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秋は実りの時です。
店先に並んでいるいろんな果実はあたしたちに喜びを与えてくれます。
最近はもう珍しくはなくなりましたが、遠く外国の果実が目を引きます。
果実は自然に実を結ぶものもありますが、人の手によって栽培されるものもあります。
でも、どの果実も人によって創り出されているものはひとつもありません。
すべて神によって与えられた実です。
今日の聖書の言葉はこれです。
「あなたは私から実を得るのだ。」(旧約・ホセア書14章8節)
実は果実だけではなく、人の働きを通して与えられます。
時に人の働きによって結ぶ実には甘いものだけではなく苦いものもあるようです。
人が生ける神に対する信仰による畏れと信頼、感謝によって生きているなら
その結び実は神の祝福であり、人の心の喜びです。
私たちはその働きの実として多くのものを持っています。
それは私たちの心の喜びとなっているでしょうか。
実は神の恵みによってその人がつながっている根なしに実を結ぶことはできません。
聖書には次のような言葉があります。
気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。(新約・ヘブル人への手紙12章15節)
神学校の庭に一本のぶどうの木がありました。
手入れする人もないのかまるで枯れ木のように見えました。
そんなぶどうの木に誰も心にとめる人もありませんでした。
ある時神学校に入学されたひとりの人がその樹を見て手入れを始められました。
枯れた枝を切り落とし、樹のなかの腐れを掻き出し、びっくりしましたが火で虫を駆除し、
根元を掘り起こし、肥料を施されました。
するとそのぶどうの樹は生気を取り戻し、葉を茂らせ、小さなぶどうの実を結び始めました。
イエスは次のように話されました。
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、
もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。(新約・ヨハネによる福音書15章1〜2節)
また預言者イザヤは次のように語っています。
「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。
彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。(旧約・イザヤ書3章1〜2節)
このイザヤの言葉は御自分の民イスラエルの対する嘆きの言葉であると共に、
生け神によって創造された被造物を治め、その収穫の喜びに与り、
神へ感謝と礼拝をささげて生きるように創られた人に対する言葉でもあります。
この現実は人が生ける神の言葉を退け、その心に苦い根がはびこった“結実”なのです。
創世記には次のように記されています。
更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、/地はあなたのためにのろわれ、/あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、/あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、/あなたは土から取られたのだから。
あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。(旧約・創世記3章17〜19節)
しかし、使徒パウロは次のように私たちに語りかけています。
あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。
では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。
それらの行き着くところは、死にほかならない。
あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。
行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。
しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(新約・ローマ人への手紙6章20〜23節)
それでは神の平安がありますように!
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