栃木県内見て歩る記

主に栃木県内各地の紹介です。

善光寺2017

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 長野市の善光寺には、2009年11月2日にバスツアーで行きました。
 時間も限られていましたし、
 駐車場の関係で裏から入って裏から出た感じでしたので、
 改めて昨年9月11日に行って来ました。
 概要などは、2010年1月3日に載せた内容を修正したものです。
 その時のブログは次の通りです。
 https://blogs.yahoo.co.jp/tennnennkozi/60782532.html

【善光寺の概要】
 善光寺は、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、
 宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられています。
 現在も、天台宗と浄土宗の別格本山となっています。
 善光寺の本尊である秘仏、「善光寺式阿弥陀三尊」は、
 欽明天皇の時代552年に百済の聖明王から献呈されたものとされ、
 紆余曲折を経て推古天皇の命により本田善光の手で初め飯田市に、
 次いで現在地に遷座し、「善光寺」の名もこの本田善光の名から付けられたと
 伝えられています。
 
 戦国時代、善光寺平は信濃侵攻を行う甲斐国の武田信玄と
 越後国の上杉謙信の争いの舞台となり、寺は兵火を被り荒廃します。
 この後、善光寺の本尊は、武田信玄によって、甲府に移されますが、
 さらに織田信長の手で岐阜へ、豊臣秀吉により京の都へ、
 徳川家康の手で尾張へ移されるなど転々としましたが、
 1598年(慶長3年)秀吉の死の前日に信濃へ帰されました。

 現在の本堂は、1707年(宝永4年)に造営されたもので、
 撞木造りの江戸時代を代表する仏教建築として、国宝に指定されています。

 日本最古の仏像と伝えられる一光三尊阿弥陀如来像は、
 本堂の中の「瑠璃壇」と呼ばれる部屋に、
 絶対秘仏として厨子に入れられて安置と伝えられています。
 秘仏となったのは、654年(白雉5年)とされており、
 その姿は寺の住職ですら目にすることはできません。
 7年に1度(開帳の年を1年目と数えるため、実際には6年に1度の丑年と未年)、
 御開帳がありますが、開帳されるのは、
 本尊ではなくその代わりの「前立本尊」です。

 今回は、山門の上にも上がり、戒壇巡りもして来ました。
 戒壇巡りは、秘仏の本尊の下を巡って、仏様の分身と言われる錠前に触れる事で、
 仏様と縁を結び極楽往生の約束を頂くとの事で、
 一寸先も見えない闇の中を手探りで歩き、
 明るい光の中に戻る再生の儀式とも言われています。

【その他】
 1枚目は仁王門、2枚目は参道から見た山門、3枚目は山門から見た参道、
 4枚目は山門から見た本堂、5枚目は御開帳の時の歴代の回向柱です。
 その他の写真は下記をご覧下さい。
 http://orangestudio.homeip.net/gallery/user.php?userid=17933

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初市

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 1月11日は、宇都宮市の初市の日です。
 日が固定されていますので、これまで土日でないと昼間に行けませんでしたが、
 今年は行けました。

【宇都宮の初市の概要】
 初市は、県道1号宇都宮笠間線、通称大通りと交差する上河原通の
 上河原交差点から旧奥州街道の県道125号氏家宇都宮線の博労町交差点間の
 4車線の道路300mほどを通行止めにして行われます。

 この初市の歴史は古く、
 少なくとも寛永11年(1634年)以前から今と同じ場所で開かれているとの事ですが、
 その根拠はよく分かりませんでした。

 宇都宮の初市では、ダルマや熊手などの縁起物、黄ぶななどの郷土玩具などが売られ、
 多数の露店も出ています。
 別名花市とも呼ばれるように、植木や盆栽、切り花なども売られていましたが、
 今年は店の数が少なくなり、少し寂しくなりました。

 会場の中央には、二荒山神社の末社の市神の祠が出ます。
 市神は、市の取引の無事や幸福を与えると信じられている市の守護神です。

【その他】
 1枚目は上河原交差点の入口、2枚目は郷土玩具の黄ぶな、
 3枚目は植木の販売店、4枚目は二荒山神社の市神、
 5枚目は縁起物の売店、6枚目はダルマ売りの小父さんです。
 その他の写真は下記をご覧下さい。
 http://orangestudio.homeip.net/gallery/user.php?userid=17933

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千本釈迦堂

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 千本釈迦堂は、京都市上京区にある真言宗智山派の寺院で、
 正式な名称は瑞応山大報恩寺です。
 本堂は洛中最古の建造物として知られ、国宝になっています。
 昨年の10月30日に行って来ました。

【千本釈迦堂の概要】
 千本釈迦堂は、鎌倉時代初期の1221年(承久3年)、
 奥州藤原氏の藤原秀衡の孫である、求法上人義空によって創建されました。
 当初は草堂でしたが、摂津尼崎の材木商の寄進を受けて現存する本堂が完成しました。
 1951年、本堂解体修理時に発見された義空の願文により、
 本堂は1227年(安貞元年)の上棟であることが判明しています。
 近くが戦場となった応仁の乱で、多くの伽藍が焼けてしまいましたが、
 この本堂は奇跡的に焼けず創建当時のもので洛中最古の建造物となっています。
 本堂の内部には、応仁の乱の頃の刀疵と伝えられる跡も残っています。

 本堂は、入母屋造、檜皮葺で、桁行(正面)5間、梁行(側面)6間で、
 正面に1間の向拝を設けています(「間」は長さの単位ではなく柱間の数です)。
 堂正面は5間とも蔀戸を構えています。
 内部は、方3間の内陣の前方に梁間2間の庇(外陣)を付け、
 内陣の側面と背面には1間幅の庇を付ています。
 内陣は中央の方1間を4天柱で囲まれた内々陣とし、ここに須弥壇を設け、
 本尊釈迦如来像を安置する厨子を置いています。
 一般的な密教仏堂の平面と異なり、
 本尊の周囲を行道できる常行堂系の平面となっています。

【おかめ伝説】
 本堂を造営する際、大工の棟梁であった高次が
 代りのない柱の寸法を切り誤ってしまい困っていました。
 それを見た妻のおかめが斗組を用いたらどうかとひと言アドバイスしました。
 斗組とは、斗と肘木を組み合わせて柱の上に置いて軒桁を支える仕組みです。
 これが上手くいって、立派な本堂が完成しました。
 しかし、おかめは女の提案で大任を果たしたことが知れてはと
 上棟式を待たずに自害してしまいます。
 高次は妻の冥福を祈り宝篋印塔(おかめ塚)を建て、
 おかめの名にちなんだ福面を付けた扇御幣を飾ったとの事です。
 その後、大工の信仰を得るようになり、
 今日でも上棟式にはお多福の面を着けた御幣が飾られるとの事です。
 本堂の脇の廊下には、全国各地のおかめ人形が飾られていました。

 その他、本堂の西側奥に建つ霊宝殿には、木造十大弟子立像 10躯(重要文化財)、
 木造六観音像6躯(重要文化財)などの仏像が安置されています。

【その他】
 1枚目は本堂正面、2枚目は本堂全景、3枚目は本堂内部、4枚目は刀疵、
 5枚目は須弥壇、6枚目は本堂正面の廊下、7枚目はおかめの像です。
 その他の写真は、下記をご覧下さい。
 http://orangestudio.homeip.net/gallery/user.php?userid=17933

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