栃木県内見て歩る記

主に栃木県内各地の紹介です。

小田原城

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 小田原城は、神奈川県小田原市にあった名城です。
 現在の城は再建されたものですが、城跡は史跡に指定されています。
 3月14日に行って来ました。

【小田原城の概要】
 小田原城の前身は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が築いた山城でした。
 城の規模や築城年は明らかになっていませんが、
 15世紀の中頃に造られたのではないかと考えられています。
 15世紀末、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が小田原に進出し、
 以後、北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していきました。
 小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張され、
 豊臣秀吉の来攻に備え城下を囲む総延長9kmに及ぶ総構の出現に至って
 その規模は最大に達しました。
 しかし、1590年(天正18年)、
 石垣山一夜城の築城をはじめとする秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、
 戦国時代が終焉を迎えました。
 北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、
 城は近世城郭の姿に改修されました。
 その後、大久保氏の改易にあたり、城は破却されましたが、
 稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新されました。
 1686年(貞享3年)に再び大久保氏が城主となり、
 小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。
 小田原城は、1870年(明治3年)に廃城となり、
 明治5年までに城内の多くの建物は解体されました。
 後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、
 さらに1901年(明治34年)には、二の丸に御用邸が建てられました。
 しかし、1923年(大正12年)9月の関東大震災により
 御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われてしまいました。
 その後、1934年(昭和9年)に隅櫓が再建され、
 1960年(昭和35年)5月には廃城以来90年ぶりに天守閣が復興されました。
 しかし、再建した天守はRC構造によるもので、天守最上階に高欄が取り付けられ、
 天守の本来の姿を忠実に再現するものではありません。
 続いて1971年(昭和46年)3月に常盤木門が、
 1997年(平成9年)10月に銅門、
 2009年(平成21年)3月には馬出門が完成しました。
 小田原城は、1938年(昭和13年)8月に二の丸・三の丸の一部が、
 1959年(昭和34年)5月に本丸と二の丸の残り全部が国の史跡に指定されています。

【その他】
 1枚目は銅門、2枚目は常盤木門、3枚目は天守閣、
 4枚目は天守閣から見た、豊臣秀吉が一夜城を築いた山、5枚目は城内です。
 その他の写真は下記をご覧下さい。
 http://orangestudio.homeip.net/gallery/user.php?userid=17933

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豊国神社

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 豊国神社(とよくにじんじゃ)は、
 京都国立博物館の西側にある、豊臣秀吉を祀った神社です。
 さらにその西側には方広寺があります。
 昨年の10月31日に行って来ました。

【豊国神社の概要】
 1598年9月18日(慶長3年8月18日)に亡くなった豊臣秀吉の遺体は、
 火葬されることなく伏見城内に安置されていましたが、
 死去の翌年の1599年(慶長4年)4月13日、
 遺命により東山大仏(方広寺)の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬されました。
 その麓に高野山の木食応其によって廟所が建立されたのが豊国神社の始まりです。
 秀吉は奈良東大寺大仏殿を鎮護する手向山八幡宮に倣い、
 自身を「新八幡」として祀るように遺言したと言われています。
 1599年(慶長4年)4月16日、朝廷から秀吉自身の望みとは相違して
 「豊国乃大明神」の神号が与えられます。
 4月18日に遷宮の儀が行われ、社は「豊国神社」と命名されました。
 1615年(元和元年)に豊臣宗家が滅亡すると、
 徳川家康の意向により、後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪され、
 神社自体も廃絶されました。
 滋賀県竹生島にある都久夫須麻神社の本殿は
 創建豊国神社社殿を移築したものと伝えられています。
 徳川家光は豊国神社再興の容認を検討しましたが、
 重臣の酒井忠世に反対され、取りやめになったことがあったと言われています。
 その後、江戸時代を通して再興が認められることはありませんでした。

 1868年(慶応4年閏4月)、明治天皇が大阪に行幸したとき、
 秀吉を
 「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお寒心させる、
  国家に大勲功ある今古に超越するもの」であると賞賛し、
 豊国神社の再興を布告する沙汰書が下されました。
 1880年(明治13年)、
 方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、遷座が行われました。

 豊国神社の唐門は南禅寺塔頭金地院にあったもので、
 豊国神社再建にあたって移築されました。
 この門は、金地院崇伝が1627年(寛永4年)に、
 江戸幕府から二条城の唐門を譲り受けたもので、
 その前は伏見城にあったとも伝えられています。

【方広寺の概要】
 豊臣秀吉は、1586年(天正14年)に、
 松永久秀の焼き討ちにより焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願します。
 そして、1595年(文禄4年)に完成しました。
 当時の敷地は広大なもので、妙法院はもちろん、現在の豊国神社、京都国立博物館、
 そして三十三間堂の敷地をも含むものでした。
 この時に造立された大仏は、
 東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の大きさであったと言われています。
 しかし、この大仏は翌年の1596年(文禄5年)閏7月13日に発生した
 慶長伏見地震により倒壊してしまいます。
 豊臣秀頼は1599年(慶長4年)、木食応其に命じて大仏(銅造)の復興を図りますが、
 1602年(慶長7年)に火災が起き、造営中の大仏た秀吉が建てた大仏殿は焼失します。
 1608年(慶長13年)から再建が開始され、
 1612年(慶長17年)には大仏に金箔を押すところまで完成します。
 1614年(慶長19年)には梵鐘が完成し、
 徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばかりとなっていましたが、
 梵鐘の銘文(東福寺、南禅寺に住した禅僧文英清韓の作)のうち
 「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、
 家康及び徳川家を冒瀆するものと看做され、
 大坂の陣による豊臣家滅亡を招いたとされています。
 大仏自体は大坂の陣の後も残されましたが、
 1662年(寛文2年)の地震で大破しました。
 1871年(明治3年)、方広寺境内の大部分は収公され、現在の規模となりました。

 前述の「国家安康」の鐘は現存して重要文化財に指定されており
 東大寺、知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされています。
 1614年(慶長19年)京都三条釜座の名古屋三昌により鋳造されたもので、
 高さ4.2m、外形2.8m、厚さ0.27m、重さは82.7トンです。

【その他】
 1枚目の写真は国宝の唐門、2枚目は唐門の扉、3枚目は拝殿と本殿、
 4枚目は方広寺の鐘です。
 その他の写真は、下記をご覧下さい。
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鬼子母神堂

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 昨年の12月22日、都電荒川線に乗った時に、
 鬼子母神前駅で途中下車をして鬼子母神堂に行って来ました。
 昔から名前は聞いていたのですが、行ったのは初めてです。
 境内に売店などもあり、昔ながらの雰囲気がありました。

【鬼子母神の概要】
 鬼子母神は、毘沙門天の部下の武将八大夜叉大将の妻で、
 500人の子の母でしたが、
 これらの子を育てるだけの栄養をつけるために人間の子を捕えて食べていて、
 多くの人間から恐れられていました。
 それを見かねた釈迦は、彼女が最も愛していた末子のピンガラを
 乞食に用いる鉢に隠します。
 彼女は半狂乱となって世界中を7日間探し回りますが発見できず、
 助けを求めて釈迦に縋ることとなります。
 そこで釈迦は、
 「多くの子を持ちながら一人を失っただけでお前はそれだけ嘆き悲しんでいる。
  それなら、ただ一人の子を失う親の苦しみはいかほどであろうか。」と諭し、
 彼女が三宝に帰依すると、釈迦は隠していた子を戻しました。
 こうして、彼女は仏法の守護神となり、子供と安産の守り神となります。
 また盗難除けの守護ともされています。

【鬼子母神堂の概要】
 鬼子母神堂は、東京都豊島区南池袋3丁目の法明寺に所属しています。
 法明寺は、往時は、真言宗とも天台宗ともいわれていましたが、
 明らかではありません。
 鎌倉時代の1312年(正和元年)、日蓮の弟子・日源により、日蓮宗に改宗し、
 威光山法明寺と改称しました。
 室町時代、鬼子母神が安置されて茶屋などが軒を連ね門前町を形成しました。

 鬼子母神堂は法明寺の飛地境内(豊島区雑司が谷3丁目)にあります。
 1561年(永禄4年)、山村丹右衛門が現在の目白台のあたりで
 鬼子母神像を井戸から掘り出し、東陽坊に祀ったのが始まりとされています。
 1578年(天正6年)現在地に草堂が建立されたと言われています。
 なお、正式な「鬼子母神」の表記は「鬼」の上の点がない字体であり、
 読み方も「きしもじん」との事です。

 鬼子母神堂は拝殿・相の間・本殿を一体化したいわゆる権現造の建築です。
 拝殿が入母屋造で、本殿が流造となっている変型の権現造となっています。
 本殿は小屋束墨書から、1664年(寛文4年)、
 広島藩主浅野光晟の正室・満姫の寄進による建立と判明しています。
 拝殿と相の間は本殿と同時の建築ではなく、
 金具の刻銘から1700年(元禄13年)の建立と判明しています。
 2016年度に国の重要文化財に指定されました。

 鬼子母神堂の境内には、武芳稲荷堂がします。
 これは、ここの土地の地主神であり、付近一帯は稲荷の森と呼ばれていました。

【その他】
 1枚目は、鬼子母神堂の遠景、2枚目は本堂、3枚目は境内の様子、
 4枚目は武芳稲荷です。
 その他の写真は下記をご覧下さい。
 http://orangestudio.homeip.net/gallery/user.php?userid=17933

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