は年の離れた兄妹だったのかもしれません。
その“家族”生活が一年を過ぎたころ、寺山は夕食作りを当番制にすると宣言。同時に夕食は4人で食卓を囲むことも決められたそうです。一人で食事することが多かった少年時代の反動だったのでしょうか。
興味深いエピソードです。
あの有名な状況劇場との乱闘事件についても詳しく書かれています。全国どこでも同都道府県内の図書館でしたら借りられると思いますのでぜひ読まれてはいかがでしょう。※1読売新聞記事
この“家族”で健在なのは前田だけです。
「青森県のせむし男」から映画「書を捨てよ 町へ出よう」まで至近距離から寺山と劇団を見てきた前田による続巻を期待したいところです。
萩原朔美の「演劇実験室天井桟敷の人々」ー30年前同じ劇団にいた私たちー
(2000年 フレーベル館) でも前田のことが紹介されています。
※1
読売新聞 夕刊 1969年12月13日より 双方から九人が逮捕された。 渋谷署に一一〇番。 互いに乱闘となったらしい。 急に会いたくなり出かけて行った。 心配していたという。
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